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よいお年を~
読んでくれてる人、コメントしてくれる人。
みなさんひっくるめて、今年一年ありがとう!


また、来年もかまってくださいね。
いじられるのが大好きなgizmoです。
ときには叩かれ、ときには賛同され、
「人っていろいろいるよな~」
って実感出来て、実は嬉しいのです。


来年も面白いこと探して、
おもしろおかしく過ごしたいです。
いろいろがんばっていきますよ。
ではでは、みなさん良いお年を~(^^
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【2005/12/31 18:42 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
彼と自分
彼はああ生きる。
俺はこう生きる。
それだけなんだよな。
【2005/12/30 09:53 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
デフォルメということ
アンチとシンパというのは、カテゴリーではなくて、
本当はパラメーターだと思う。
「この人はアンチ、この人はシンパ」という風に
ラベリングする使い方ではなく、
「アンチ度40点、シンパ度50点」みたいな考え方のほうが
しっくりくるような気がする。
分類して箱に入れるから、人と人との溝が深まるわけだ。


まあでも、アンチシンパと二つに分けるのはわかりやすいんだな。
単純化してわかりやすくするために、分類する手法を使っている。
文章の説得力を持たせるための、デフォルメというテクニックだ。
ちなみに僕の文章が乱暴だと言われるのは、
デフォルメが多いからです。


100%のシンパも、100%のアンチも存在しないのだが、
敢えてわかりやすくするために、
分類としての「アンチ」という存在をつくりだすわけだ。


でも、いわゆる「アンチ」も同じ事をやってるんですよ、実は。
アンチシンパという対立概念を作り出して、
溝を深めようと煽ってるのは実はアンチの首領です。
デフォルメして、つまり針小棒大に言うわけです。
まあ言ってみればウソなんですね。
まあ「アンチの首領」って言葉もデフォルメの結果であり、
架空の存在であり、僕の言葉も言ってみればウソです。
そこから先は、しっくりくる説を読者が判断して、
読者が勝手に採用すればいいだけです。


アンチ度合いの高いことを示すファクターをピックアップし、
再結合させることで「アンチ」という仮の人格像が生まれる。
これは「シンパ」でも可能です。
「バリバリ」というのは、物語の登場人物でしかないのです。


お姫様が居て、それをさらう悪魔が居て、
お姫様を助けに行く勇者が居る。
たとえば、こんなありきたりな物語のモデルがあって、
悪魔の位置に、先に創作した「バリバリ」像を重ねてみたりして、
アンチ創価学会の物語を創作するわけです。


ネットでの文章っていうのはそういうことです。
単なる思考実験でしかないです。
なにかの課題を一つ展開して考え、
モデルを捉えることに一役買うわけだ。
その手段の一つとして、
デフォルメして考えるということが有効なだけ。
あとは、読者の判断で、どうとでも運用してもらえればいい。


ネットの情報ってのは、
まあつまり眉に唾つけて読むべきものなんだよ。
編集の素人が編集してるわけだし、
チェックする機関だってない。
流通に乗ってる本ならば、
まだ市場のチェックが入ることになるけどな。
商品に値しない本は、売れないから。


どんな文章であっても読者が解釈し、取捨選択をしてはじめて、
その人なりの運用をしたことになる。
なんでも同じだけれどもね。
つまり、宗教もそうだよ。
【2005/12/28 21:49 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
学会員の使命
学会員は学会員として、「成仏」を目指さなければならない。
つまりそれは、高みへの階段を昇る過程であり、運動のことである。


具体的に言うならば、「日蓮の教え」というものを一つのモノサシとして、
つまり「御書」を共通のテキストとして、
学会員内で共有しながら、あらゆる他のテキストとぶつけてみて、
アウフヘーベンしていくのが学会員のあるべき姿ではないか。
ときに、そのテキストはナポレオンであったり、
ゲーテであったり、ユーゴーであったりするわけだろう。


うがった見方をしなければ、
学会の「悪書を読むな」という指導は「良書を読め」ということであり、
歴史のフィルターを通して生き抜いた古典を読めということであろう。
今の創価学会は、会員に対して、
日蓮に限らず「優れたもの」「一流のもの」を推薦していることは間違いない。


