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みんなウソつき
世に生きる人は、みんなウソつきだと思えば腹も立たない。
俺だってウソつきだし、誰だってウソつきだ。


ウソを恐れては、なにも言えなくなる。
実はみんなウソつきだということを前提にして、
互いに許し合っているからこそ、
言葉を発することが出来るように思う。


なにかの事実なり、考えた結果なりを、
言葉にした時点で、情報の欠落が起きる。
それをウソと呼ぶこともできる。
ツッコミどころは無数に存在するだろう。
揚げ足取りはいくらでも出来る。


言葉にするということは、要約することであるから、
レアケースは無視することとなるだろう。
そのレアケースこそ本質だと思っている人からみれば、
発信者をウソつきだと感じるのはしかたのないことだ。


シンパは、学会被害者をレアケースと見る。
アンチは、学会に救われた者をレアケースと見る。


アンチは、そんなシンパのことを
意図的に情報を隠すウソつきだと思い、
シンパは、そんなアンチのことを
意図的に情報を隠すウソつきだと思う。
それだけの話だ。


だけれども、「ウソはまあ許そうや」という立場に立てば、
双方とも許せるのかもしれないよ。
問題はどちらが頑なになっているかということだろう。
「シンパと仲良くなんて片腹痛い」と思っている
アンチの方が頑なだと俺は思う。


それは、過去に囚われているか、
未来を向いているかの違いのような気がする。
もちろん「謗法とは同座せず」というシンパもいるがね。


いいじゃん。
過去を検証すればみんなウソつきになるよ。
創価学会だってウソつき。
アンチだってウソつき。
俺だってウソつき。
話半分くらいに思ってつきあおうぜ。
みんなウソつきだから、
適当に生きていられるんじゃないか。
ウソを許さない社会の方が、
よっぽど窮屈で危険だと俺は思うよ。
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【2005/11/30 12:55 】 | 未分類 | コメント(12) | トラックバック(1) | page top↑
意図的に意味を曲解
僕は意図的に意味を曲解するのが大好きです。
アンチの言ってる意味を曲解して揚げ足取りするの、大好き。
でも、アンチも創価学会の言ってる意味を曲解して、
揚げ足取りしてるだけなのよね~。
【2005/11/29 20:42 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
罰ってあるんじゃん
しっぺ返しのことを罰と呼ぶ。
「罰なんてないよ」などと罰論を否定しているくせに、
創価学会をおとしめるためには罰論を使うアンチ。
どーなってんだ?
学会を辞める人には「罰なんてないよ」と言い、
学会を擁護する人には「罰が当たるよ」と言うのか。
やっぱ創価学会憎しの感情だけか。
そっちの水は苦いぞか。


俺は罰を否定しないぞ。
仏の法に逆らえば、そりゃあ痛い目に遭うさ。
まず「罰なんてないよ」っていう言葉がウソなんだ。


仏の法に逆らえば、頭破作七分。従えば、福過十号。
シンプルでわかりやすいじゃないか。
「学会辞めたら罰が当たる」と学会員は思ってる。
本人そう思ってるんだから、その思いは真実だ。
自信を持っていい。


しかし、ネガティブなところに目を向けないと
罰が当たるんだってさー。
アホか!
ネガティブなところに目を向けて、あ
ら探ししてるから罰が当たるんだよ。
どうぞ世の中真っ暗だと思いこんで、
鬱屈した後ろ向きな人生を送ってくださいってこった。


俺はそんなのイヤだ。
いつでも笑って愉快な人生を送りたいもの。
ポジティブなところに目を向けて、
くじけず前を向いて歩きたい。
悲しみなんて乗り越えて、笑い飛ばしたい。


人間を、自然を、信じてないのはアンチの方だ。
信じないから不安になり、あら探しをして人の足を引っ張る。
俺は、人間を信じ、自然を信じるぞ。
「出来ない」と思うよりも、
「出来る」と思いこむことから始めよう。
全てのものは絶対良い方向に向かうと、俺は信じるよ。
【2005/11/27 05:56 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(0) | page top↑
せめて相手のことを
すべての人が、せめて一手先のことを考えれば、
世にあるトラブルは激減するような気がする。


「これを言ったら、相手はどう思うか」
これだけを意識して、
自分の行動に反映させるだけで、
きっとずいぶん違う。


出来る人は、
二手も三手も先を読めばいいけど、
そこまでは要求しないよ。


せめて一手先、せめて予想される相手の反応、
このことだけ考えてくれ。


こんなことすら叶えることは出来ないんだよな。
だから、まあ人は愚かなわけで。
もちろん、俺も、
一手先すら見えなくなっちゃうこともあるわけで。
まあしゃあないね、とあきらめるしかないだろう。
【2005/11/26 08:35 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
仏法は勝負
仏法がこの世を支配する法だとするのならば、
この世を支配している法は「勝負」だと思うよ。
そう思いたくない人は、自分に思いこませてるだけ。
この世を正見で見回してみよう。
「勝負」であふれているでしょうよ。


勝負を逃げてる人は、いつか追いつめられて負けるわな。
負けて愚痴を言って、勝った者の足を引っ張る。
まあ、当人にしてみれば、足を引っ張る戦いをしてるのかもな。
でもそうだとするなら、やっぱ「勝負」してるわけじゃん?


