『創価学会問題をぶつぶつ語るパート2』って感じ(笑)。テキトーに書くこともさることながら、あちこちでgizmoが書き散らしたのを集めてたりもする。平気でマルチポストします(ぉ)。
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アンチさんは「もう学会は虫の息」とか言うでしょ?
でも、そうでもないと思うんだなー。 これは中の人だからそう思うんじゃなくて、 客観的にそう思うんですよ。 アンチさんは、ネットでの学会評しか知らないし、 自分に都合の悪い事実には目をふさぐもんで、 わからないと思うのだが、これから不況になると、 宗教団体のニーズがドンドン高まってくるですよ。 これからドンドン不況になると思うんだけどさ。 宗教団体というのは、要は社会での当然の価値観とは違う 斜め上の価値観をサービスするものなのです。 「世の中カネだ」ってのが、資本主義日本の 価値観だったわけで、そういう価値観で行くと、 カネを稼げる勝ち組の人と、稼げない負け組の人が どうしても出てきちゃうわけだよ。 究極的に考えると資本主義な論理では 「負け組の人は死ね」ってなっちゃうわけ。 だけど「そうじゃないでしょ、違うでしょ」、 と言ってあげるのが宗教団体の役目。 カネ以外の違う価値観を提供してあげるんだな。 まあこれは、出来る人は、ひとりでも出来る。 自分で思索して、自分なりの価値観をゲットすればいい。 だけど、それが出来ない人が大半なわけ。 そこで宗教団体がその価値観をパッケージングして、 「はいこれどうぞ」って売るわけです。 実は、幸せってのは、人それぞれ違うからね。 「カネじゃない」って気づけば、 その人が幸せになる可能性がある。 たとえばその商品の一例としては、 組織の中で忙しく体を動かすこと、も 学会の提供する商品の中に入ってる。 自分を負け組だと責め、自己否定を繰り返し、 ネガティブな思考に取り付かれている人を、 手っ取り早く救うのは、宗教団体の役目です。 で、たぶんこれからの世の中、そういう人が どんどん増えていくと思うのです。 創価学会はたぶん衰退しませんよ。 客観的に見れば、日本の宗教団体の中では、 ある程度の地位を持ったブランドですし、 よくできた仕組みを持ってますからね。 |
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思いもよらなかったけど、
ああ、たしかにありゃ仏罰だわ。 要は浮世離れしちゃいかんってこと。 庶民と触れ合って、庶民の目線をもっていれば、 どんなにカネがあっても浮かれなかったろうし、 おかげさまということを意識できただろうに。 結局は自分を見失った罰だよね。 学会員は、いわゆる組織と関わって、 いろんな人と出会い、つきあって、 そのなかで自分の「分」を知ることが出来る。 それが自前で出来てる人は、特に組織なんて 必要ないのだろうけれど、出来ない人は、 しっかりと組織につくってのもありだな。 要は、まともな人づきあいをしなさいってこと。 「分」を知ることが出来ない人は、 「分」以上の環境と接しなければならなくなったとき、 方向感が見えなくなり、転落し、自滅することが多い。 小室哲哉はどんなにカネを持っていても、 それをちゃんと使う「分」がなかったわけだ。 それにきっと、小室哲哉は孤独だったんだろうな。 調子に乗ってる彼を叱る存在は、なかっただろうし。 彼みたいな人にこそ、宗教が必要なんだと思う。 無宗教を気取った人というのは、いつか道に迷う。 確固とした自分の使命を意識出来ていないから。 まあ、小室哲哉もまだ人生終わったわけじゃないから、 今からでも遅くないので、学会の信心でもはじめたらいい。 身近に学会員の友達がいることだし。 |
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感情をあらわにしないせいだろうな、多分。