創価学会が「対話」を強調するのは、つまり、
学会員一人ひとりの中に息づく「日蓮」と、
他の優れた思想家や哲学家とを、自分の中で「対話」させ、
両者の思想を保存しながら、より上位の概念を導き出せと、
学会員に要求している。


また、この「日蓮」と「対話」させるテキストは、古典に限らない。
日々の生活でもあり、仕事そのものでもある。
それはその当人にとって「優れたもの」であり「一流のもの」であり、
古典にも引けを取らない、最高のテキストである。
生活や仕事から導き出せるテキストを、
自分の内なる「日蓮」と対話させ、より良きものとしていくのだ。
その導き出したモノは、一人ひとり違うであろう。
それでよいのだ。


多くの活動家は創価学会を誤解している。
もちろん、活動家出身のアンチもそうだ。


日蓮だけを絶対視する教条主義的態度は、
宗門と別れたことにより決定的となっている。
「日蓮」を技として身につけた後の学会員は、
それを応用して、より知的に、より幅広く、
自分の内外で「対話」をして成長することとなる。


その成長こそが「仏道修行」であり、「成仏」への道であるのだ。
【2005/12/25 18:10 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
いまやアンチ問題だよなぁ
創価学会問題という視点でインターネットを眺めると、
今や「学会問題」というより「アンチ問題」だとすら思う。
創価学会が存在するから問題なのではなくて、
人間にアンチ的な性根が存在するから問題なんじゃないか。
インターネットは今や、ルサンチマンの見本市だ。


だってアンチには、クリエイティブが無いんだもん。
あるのは、創価学会への怨恨だけだよなぁ。
【2005/12/25 16:31 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
アインシュタインがいいこと言った
『どうして自分を責めるんだ? 他人がちゃんと責めてくれるんだから、いいじゃないか』
【2005/12/19 10:54 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
反省してないっけ?
学会員は無反省だと人は言う。
学会員は反省してないと、本気でそう思っているのかなぁ?


学会員は反省し、改善の努力をしていると思うが…。
最大の、反省から来る行動は、
原理主義的である日蓮正宗との決別であるし、
日蓮正宗を批判し続けていることだろう。


「折伏教典を否定した上で世間にお詫びしていない」と責めるけれど、
折伏教典的ともいえる宗門と別れてしまい、
もう二度と折伏教典的出版物は世に出さないことから、
創価学会の態度は明らかではないか
(二度と出せないし出す気はないと思うぞ)。
「折伏教典が云々」と責められれば学会員は沈黙するしかないが、
そんな昔のことを引っ張り出して、
しつこく打ち続けるアンチこそ厨かと。


「おまえ昔、こんな失敗をしたんだよな」と、
ことあるごとに指摘する人がいる。
アンチのやってることは、これでしょう。


学会の会館にクリスマスのイルミネーションをされてるのを見た。
この行動は完全な日蓮正宗との決別だし、
周囲と「合わせ」ようとする努力だし、
反省からくる行動ではないか。


法人も人であり、考えは変わっていく。
考えが変わるたびに、世間に謝って、
心の底から反省しまくることを求められたり、
いちいち解散を迫られたりする社会なら、
ものすごく嫌な社会だと思うよ。
【2005/12/19 10:14 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
「お金教」の未来部
たとえばこんなの。

マネックス証券「株のがっこう」


俺は「お金教」の未来部だと思うなぁ。
ガキの頃から、株や投資のことを学ぶのは、
悪いことじゃないとは思うけど、
なんとなく違和感を感じるのは俺がオヤジだからだろうな。


勝ち負けが支配するこの世界で、
子供に将来勝って欲しいと思う親の気持ちは
いつの時代も変わらないわけで。
英語しゃべれる子にしたいとか、
ピアノ弾ける子にしたいとかあるけど、
経済に明るい子、金融に明るい子にしたいとなれば、
こんなのも良いかもね。


自分の子を創価学会の未来部にどっぷり浸からせるのも、
親の教育の一つだし、誰も悪く言えないよなぁ。
「学会の広宣流布にこそ人の生きる道がある」
と親が信じていれば、当然の教育だよ。