でも「仏法は勝負」という言葉を毛嫌いするんだ。
なんでだろうね。
【2005/11/25 09:06 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
「芯」はあるか?
あらゆるすべての事柄は、
言葉を使って後付で説得力を持たせることが出来る。
俺ですら出来る。
単なる「読者」の視点でいると、
それぞれの言説が全て正しいような気がして、
見聞きした全ての言説に矛盾しないように、
また、全ての発言者を傷つけないように、振る舞うことになる。
それが、結果としてその本人の自由を縛る。


特に、その人がいわゆる「善良」であればあるほど、その傾向は強い。
どちらかといえば、善良の反対である悪は、
どこかで見切りをつけることを知っているから、
自分の思うままに振る舞い、結果、
意外といわゆる「無作」となることが多いように思う。


悪を自認しない、いわゆる「善良」な者こそ、
真の悪と言えるのかもしれない。


無邪気な善人が一番人を傷つける、そんなケースも多い。
善人に何か正論を言われては逆らえない。
言われた者は逃げ場がなくなり致命的となる。
悪人が正論を言っていたとしても、悪ゆえに、
「あいつは悪人だから別に何を言われてもいいや」
と思わせることが出来る。
自説の説得力を自ら減じ、逃げ道を作ってやることでもあるのだ。


他人の意見を参考程度に聞いて自分で咀嚼して、
取捨選択することは感心なことだ。
だけどそれは、まともな「芯」の通った人間にしか
出来得ないのかもしれない。


「芯」が通ってないと、人を敵に回して平然としていることが出来ない。
人が傷ついている事態に遭遇し、オロオロと狼狽することとなる。
「芯」の通った人間は「人を傷つけてあたりまえ」くらいの覚悟がある。
もちろん「自分も傷つけられてあたりまえ」の覚悟もある。


「芯」は何によって作られるのか?
なにかしらの当事者意識を持った体当たりの経験からしか、
その人の「芯」は作られないのではないか、と俺は思う。
だとすれば、その体当たりの経験の一手段として、
学会活動を俺は肯定する。


普通は(敢えて「普通は」と言おう)大人になるまでに、
その「芯」が作られるはずだ。
でも不幸なことに、「芯」が作られずに大人になる者が多い。
現代社会においては、特に多い。
「芯」のない親に育てられる子は不幸であろう。


ネットで中途半端な言説にまどわされ、
ますます「芯」を見失うよりも
(「芯」を持っていると自認している者ほど、
実は持ってない場合が多い)、
現実の世界で、当事者意識を持って、
なにかしらの活動をするほうが建設的だ。
たとえそれば、創価学会の活動であったとしても。


ネットで愚痴を吐き、言論だジャーナリズムだと
空しいオナニーをするよりも、とっとと現実に戻り、
なんでもいいから活動をしたほうが、その人のためだ。
たとえそれが学会活動だったとしても、
ネットで活動した気になるよりはマシである。
大人になるまでに培われなかったものを、
学会活動で初めて培われるかもしれない。
それでいいじゃないか。


「芯」の通った人間にとっては、創価学会は無用の長物である。
しかし、「芯」を未だ獲得し得ぬ者にとっては、
便利な装置であると思う。
便利な装置なら、使えばいい。


「芯」というのは、「信」のことであり「自信」のことである。
創価学会を通して「自信」を獲得出来るなら、それでいい。
「自信」が感じられるまで、
がむしゃらに活動してみることも一つの手段だ。
「自信」を獲得したその上で、離れるのか、ついていくのか、
それは自分の判断で決めればいい。


「芯」の無いまま外部に出ると、
なんでも社会や人のせいにすることになる。
不幸のヒロインとなって自己満足するのは
「芯」が出来ていないからである。
世間に対して愚痴を言うなら、まだ「自信」がない証拠だから、
組織に訓練してもらってればいいのだ。
【2005/11/24 12:04 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
ニッポン人と、創価人と、エセ国粋主義者と、エセ仏教者と
さだまさし関係でネットサーフィンしてたら、こんな記事をみつけた。

「前夜(桃花鳥)」-さだまさし-


そういえば友達はみんなAMERICA人になってゆく
いつかこの国は無くなるんじゃないかと問えば君は笑う
馬鹿だねそんな風に 自然に
変わってく姿こそ それこそ この国なのよ
さもなきゃ初めからニッポンなんてなかったのよ
(さだまさし『前夜(桃花鳥)』より)