人間だれしも喜怒哀楽を感じるだろうが、 それをちゃんと表現しているか? 溜め込んでいないか? うれしいときは、喜んではしゃげばいい。 腹が立ったら、怒りをぶつけろ。 悲しいときは、静かに泣けばいい。 楽しかったら、思いっきり笑え。 これらは人間なら当たり前のことなんだ。 だけれども、わかったようなことをいって、 感情の発露を制限しようとするから、おかしくなる。 「謙虚たれ」などと言ってわかったような顔をするけれど、 そんな風に我慢をするたびに、人間らしさから離れていく。 「我慢しないと生きられない」 くらいに思ってる人もいるかもしれない。 でも、そうでもないよ。たぶん、それは錯覚。 我慢せずに感情を発露させ、 それでもみんなに愛されている。 そんな人、身近に思いつくでしょ? だったら自分がそうなればいいんだ。 そうなれないからといって、理屈を考えたり、 その人をねたんだりするより、 まず、自分がそうなっちゃえばいい。 素直になれば、世の中は生きやすい。 仏とは、決して怒らないとかいうような 非人間的な存在ではなく、 怒りもすれば悲しみもする。 人を傷つけもするし、自らも傷つくこともある。 そんなかわいらしい存在こそが、仏ではないか。 人間が人間らしくいられる以上の価値は存在しない。 だから、仏とは人間そのもののことだと僕は思う。 もっと感情のおもむくままに生きていいんだよ。 そうすることで、自分をとりまく世界だって 変わっていくんだ。 自分を縛っているのは環境なんかじゃなく、 いつだって自分自身。 |
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このへんをヒントに思ったことなんだけど。
http://blog.tatsuru.com/2008/10/15_1715.php 実は創価学会というのは、 家族を持たない者のための 精神的なセーフティネットなんだよね。 現代の日本においては、 家族の絆が希薄となり、 個人主義が蔓延してしまっている。 そのため疎外感を感じ、孤独に陥り、 残酷な事件を起こしてしまったり、 自らの命を絶ったりしてしまう人が 生まれてきてしまっているのだろう。 そんな人にとって必要なのは、 その人を無条件で肯定してくれるような 存在ではないかと思うんだよ。 その人を決して無視せず、 認め、評価し、対話する。 そんな人間対人間の暖かい家族ではないか。 創価学会というのは、 そういう者にとって家族となりうる組織である。 本当に孤独になって絶望している者こそ、 創価学会のありがたみがわかる。 それは仏教の精神とも違っていない。 実はアンチというのは、そういう学会に 頼らなくても済む恵まれた幸せ者なのだ。 アンチというのは、実は強者なんですよ。 実は暖かい家庭に育ち、 不自由無く過ごしてきたのだろう。 そんな人間には、学会は必要ないし、 ただの気持ち悪い異物にしか映らない。 そしてその思いから、創価学会を攻撃する。 彼らはいつだって上から目線だよ。 恵まれている立場から、 恵まれていない立場の学会員を 見下し、蔑み、下品だと馬鹿にする。 どん底まで落ち込んで、 学会が最後の希望だった者、 いっぱい居ます。 そんな人にとって、創価学会は、 自分を愛してくれた大切な存在だ。 そんな人の気持ちも、 きれいな服を着、知性的に、 すました顔をして、 土足で踏みつけるのがアンチです。 ひでえなーって俺は思うんですよ。 |
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たいていにおいて、不幸になる人というのは、
人に迷惑をかけるということを極端に恐れる。 たぶん、プライドが高いのだろう。 迷惑をかけて、頭を下げるということを、 屈辱に感じるのかも知れない。 だから、迷惑をかけないようにかけないように、 自身の行動を制限し、不自由になり苦しむ。 そもそもこの世界は、人と人とが迷惑をかけあっている。 迷惑をかけることがなくなることはない。 迷惑をかけるところが、まずスタートだと思っていい。 そこから、謝ったり、説明して理解してもらったり、 そんなことをしながら、互いに理解が深まっていく。 「こんなことしたら迷惑かもしれない」 そんな、間違った想像力の使い方をすることで、 あなたの選択肢がどんどん狭まっていく。 まずは、自分のやりたいことをやってみるべきだ。 話はまず、それからだ。 「人に迷惑をかけない」なんて、実は美徳でもなんでもない。 そこに気づかないから、世界が窮屈に思えるのだ。 