結局、教育なんてものは洗脳に他ならないわけだし、
違うと思えば、成人したときにいくらでも方向転換出来るわけで。
でも「両肩に倶生神がいるから悪いことをしちゃいけない」
と教えてくれた母には感謝してますよ。
【2005/12/17 10:04 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
日本の国際経営戦略(そんな大げさな(w
まあ、ディテールを調べたわけではないから大雑把だし、
ツッコミどころはいっぱいあるだろうが、思いついたことを書いてみる。
拾えるアイデアがあったら拾ってちょうだい。


アメリカなんかは、国ぐるみで商売をしてる。
大統領が日本に来て、車を売りに来るなとか、
牛肉買えとか、営業しにくる。
日本の総理大臣はそんなこと表だってはやらない。
やれば、政府と企業の癒着とかなんとか言われて、
日本の国内から足を引っ張られるように思う。
だから、目立たないように官僚がやる、ってとこか。
日本の国民は、なにかっていうと政府のやることの足を引っ張る。
そういう国民性なんだろうか。


日本という国を、一つの会社としてみるならば、
国民は社員であり、株主なわけだ。
政府っていうのは、要は日本の役員であり、
株主である国民が、経営をやらせている。


社長が自社の製品のうち、一番の目玉商品をプッシュする。
アメリカなんかはこれをやってるだけだ。
目玉商品が売れて、それによって会社が潤い、社員一人ひとりが潤う。
また株主にも配当が出る。それでいいと思うがなぁ。


足を引っ張る日本の国民のやってることは、
パソコンを売ろうという会社の方針にブーブー言う
テレビ事業部の社員みたいなもんだ。


国際社会は、資本主義で回っている。
つまり、「お金教」「エコノミズム」が支配している。
たとえば「人道支援」とかなんとか言ったって、
国際社会で経済的に有利な立場に立つための要素の一つだ。
そして「お金教」の支配する世界では、それが正しい。


創価学会公明党の判断は「お金教」になびいて、
イラクの国民よりも日本の国民の生活を取っただけ。
「日蓮だ」「仏教だ」を論じてもしかたない。
日本の国民がおまんま食えなきゃ話にならん。
だから結局「イラクにお題目を送る」くらいしか出来ないワケ。


「『お金教』がおかしい!」と声高に言ったところで、
現状は変わらない。
「お金教」に対して、ソ連はマルクス主義で挑戦してみたけど、
ダメだった。
それなら仏教主義で挑戦してみるかい? 俺、勝てないと思うよ。


仮に「お金教」の対局に「モラル教」があり、
その「モラル教」が平和をもたらすとして、
人が自分の生を生きているうちに、
「お金教」から「モラル教」に改宗したとしても、
人の命は永遠ではなく、獲得した知識も道徳も、
死によって滅びてしまう。
新しく生まれた命は、まず欲望があり、
「お金が欲しい」と思う段階が、必ずあるから、
「お金教」は滅びることはない。


俺は「お金教」の信者であり、今でも「お金欲しい」と思っている。
これを滅せよと言っても無理だ。
グローバルスタンダードは「お金教」。
世界を支配する法は、お金です。


うんで、話が国の経営戦略ってところに戻ってきてみる。
まずは浅い知識で、言ってみるのだけれど、
アメリカと日本の違いは、
「政府と企業がタッグを組んでいる」かいないか、じゃなかろうか。
それがアメリカの強さなんじゃないか。


日本は「政府と企業がタッグを組んでいる」ようには見えない。
もっといえば、国が一丸となっていないよなぁ。
少なくとも表だってはなさそうだよね。もっと昔はあったのに。
「富国強兵」とか「殖産興業」とか「欲しがりません勝つまでは」とか。
まあ、それはどうでもいいにしても、
「ITで行こう」とか「観光で行こう」とか言っても、
盛り上がってない感じだしなぁ。
まあ、国民が冷めてるだけか。
それなりに豊かだからかね?


そもそも、国の強さってなんだろう? 豊かさかな?
それとも、豊かさっていうのは20世紀的かね?