エセ国粋主義者が、
日本の精神が云々、国益が云々と主張するけれど、
最近は俺も「初めからニッポンなんてなかった」って思う。
俺もAMERICA人になっちまってる。
日本の歴史を眺めると、時には中国人に、時にはアメリカ人、
多面性を持ちながら、そう、舌を何枚もはやしながら、
なんとかうまくやっていく姿こそ、ニッポン人なんじゃないかと思う。


創価人だって、アメリカ人になったり、中国人になったりしてる。
そもそも、ニッポン人が、創価学会に染まっているだけなんだ。


宗教なんてものは、要は染料でさ。
その染料にどっぷんと浸かれば、その色がついちゃう。
二世三世は、そもそも生まれたときから色がついてるんだから、
わざわざ洗い流すこともなかろうて、と思う。


四角い場所に入れば四角く、丸い場所に入れば丸く、
そういう風に柔軟に生きていくことが仏教の教えなんじゃないか。


ある特定の時代の仏教を指して、
これこそが本当の仏教だと主張する愚かさは、
ある特定の時代の日本を指して、
これこそが本当の日本だと主張する愚かさと似ている。


伝統仏教が滅びようと、創価学会が栄えようと、
仏の法は世界に遍く満ちている。
看板が変わっただけ。呼び名が変わっただけ。
人の愚かさも、人の優しさも、変わらない。


仏の教えは、特定の宗教に分類されないからこそ、
宗教間の軋轢を解きほぐす可能性を
持っていると言えるのではないか。


学会員の子供は学会員。共産党の子供は共産党。
それぞれ「俺が正義だ」「俺が正しい」って言ってる。
学会の子として悩むのではなく、棚上げしちゃえばいい。
目の前の課題に取り組んだ方が建設的なんだ。


世間で言うほど、人は人をラベルで判断しない。
ラベルを気にしているの実は本人だけ。
たとえ「俺、学会員なんだ」「学会の子なんだ」と、
カミングアウトしたって、
本人の人格がまともであれば信用される。


確かに、学会組織にはまともじゃない人が多いと、
俺の目から見ても、思う。
でも、組織の中で一人ひとりが「まともになろう」と、
現実の中でもがき苦しんでいるところを評価する。
弾の飛んでこないネットで吠えてるよりは全然マシだと思う。
学会組織は「まともじゃない人がまともになる」ために
訓練される装置だ。


昔は「病人と貧乏人の集まり」だった。
今は「精神を病んだ者と、成金の集まり」だと思う。
それは日本の社会に、精神を病んだ者と、成金が多いせいだ。
創価学会は、社会のニーズに合わせて、主眼と目的を変える。
それは悪いことではないと僕は思う。
無常は仏教の基本でしょう。


「精神を病んだ者」と「成金」が、
いかに、人間的に豊かに生きられるか。
これは現代の日本のテーマなんじゃないか。
でも、そのカタチは人それぞれ。
創価学会は「人それぞれ」を許さない組織ではない。


金を持っているからといって、
それだけで幸せだと思うのは、さもしいと俺は思う。
だけれども、金とか物とかを持っている者を、
ひがんで勘ぐり、とにかく足を引っ張ろうとするのは、
もっとさもしいと俺は思う。


創価学会の「まともになるための訓練」を、
ドロップアウトした者が、金と物の尺度で、持てる者をやっかむ。
金持ちは悪いヤツとか言う負け犬のひがみ根性は、
どぶに捨てて欲しいと思う。
捨てられないなら、創価学会あたりで、
訓練を受け直したほうがいいんじゃないか。


まあそもそも、それも「人それぞれ」なのだが…。
【2005/11/24 11:41 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
弱者権力が嫌い
弱者権力っていうのが、ほんっと嫌いなんです。
創価学会に傷つけられたということを盾にして、
表から裏から圧力をかけるアンチは、今や弱者権力になってる。


正面切って言う勇気がないから、
第三者にあることないこと吹聴し、
時には媚び、時には脅迫し、
人を孤立させるという手段を執る卑怯者。
まさにイジメの構図。


僕が今、確信出来ることは、
創価学会問題は、創価学会に問題があるんじゃなくて、
実はその本人の性根に問題があるということだ。
【2005/11/23 11:31 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
波乗りのテクニック
人間は生き物だから、
楽しくて「ぃやっほぅ」なんて叫びたくなるときもあれば、
悲しくてしょぼーんとしちゃうときもある。
波みたいなもんなんだよなぁ。