「迷惑をかけてはいけない」というのは、デマだとさえ思う。 この世界の秩序を破壊されては都合の悪い人は多い。 そんな人が、道徳として流布したのが、 「迷惑をかけてはならない」である。 人の迷惑なんてかえりみず、 やりたいことをやりたいようにやれ! たぶん、そのくらいの気持ちでいたほうが、 世の中楽しく生きられる。 自由な人は、人に迷惑をかけてもいいと思っている。 そしてその迷惑から、調整していけばいいのだ。 人は人に迷惑をかけることで、つきあいが始まり、深まる。 そうはいっても、迷惑をかけあわない社会が、 現実にあらわれはじめてきてしまった。 この社会が、息苦しく感じてしまうのは、 迷惑をかけあってもいい、という寛容さがなくなったからだ。 自分が人に迷惑をかけてもいい、と開き直ることで、 人が自分に迷惑をかけられたときも、寛容になれる。 迷惑をかけてはならない、と思っている人は、 他人からの迷惑に対して狭量であり、すぐ怒る。 いや、当人に怒るならいい。匿名でチクる。 迷惑をかけられることを嫌がる人は、たいてい陰険だ。 「迷惑かけられてもまーいっかー」って人は、明るい。 その違いが、幸せを呼び寄せるか、不幸を呼び寄せるかの 違いとなってあらわれるのである。 |
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この世界が平等でないことを嘆き、
平等にするべきだと主張する者が居る。 格差は悪であり、なくすべきものであると言う。 責任に応じた報酬を否定する。 リスクを取る者も取らずにいる者も、 同じ処遇であるべきと言う。 決められた時間を働くだけで、 自動的に同じ給料が支払われる世界。 たとえミスをしてもペナルティは発生しない。 ただ所定の時間をただ作業をして過ごしても、 リスクを取って挑戦的に仕事をしても、 なにをやっても報酬は同じという世界…。 最低だと思う。 どこに面白さがあるのか。 本当にそう思うのなら、刑務所にでも入ればいい。 塀の中では、社長も、社員も、派遣も、バイトも、 そんなのは取り去られ、みんな平等に扱われる。 平等主義者というのは、つまり、この世界を 刑務所にしようとたくらむ者なのだと思う。 格差の無い社会、平等な社会……想像してみな。 ホントにつまんない社会だと思うよ。 |
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ネットでさも知ったかぶって「仏教」を語るものが居る。
その読書量を誇り、さもわかった風に。 しかし、その「仏教」はニセモノだ。 なぜなら、のびのびとした躍動感がないからである。 彼の語る「仏教」の中身といったら、 「傲慢になるな、反省せよ」というだけだ。 彼らの説く「平等」は、能力ある者をやっかみ 引きずりおろそうとする卑しい心から生まれる。 人の個体差は、あってはならないものと否定し、 「謙虚たれ」の枠にはめようとする。 そもそも、偏っているのである。 彼らの語る「仏教」はウソだ。 「悲」という面ばかりをピックアップしている。 その「仏教」では、身体を硬直させ、 我慢して生きなければならない。 彼らの主張する「仏教」の目指す状態は、 生きながらの死である。 この世に絶望し、死を待つだけの囚人になれ、 と言っているも同じである。 人間は生きている。 喜び、泣き、ときには傷つき、また人を傷つけ、 理不尽なことに悩み、人の優しさに触れ感動する。 その全てが、人間の活動であり、 その全部を含めて肯定する思想が仏教である。 円経というのは、そういうことだ。 悲しみに偏っている「仏教」はニセモノだと喝破せよ。 今、あなたがそうすることで、自分の殻を壊すことが出来る。 ひとつ上のステージに足を踏み入れることが出来る。 それは弁証法的止揚といってもいい。 ときには火になり、水になり、風にも、石にもなれる。 そのように自身を自由自在にコントロール出来ることが成仏と言える。 彼らは仏教を標榜するくせに、成仏の概念すらあきらめ、放棄した。 この世界で戦いつづけることから逃げたのだ。 そんなものは仏教ではない。 この生を楽しめずして、なにが仏教か! 仏教はeverythingである。 悲だけでもない、喜だけでもない。 