豊かさは、21世紀の「お金教」の支配する世界では
「経済力」だろうなぁ。
「経済力を背景にして発言権」かもしれない。


やっぱ僕らは世界を望み通りに変えたいと思うわけじゃない?
「平和な世界にしたい」でも「争いのない世界にしたい」でも。
でも、それを手に入れるためには、
その世界で有効な「力」が必要なんだな、これが。


「力」を手に入れるには、現代においては「お金」が必要なんだ。
現代においてだけじゃないな、たぶん、いつの時代だってそうだ。
「お金」が「力」だ。


日本は、政府と企業がタッグを組んでいない。
そのかわり、日本は政府と創価学会がタッグを組んでいる(ぉぉ!)


不勉強で「たぶん」を付けてしか話せないけれども、
アメリカだって、企業だけではなく、たぶん圧力団体があって、
その圧力団体に利益を誘導するように、政府が方針を決定している。
具体的には知らないけれど、銃の協会とか、キリスト教の団体とかね。


政府の方針と、団体の努力とのギアががっちりかみ合って(笑)、
団体のやりたいことのパフォーマンスが上がるわけだよ。


そもそも日本の国民って「やりたいこと」ってなんなんだ?
学会員はいろいろだけれども、
団体としては「やりたいこと」が明確な気がする。
すなわち「学会員の幸せ」を求めている。
だから、非学会員には「学会員になったほうがいいよ」と薦めるし、
「学会員の幸せ」を実現するために、あらゆる努力をするわけだ。
もちろん政治も例外ではなく、学会員を政治に送り出している。
そして学会員に有利なように方針を決定する。


パソコンが売れれば、テレビ事業部の人にもボーナスが出るように、
学会員が潤えば、非学会員も潤っていく。
トップダウンでレインドロップス式の経済は間違いなんですか?


創価学会のやってることは、学会員だけではなく
国民全体を導く「勝ちパターン」だと思いますがねぇ。
そもそも僕がどうして、創価学会を支持するかと言えば、
創価学会が勝っているからです。
創価学会が負けていて、
世間にウダウダ文句を言うだけならば、
僕は創価学会を支持しません。


現実に対して、当事者意識を持って取り組んでいることが
「勝ち」だと思います。
文句を言って足を引っ張ってるだけという状態を
「負け」ていると言うのです。


日本政府の圧力団体として、創価学会がある。
現在、日本政府と創価学会がタッグを組んでいる。
創価学会の利益のために国策が決められる。


生まれながらにして学会員である俺は、
勝者である創価学会からわざわざ離れたりはしない。
もし創価学会が「負け」を志向したとするならば、
俺はそのとき、学会員を辞めるのだろう。
だってそんなとき、学会員であっても良いことないもの。


日本という箱(日本という国はずっと箱でしかなかった)に、
現在は創価学会が入っていて、創価学会の構成員が、
前向きに頑張る人種であり、少しは良心を持っている人種なら、
なんの問題もないんじゃないか。
それにバランス感覚という面で言えば、
創価学会のバランス感覚は他の団体に比べれば優れていると思うよ。
だから、あんなにでかい組織を維持していられるんだ。


もういっそのこと、諸外国に対して、
「日本は創価学会の国ですよ」と宣伝してまわってはどうか。
そして、組織構成員一人ひとりが、
創価学会がより良くなるように努力すればいい。


全然方向性が見えず、一人ひとり自分勝手に
バラバラな方を向いている今の日本の国民の現状よりも、
ゆるやかな連帯で、一つの方向を見ている
創価学会の構成員のほうが、マシだと思うのは俺だけなのかなあ。
国際競争力という面で言っても、バラバラの国民でいるよりは、
連帯した創価学会員のほうが強いと思うし。


学会員一人ひとりがゆるやかな連帯をもつ創価学会を背景にして、
あらゆる分野に働きかけをする日本という国というカタチも、
国際社会において日本が「勝つ」ための、
まあ、つまり一つの選択肢ではあるように思うなぁ。


ぶっ飛ばして書いたので、キーワードが混同しまくって、
大雑把で乱暴ですが(w
誰か頭のいい人、整理してください(w
【2005/12/14 11:00 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
やっぱ腰のせいか?
齋藤孝は、最近「先生」と呼んでもいいかなくらいに思っていて、
三色ボールペンなんぞを俺も使ってみたりしちゃってるわけだが、
彼は「キレる原因は”腰”にあり」ってなことを言っているらしい。