感情というか、テンションというか、
そういうのの波にうまくのるには、
まあ、経験が一番だろうなぁと僕は思う。
分析して自分に落とし込める人ってマレかも。


波が低くて、落ち込むときは誰にだってある。
落ち込むことをなくそうと努力するんじゃなくて、
それをやり過ごすテクニックを身につける方がいい。


「俺、今日は機嫌悪いから」と宣言するのもテクニック。
引きこもって誰とも会わないというのもテクニック。
ネットで愚痴をまき散らすのもテクニック(?)。


なるべく周囲に迷惑のかからないテクニックを選択できるといいなぁ。
【2005/11/20 05:04 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
イベントはランダムなのよね
自分の身に起こるイベントは、
自分の都合良い順番ではやってこないもんだ。
「このイベントが先に起きていたら、こっちの道は選ばなかったよ~」
みたいなことを、後で思っちゃうのはしょうがないよなぁ。
そして、いくらそんな風に思っても、
これからもずっと、でたらめにやってくる。
自分の力でどうにもならないことは、
あきらめるしかねーんだよなぁ。


それに過去に自分の道を選んだとき、
現在いいなぁと思うものが選択肢にあったとしても、
それを選んでるかどうかあやしいもんだ。
そのときの自分と、今の自分は違うからね。


今 僕のいる場所が 探してたのと違っても
間違いじゃない きっと答えは一つじゃない
(Mr.children「any」より)



答えは一つじゃないからこそ、たぶん希望があるんだろう。
それに、今を嘆いてるわけではないし、壊したいわけでもない。
しょうがないから出来る範囲で、自分も他人もごまかしながら、
だましだましなんとかうまくやってくしかないと思うんだよなぁ。
不治の病気とは上手につきあっていきましょうみたいなノリで(笑)。
【2005/11/16 20:43 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
焼き肉みたいな文章
お昼に焼き肉定職を食っていて、思った。


俺の文章って焼き肉みたいだな、と。
たぶん、タレはにんにくベースの濃い味で、後引くんだ。
次々と何皿も食っちゃうんだけど、
気づいたときにはおなかいっぱい。
ごちそうかもしれないけど、毎日食ってると飽きる。
やっぱ、たまにでいいかもね。
【2005/11/15 13:45 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
アイデンティティの確保ってもの
人は「自分にしか出来ないこと」というものを探し続ける。
「自分にしか出来ないこと」が出来るところが、
きっと居心地の良い場所になる。
人によっては、創価学会組織の中。
人によっては、アンチ仲間の中。
どちらが優れているとも、どちらが劣っているとも言えない。
結局、どっちの縁が強かったかだけの話だろうな。


使命だのなんだのかんだの、悩める人を救うだのなんだのかんだの、
後付で理由はいろいろつけるけれど、
誰だって、自分のアイデンティティの確保が出来れば
それでいいと思ってるのよ。
どんな偉そうなこと言ってる人だって、みんなそうだと思うよ。
これ、間違ってないと思う。


「自分にしか出来ないこと」が「他人にも出来ること」になったとき、
別にそこに自分が居る必要はなくなるわけだから、どうでもよくなる。
マンネリになれば新しいことに挑戦したくなるものだ。
水が隙間に流れ込むように、自分が必要とされる場所へ流れていく。
これを仏の法と言わずしてなんと言うか。


創価学会組織で、自分のやってることが、
他の人でも出来ることだと思ったなら、抜けたってかまわない。
アンチ組織で、自分のやってることが、
他の人でも出来ることだと思ったなら、抜けたってかまわない。


どこにいたって、ずっと同じことやってりゃ飽きるし、
めんどくさくなるもんだ。
やめたいならやめたっていいんですぜ。
アンチを辞めたって罰は当たらんから(ぉ
【2005/11/14 19:06 】 | 未分類 | コメント(18) | トラックバック(0) | page top↑
「先生」になろう
「先生は素晴らしい」「先生について行く」なんて言ってないで、
自分が「先生」になることを考えなきゃダメだよな。
教えてもらう側から、教える側にならなきゃ。
恩返しというのなら「先生」に返すのではなくて、
世界に恩返しするのが「先生」も本望なはず。


自分が自立して、教える側つまり「先生」となり、
自分の習得してきたものを教えるときになって、
もし、かつての「先生」に、
足並みがそろわないとか、呼吸が合っていないとか、
そういう理由で恩知らずと言われるなら、
そういう「先生」はニセモノだと思う。


自立しているのならば、かつての「先生」にこだわることなく、
自分の経験から習得したものを、自由に教えたほうがいい。
正解なんて、どんどん変わっていくし、誰にもわからないのだから。
【2005/11/14 12:26 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
子供教という宗教
つまり、子供を作ることは、子供教への入信なんですね。
自分の子供というものは、親の思いや生活の、
中心に入り込んでくるわけだし、いわゆる「絶対」になっちゃう。


学会員が、御本尊を「自分の命よりも大切」と言い切るように、
親は、子供を「自分の命よりも大切」と言い切るわけです。
御本尊を生きる支えにしている学会員が居るように、
子供が生きる支えになるケースは多いしね。
「絶対」ってのはそういうことでしょう。