人間の生命活動、その全てのことを肯定しているのだ。 彼らの「仏教」は、スジャータのミルクを飲む前のシャカである。 生きることは苦行であるという概念を、覆せ。 そうでなければ、本当に今生きている人生を、 つまらなく苦しいものだと信じこんでしまい、 もったいない生き方をすることになる。 目を覚ませ。 目の前の問題から逃げるな。 誰かの甘い言葉に酔って、人生を棒に振るな。 戦い続けろ。 あきらめるな。 何度だってトライすればいい。 その覚悟が出来たとき、 穢土にみえたこの世界は、 光り輝く寂光土になる。 この世界は、そして人間は、 とてもやさしいということに気づくのは、 そんな覚悟を持つことが出来たときなのである。 そしてそれを教えるのが仏教なのだ。 |
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「脱会したら不幸になる」
内部でよく言われる言葉だと思うが、 これは僕も本当にそう思う。 なぜかというと、要は学会というのは 人と人との繋がりに他ならないからだ。 人と人との繋がりを拒絶し、 チャンネルを切ることを良しと 判断した結果が脱会という行動となる。 まず、脱会する者の心には 「他者との煩わしい関係を断ち切りたい」 という望みがある。 今は学会に所属して、学会の人と接触しているが、 このつきあいがなかったらどんなに自由なことだろう、 と考えるわけだ。 そこでアンチの甘い言葉に出会う。 相談するうちに、学会がいかに悪であるかを吹き込まれ、 アンチの言葉がさも正しいような、 さも今までが間違っていたかのような、そんな錯覚に陥る。 そりゃそうだ、相手は何人も脱会させてきた、 人をその気にさせるプロなんだから。 かくして、彼は学会を辞める。 だが、実際に学会を辞めて、いざ一人になったとき、 自由になれたかといえばそうではない。 時間は出来た。 今まで出来なかったゴロゴロしてテレビをみること、 ビデオを借りてきて見ること、などなど、 人とつきあわずに、好き勝手なことが出来る。 さて、それが続けられるであろうか。 人は人との繋がりのなかで、自分の位置を見いだし、 必要とされることで、自分の存在意義を感じるものだ。 ヒマがあることが、自由なのではない。 次第になんともいえない空虚感に支配される。 まあそれでも、辞めたという自分の行動を 正当化したいものだから強がりは言うだろう。 もう今さら学会には戻れない。 そういう風になってしまったアンチは、 インターネットで憂さ晴らしをする。 自説をあたかも正しいように書いて理屈の世界生き、 脱会をうながし、仲間を増やそうとする。 その姿はあたかもアンチ教信者の様相を呈す。 悪質なのになると、ときにハンドルを変え、ときになりすまし、 学会員を陥れ、嘲笑して喜ぶような、ひねくれた者もいる。 彼らは概して孤独である。 そもそも、自らコミュニティに飛び込んでいくような、 もしくは自らコミュニティを作り出すような、 そんな社交的なバランス感覚を持った人は、 学会活動にどっぷり浸ったりはしない。 自分一人の力では打開できなかったから、 組織で活動し「訓練」を受けているのだ。 「訓練」しているうちに、バランス感覚が芽生えるようになる。 そのバランス感覚を駆使し、自分と他人の距離がとれるようになれば、 脱会などという物々しく迷惑なやりかたではなく、 上手に組織とつきあっていける。 きっとそうなったときは、外でも十分やっていけるだけの 社交的能力やバランス感覚が身に付いているだろう。 脱会しなくても、十分、自由に生きられるのだ。 もしリアルの生活が充実しきっており、 忙しい毎日を送っていたとしたら、 学会活動の優先順位は低くなっていくことだろう。 そしてそれを学会は許しているし、 外でこそ活躍せよとメッセージを出している。 学会での活動で経験する いろんな人がいる中で揉まれることや、 目的に向かって頑張ること、 それらすべては社会で役立つためのプログラムだ。 まったくうまくできている。 それをにわかの知識で否定し、アンチの甘言に従って、 未熟な自分のままで脱会する。 それは、実はとても危険なことだと、本当に僕は思う。 組織に繋がったままの蒼蠅驥尾のほうが、まだ安全だろう。 |