なんとなく最近の俺の不調は、
もしかしたら腰にあるのではないかと疑ってみる。
腰が痛いからアクティブに動けないってのはあるよな。
長時間集中出来ないのも腰が痛いからだし。


つまり、食べ過ぎで体重が重いのと、
運動不足でお腹周りの筋肉が減ってるのとで、
腰に負担がかかっているのだよ。
わかってるんだけどなー。


それでも飲んじゃうし食っちゃうのは、心が空腹だからかしら?
ストレスって認めたくないんだけど、ストレス溜まってるかねぇ。
年が明ければなんとかなるかしら…。


身体が健康になれば、心が健康になるし、
心が健康になれば、身体が健康になるもんだ。
色心不二であるよなぁ。
【2005/12/13 15:04 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
「技」としての宗教
宗教のポイントは「いいからやってみろ」であって、
それ以上でもそれ以下でもない。


創価学会は、まずそこに組織がある。
組織があり人間がいる。
息をしている人間が、悩める人に
「いいからやってみろよ」と具体的な「技」として
オススメしてくれるところに創価学会のミソがある。
「組織があるから広宣流布出来る」
という学会員の言葉はウソではない。


書物に書いてあることを解釈し、自分なりに工夫して、
「技化して」実行できる人間に組織は必要ないのであるが、
必ずしもそういう力を持っている人ばかりではない。
そういうときには「いいからやってみろよ」が有効となる。


「いいから御本尊の前に座って題目をあげてみろ」
これだけのシンプルなことを、
なんの根拠もなくオススメ出来る人はマレだろう。
そこまでの自信がないからだ。
自信のある人は教祖様になれる。


創価学会という現実の組織が、
根拠の脆弱な宗教の「技」を補完してくれる。
「すばらしい組織」を示すことが、根拠となりえているわけだ。
この文脈で組織信仰は正しい。
「組織がすばらしい」ということが、
唱題という「技」の裏付け担保となっている。


単なる個人が、どれだけ「技」を提唱しても、
やってみる人はいない。ましてや普及なんてしない。
おそらく、目に見えた実感を伴わないからだ。
息の感じられないネットでの提唱ならば、なおのこと説得力がない。
これはかつてアンチが提唱し挫折したことが、実証している。


宗教の「技」が人を救う可能性があると信じ、
悩める人を救いたいと考えているのならば、
息の通った現実でそれをオススメする必要があるし、
実際に「技」として体を使ってやらせてみなければ意味がない。
理屈だけならナンボでも言えるのである。


その点、創価学会は現実に組織があり、そこに人間が生きている。
一人の人間が、一人の人間のことを思って、
具体的に「技」をオススメし、一緒に「技」をやってみせる。
こういう実践が学会員にある限り、
大筋では創価学会は人を救い続ける存在でありつづけるのだろう。


逆に言えば、もしこの地道な実践が無くなったとき、
おそらく創価学会の死ぬのだろうな、とも思う。
【2005/12/12 20:25 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』より
橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』をヒントに、
俺流に、無理矢理、宗教や創価学会と結びつけてみる。


さて、我々はeconomyというismの支配する
世界に生まれた二世なんですよ。
橋本治風に言えば、宗教の正体はismですから、
エコノミズムとでも言えるかもしれない。


当人が望む望まないは関係なく、僕らは、
「未来への展望」を信じざるを得ないわけです。
世界経済の現状が行き詰まってるのはわかってる。
これは真実です。
世界の経済というものは、
世界が閉じている以上、もう頭打ちなんですね。
でも、それにみんなが気づいたとき、きっと経済は崩壊する。


経済が崩壊すると、どんな混沌がくるかわからない。
だから、現状の経済を無理矢理飛ばし続けるしかない。
金融屋は無理矢理にでも商品を作って飛ばし続ける。
フロンティアのないところに、無理矢理フロンティアをひねり出す。
ヘッジファンドの類は錬金術とも言えるんじゃないすか。