自分の信じる宗教を悪く言われたり攻撃を受けたりすることは、
自分の子供を悪く言われたり攻撃を受けたりしたときの気持ちと、
同じなんじゃないかと思います。
「御本尊は紙っきれ」「コピー御本尊」なんて言われるのは、
「おまえの子供は紙っきれ」「おまえの子供はただのコピー」
なんて言われるのと同じです。
うん、そう言われたら腹立つよなぁ。


宗教間で、争いが絶えないのは、こういう理由なんじゃないすかね。
悪く言われたら言い返したくなるしし、
攻撃されたら攻撃し返したくなる。
「おまえの信じる宗教は邪宗だ」と言われたときの気持ちは、
「おまえの子供は邪悪だ」って言われる気持ちと一緒。
うん、腹が立つ(笑)。


親は「自分の子供が世の中で一番最高だ」と思いこみたい。
その思い自体はおかしなことではないし、当然だと思う。
ただ、そう思いこむための手法の一つとして、
他と比較することで、納得するってのがあるんだな…。
「ウチの子はこうだから他の子供に比べて優れてる」
って無理矢理ひねりだすんですね。


それが行き過ぎると、きっと他人の子供をおとしめて、
「あの子はこんなところがダメだ」となるわけです。
それを心の中にとどめていればいいのに、
口に出して言ってしまう親バカがいる。


これを宗教にシフトさせて語ると、まあ、
創価学会のたどってきた道のりなんですよね
(そして今、アンチが創価学会を
「こんなところがダメだ」と口に出して言っている)。


つまり教相判釈なんだな。
天台とか日蓮系がやってる(アンチ教も)教相判釈なんてものは、
自分の子供と他人の子供を比較検討してるようなもんで、
アホらしいなぁ、なんて思うんです。
そんでもって、他人の子供に向かって、
「おまえの子供は邪悪だ」って言うわけですよ。


いろんな性格の子供がいる。
勝ち気な子もいれば、優しい子もいる。
それぞれに傾向性がある。
どれが正しく、どれが邪だなんて言えない。
法華的な子もいれば、念仏的な子もいる。
念仏的な子に、法華じゃなきゃダメだとか、
法華的な子に、念仏じゃなきゃダメだとか、
そんな風に言うことって出来ないはずだろう。
いやまあ言ってもいいか…程度問題かなぁ。


宗教とのつきあい方が上手であれば、
きっと子供とのつきあい方も上手かも。
そういう意味で、宗教とつきあうことは、
子育ての訓練にもなるのかもしれないねぇ。
【2005/11/12 06:43 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
もっといいかげんにやろう
「もっといいかげんにやろう」とたまには、
声に出して(つまりこういう風に書いて)言わないと、
いつのまにか、まともな体裁を整えたくなってしまう。


そうすっとインスピレーションの発露というものが、
なくなってしまうのだよ。
だんだんつらくなっていくのはそのせい。


さて、んで、思ったのは、最初この総合案内所に、
あちこちの掲示板で書いたものを全部はりつけよう
くらいにおもったけれど、いいや適当で、って
思いなおしたわけさ。


どうせインターネットってのはテキトーな世界なんだから、
我々もテキトーにやんないと頭おかしくなっちゃいますよ、えぇ。
【2005/11/11 07:16 】 | 未分類 | コメント(8) | トラックバック(1) | page top↑
かみあわない対話
「対話」ってのは、相手がどういう反応をしてくるかということを、
予想しながら進めないとガキのケンカになっちゃうんだよなぁ。
それはつまり相手の立場やバックグラウンドを考えてあげること。


何度か同じようなやりとりをしてお互い不快になった経験があり、
今同じことをしても反応がわかっているくせにそれを言うのは、
意地悪なだけだろうなぁ(まあ自戒も含めて)。
わかってないなら馬鹿だろう…。


周囲の空気がそれを望まないことを十分わかった上で、
敢えてやってもいいけれど、リスクを覚悟しなくてはならないな。
目的を果たせないことをわかっているのならば、
周囲を不快にさせてまでやろうとするのはなぜだろう?


周囲にはわからない、本人の密かな目的のためかもな…。
【2005/11/08 20:23 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(1) | page top↑
創価学会OSユーザー
創価学会ユーザーってのは、まあつまり、
ウインドウズユーザーみたいなもんだわな。
んで、アンチってのはウインドウズの不具合を
いちいち指摘するマックユーザーみたいなもんだ。
彼らは「ウインドウズ自体がウイルス」くらいのことを平気で言う。


俺が言ってるのは
「ウインドウズでもいいじゃん、使えるんだから」
ということなんですよ。
だから「創価学会でもいいじゃん、使えるんだから」と俺は思うわけ。
二世三世なんて、特にそうだと思うんだ。


使い慣れないOSを無理矢理導入したって、
また一から勉強しなきゃならんよ?
宗教はマインドコントロールが魅力なんだから、
一からマインドコントロールかけなおさなきゃなんない。
それを出来る人って限られてるよ?


聖道門と易道門という立て分けをするのならば、
二世三世にとっては、創価学会こそ易道門だと思うわけさ。
だって小さい頃からすり込まれてるんだもの。
どうしても創価学会OSを切り替えたいというのなら、
一から勉強しなおして、修行しなおすしかない。
だけど、そんなことする人って、マレ。出来る人だって、マレ。
現に、アンチのセンセイだって、
宗教という道具をうまく使えてるかどうかあやしいもんだ。


マック信者になに言われたって放置しときゃいいだけの話なんだよね。
「ウインドウズ使っててごめんなさい」なんて言う必要なしです。
同様に「学会員でごめんなさい」なんて言う必要なしです。
【2005/11/08 15:32 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
健康ならいいじゃん
やっぱなによりも大切なのは、心と体の健康なのだなぁ。
心でも体でも、「健康でない」ということが、
悲しい出来事の原因となり、引き金となる。


逆に、「健康である」ということが、
嬉しい出来事の原因で、引き金かも。


人が人に惹かれるときというのは、
その人の健康なところに惹かれるのだろう。
もしくは、健康にしてあげたいと思うのだろう。
「この人の健康な状態を見てみたい」と思うから、
助けてあげたくなるのだろう。


わざわざ健康を損ねるようなことしている人を、
見過ごすことが出来ないのが、仏。
「そんな悲しいこと、やめようよ」
と思っているのが、きっと仏。


大切な人の健康を守るため、または取り戻すため、
仏はさまざまな方便をつくす。
ときには、一緒に悲しいことをやってみる。
ときには、厳しく叱ってみる。
ときには、ほっといてみる。
でも、いつでも仏は気にかけてくれているんだ。


わざわざ自分を傷つけることない。
心の健康を損ねるようなことを、わざわざしなくてもいい。
体の健康を損ねるようなことを、わざわざしなくてもいい。


全部が全部健康な人なんて、いない。
自分が健康じゃないなんて嘆くことは必要ないから、
今持っている健康な部分を大切にしようよ。
【2005/11/07 07:03 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
依存を憎んで人を憎まず
自分が自分の力で戦えるうちは、とにかく立ち向かって戦おう。
そして本当に傷つき、本当に疲れ果てたときだけ、信じた人に依存しよう。


ここで「依存」という痛い言葉を敢えて使う。
「依存するべきではない」という意思として
(俺の嫌いな「べき」を敢えて使って)。
それでも、どうしようもなくなったら依存してしまう自分の弱さを、
自分に突きつけておくために。
「自分は依存という行為をしてしまう、
口で言うほど立派な人間じゃない」
ということを覚えておくために(意外とすぐに忘れる)。


依存という行為を、俺は憎む。
憎むくらいに思っていなければ、
頼れるものがあるとすぐ頼ってしまう。
「依存してもいい」という甘えは、
戦って勝ち取ろうという気迫がスポイルされる。
戦う気迫が、自分を成長せしめるし、
自分の成長こそが俺にとっての生きるおもしろさだ。


けれど、人として生きている以上しかたのないこともある。
大多数の人間が、依存という行為をしてしまう。
もちろん俺を含めて。


自分を律するために、依存という行為を憎むが、
依存する人間(自分を含む)は許してよいのだ。


依存してしまう人間を許すことが出来たとき、
人間というものを、愛せるようになれるような気がする。
そして、人間を信じることが出来るような気がする。


でも、ひとりで戦えるうちは戦おうぜ。
少なくともファイティングポーズは取ろう。
戦闘中は、依存できるものがあるなんていうことは忘れ、
ひとりで目の前の課題に立ち向かうんだ。
これがまず僕にとっての大切な「かまえ」だから。
それが無くなっちゃったら、本末転倒なんだよ。
【2005/11/06 16:02 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
子供ってなんだろう?
最近、子供というものを考えるようになった。
ずっと頭の中に「子供ってなんだろう?」と問いが立っている。


今、ひらめいたことなのだけれども、
自分の子供という存在は、きっと他力であり、
自然なのではなかろうか。
自分の子供に対しては無条件降伏するしかないのかもしれない。
つまり「ほとけさま」だと。


子供を持ったことの無い俺は、子供を語ることは出来ない。
もし、子供が「ほとけさま」だとするならば、
子供を持たない者は仏教を語れないのではないだろうか?


偉そうに他力門などを語っているインテリは、
子供ばかりか伴侶さえ持たない。
そんな者が、ほとけの道を語る資格があるのだろうか?
伴侶も子供も持っちゃいけないとされる坊主は、
俗世間に生きる人の気持ちがわからないのと同じだ。


今のところ俺は、自分を救うことくらいしか出来ない。
広げたとしても、えこひいきの対象である伴侶くらいなものだ。
それが今現在の「身の丈」だ。
自分にしっくりくるのは自力である。
でももしかするとこれは、
子供を持ったことがないからかもしれない、と自分を疑う。


自分の子供を持つということはきっと、捨て身の覚悟が要る。
生まれてくるまでどういう子かわからない。
またどういう風に成長するかわからない。
自分のしでかすことではないにもかかわらず、子供が成人するまで、
あらゆる責任は親が受け入れなくてはならない。
理不尽なことがあっても、受け入れるしかない。


自分の子供には、掛け値なしの愛が芽生えるという。
この感覚も、今の俺にはわからない。
肉親だからといって無条件の愛を与えることは、
今のところ出来ていない。
たとえば両親にも、兄弟にも。


わからないがゆえに子供を持つということが、
持ったことのない俺は正直すごく怖い。
「仏の家に投げ入れて」というのは、
子供をつくるときにこそ必要な覚悟かもしれない。


「うだうだ考えずに作っちまえ」ってのが、
多分正解なのだとは思うが…。
【2005/11/05 23:05 】 | 未分類 | コメント(11) | トラックバック(0) | page top↑
しあわせだなぁ
あのですね、今ほんっと幸せなんですよ。
だから、なんだか文章書けないんです。
アグレッシブな文章を書いている自分も好きだけど、
またーりと幸せに浸ってる自分も好きです。


文章を書くということは、欠けた部分を自分で考え、
補って、まんまるに近づける行為だから、
そもそも幸せなまんまるだと書けないのです。


まんまるで幸せだから文章書けないのですが、
文章を書こうとすると不幸に感じてきます。
書きたいと思っているのに書けない…。
「書けない」という欠けた部分を補わなきゃならなくなっちゃう。
「ああっ、もうっ、なんで書けないの? キー」って思っちゃう。
これって不幸ですね(笑)。


俺はデフォルトで幸せだから、
文章書くときは、わざと自分を
不幸のポジションに落としてるなぁ、きっと。
ほらね、こういう考え方しちゃうところが、天界なんです。
六道輪廻でぐーるぐるです。


今は余裕ぶっこいてるけど、必死だな藁、って時もあるですよ。
いいじゃん、俺ってかわいい(笑)。
【2005/11/05 09:54 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
つけた傷以上の愛を与えること
人を傷つけてしまうのは、
生きている以上しかたのないことなのだから、
傷つけたことを悔やむより、
傷つけたもの以上の嬉しさを与えられるようになりたい。


マイナスである傷を癒してゼロに戻そうとするんじゃなくて、
その傷はほっといたまま、
マイナス以上のプラスの嬉しさを与えて、
総合的にプラスの方にもっていきたい。
それは自分に対してもそうだし、相手に対してもそうだ。


傷のない状態が、幸せじゃない。
「傷だらけだけれど、嬉しいこともいっぱい」
という状態が、きっと幸せなんだろうと思う。
【2005/11/04 08:42 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
積み木遊びが好きなんです
積み木遊びってなにが楽しいかというと、
自分の思うようなカタチに積んでいくところが面白いわけです。
「できたー」と思ったら、しばらく眺めて、
また崩しておもちゃ箱にしまうわけだ。


ねんど遊びでもいいや。
ねんどをコネコネして、くっつけたり、ちぎったりして、
自分の作りたいものを作ってみる。
んで、しばらく眺めたら、また四角い塊にしてしまう。


作ったり壊したりするのが、やっぱ楽しい。
作りっぱなしじゃ不満足なんですな。
こういう性格はどうしようもないね(笑)。
【2005/11/03 09:27 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
理と事
まあ、一念三千なんですが、理と事があってなんてやってくとキリがないのよね。
俺流解釈でいくと、理論と実践ってことなんですよねぇ。


理論と実践
整合性と矛盾
静と動
死と生


「理論ってのは、実生活に応用しないと意味無い」って思うクチの人間か、
それとも、「理論そのものに美しさを感じる」クチの人間か、ってことだと思うわけ。


俺はたぶん両方。
「そこにあるリンゴの存在とはなんぞや」とかやってる人の気持ちはわかる(理)。
「リンゴは手を伸ばしてかじればおいしい、それでいいじゃない」って人の気持ちもわかる(事)。


まあいろんな学会員がいるけど、悩んでない学会員はたいてい後者のタイプ。
前者だと、組織の言ってることとやってることが違うことに悩む。
悩みない学会員ってのは「御本尊は幸福製造器、それでいいじゃない」って人。


いや、まあ両方わかるけど、比較的後者だよなぁ、やっぱ、俺。
人間だもの、生きてりゃ矛盾もありまんがな。
設計図通りにはいかんでしょ。
煩悩を捨てようと思っても、やっぱちんちん立っちゃうわけよ。
そのちんちん立っちゃう俺を認めてあげた時、
「理」から「事」に横っ飛び出来る気がする。
「偉そうなこと言ったって所詮こんなもんよ」ってね。


んでなんだっけ?(笑)。
「理」な人と「事」な人が、お互いの存在をほっときゃいいんだけど、
どうやら両者は、反目し合うんだよなぁ。
俺もおもしろがって荷担してたりするけど。


高低浅深とか、釈尊がこういったとか、日蓮がこういったとか、
ホントどうでもいいって思うようになったしなぁ、俺。


でもまあ、天台から日蓮って話になると、
天台は要は理論、日蓮は要は実践って思う。
いわゆる「法華経を身で読む」ってやつで、
だから日蓮が「人本尊」ってなことになってるんだけど。
「理屈じゃななくて行動だ。動いてこそ意味がある」的な
結局、創価学会っぽいことになっちゃうんだよな。


「人本尊」だからといって、特別視して崇めちゃったら本末転倒なわけで、
彼をまあ、手本にして生きてみようか、という決意をしてるんだな、学会員は。


日蓮だって人間なんで、そりゃあミスもするし、おかしなことも言う。
でも、一生行動し続け戦い続けたっつーとこにエッセンスがあるわけ。
でもまあ、日蓮は性格悪そうだけどな(ぉ


性格悪いところにシンパシーを感じるのもアリだと思う。
俺は空海が好きだけれども、空海の性格悪いところに惹かれるんだな、これが。


んで、なんだっけ?(笑)。
えっと、音楽だ。


作曲家のしもべとしてのコンダクターとなるか、
作曲家の友人としてのコンダクターとなるか、ってあるように思います。
しもべとして、演奏者としてのコンダクターであるならば、
作曲家の意図を忠実に再現するのが使命なんだけれども。
友人としての、解釈者としてのコンダクターであるならば、
作曲家の意図をつかんだ上で、コンダクター流の解釈をして、
新しいものを生み出す。


作曲者の言ってることを咀嚼して、演奏として投げ返す。
そういうコンダクターがいてもいいと思うし、
俺はそういう演奏の方が好き(笑)。


プレイヤーレベルでいうならば、音楽は作曲者との対話なんですわ。
ここの「ため」をもっと、ためよう、とか、ここのところ俺流にくずしてやろう、とか。
作曲者を友人として、みてる。


作曲者は作曲者で「俺の意図はこうだから、こう解釈して、こう演奏してくれ」と
神経質に事細かな指示をする人もいれば、
「こんなの思いついたんだけど、あとは勝手に解釈してやってみてよ」
っておおざっぱな人もいる。
俺はおおざっぱな作曲者の方が好き。


事細かな指示は「理」、おおらかなのは「事」。
そんな感じがするけれど、どうじゃべ?(無理矢理戻してみた)
それでもほら、二元論は大好きな俺(笑)。
【2005/11/03 09:22 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
言葉ってホント難しい
言葉があるから伝わらないこと、
言葉があるから間違って伝わってしまうこと、
そんなのがきっとある。


100の人を傷つける言葉の裏には、きっと、
100の自分を傷つける言葉が潜んでる。


言葉は刃物だ。
俺みたいなキチガイに渡すと、
ぶんぶん振り回して、自分も人切りつける。
自分もそうだけれども、インターネットの住人は、
多少なりとも俺みたいなキチガイじみたものを持ってる。


どっちにしたって、人を傷つけることになるのなら、
せめて言葉という刃物を研いだ方がいいかも。
のこぎりで引くよりは、傷の治りが早いでしょ。


ネットは言葉の世界だから、
真っ正面に受け止めれば受け止めるほど、
真剣になればなるほど、殺伐とする。


ほんとうはいつでも笑っていたいのに、ね。
【2005/11/02 05:20 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
差別主義アンチ
相手が学会員っていうだけで拒否反応を抱く人は、
いわゆる「おかしな学会員」よりも、おかしな人だと思う。
ひとりの目の前に居る人を、
人格を持った人間としてみることが出来ず、
肩書きで判断する差別主義者と思う。
【2005/11/01 22:10 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
アンチ教の構図
アンチ教のセンセイは、
「創価学会は現在わかりにくいカルトである。
ここに学会にまつわる諸問題の原因がある。
だから、学会はわかりやすいカルトにならなければならない。
そのために、学会に居るのは、おかしな学会員だけにしよう。
さすれば、学会はわかりやすいカルトとなり、
学会に騙される人はいなくなるのだ。
アンチの活動家は、良識的学会員を学会から引きはがせ!」
なーんて、アジるわけです。


そして、センセイの取り巻きは、
「ちょっと違うな…」と思っても、口をつぐんで黙っている。
俺はここに「羊」をみるわけですよ。
まあもしかすると、見事にマイコンされちゃって、
「そうだそうだ」と思ってるのかもしれないですけど。
アンチ教の信者さん、今日もご苦労様って感じです。


ちなみに俺は、学会はよりまともになった方がいいと思うし、
学会員であろうとなかろうと、
一人ひとりが、良くなったほうがいいと思うよ。
【2005/11/01 09:45 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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