エコノミズムの信者である僕らは、
わかっていてもわからないふりをしなくちゃなんない。
空気を読まなくちゃいけないわけです。
真実を口にするものには、みんなで罰を当てます。
ウソつきに仕立て上げたりして制裁を加えるわけ。
みんな、この秩序を守りたいから。
秩序が守られている方がマシだと考えているから。


こんな「勝ち組」「負け組」という
残酷な二分法の世界に生きながらえるなら、
エコノミズムの信者である
エコノミストになるしかないわけです。
つまり投資家ですね。


それが出来ないと「退転者」となり、
手痛い罰を受けることになります。
エコノミズムの支配する世界に生きている以上、
逃げ場はどこにもありません。


あるとすれば、お金以外の価値観を提供してくれる
カルト宗教くらいなものでしょう。
現実との線引きをしたら仏教でさえカルトです。
それとも山奥に住んで自給自足しますか?


ちなみに創価学会というのも、
エコノミズムという世界宗教の
出先機関だと思えばよろしい。
創価学会は、お金というものを聖域とせず、
教義に組み込んでいるように思います。
それゆえに、現実的な宗教と言えるわけです。


価値を創造する…つまり、錬金術ってこってす。
創価学会のビジネスモデルは確立しているのだから、
まあつまりいわゆる「勝ち組」ですね。
「勝ち組」はエコノミズムの支配するこの世界に置いては、
正しいってことになるわけですよ。


21世紀の現代において、エコノミズムの一端を担えない、
純粋な「宗教」というものは「カルト」と名づけられ、
20世紀中に既に駆逐されたわけです。
【2005/12/12 16:12 】 | オススメの本とか | コメント(0) | トラックバック(1) | page top↑
聖教新聞の使い方
最近読んでなかったんだが、久しぶりに聖教新聞を眺めた。
聖教新聞には、特におかしなことが書いてあるわけじゃなく、
あたりまえのことが書いてあるように思う。


あたりまえのことがあたりまえに出来れば、その人はまともな人だ。
でも意外と、あたりまえのことを忘れずにいるということは難しい。
そこで役に立つのが聖教新聞。
日々、あたりまえのことを目にするだけで、
あたりまえのことを忘れずに済むという効用がある。


聖教新聞は、あたりまえのことを、
やさしく気取らず、誰にでもわかるように書いてあるように思う。
熟読する必要はない。
やさしいゆえに見出しだけ見れば十分だ。


教義的なこと、つまり日蓮に関することは読み飛ばしていい。
組織を守るための、まあ機関紙的な部分も読み飛ばしていい。


アンチ的色眼鏡で見ないようにすれば、
学会員でない普通の人が読んでも、
人として大切なこととか、心と身体の健康のこととか、
人間関係のこととか、あたりまえのことが書いてあることがわかる。


「うん、こりゃ間違ったこと言ってないわ」
そういうことだけ読んで、自分の行動に採用すれば良い。
どんな書物でもそうだけど、文章はヒントに過ぎないわけで、
それをどのくらい採用して、判断して行動を決めるか、
というのは、本人の決断なんです。


聖教新聞の言う通りにしなきゃならない筋合いなんて
なんにもないんだし、
普通の新聞と違うからといって、蔑む必要もない。
使えるなら使えばいい。それだけなんだよな。


もちろん、これもあたりまえなんだけど、
読みたくないなら読まなければいいし、
取りたくないなら取らなければいいと思いますよ。
【2005/12/12 13:32 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
今にピントを合わせよう
不安になるのは「未来」を見ているから。
自信がなくなるのは「過去」を見てるから。
「今」を見ると、不安は消え自信が持てる気がする。
それが「今を味わう」ということ正体かも。
禅で言う「即今」ってこういうことでしょう。


ピントはぴったり合わせた方がいい。
ピントが甘いと絵がぼやけて、モヤモヤするんです。
【2005/12/11 20:59 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
「日本はダメになった」と言う資格があるか
誰かが「日本はダメになった」とか言ってるのを、
なんか違和感を感じて、軽い怒りを覚えるのは、
みんなが言ってるからそう言えば正解だろうという安易な姿勢や、
ちょっと賢く見えるかもという本人の思惑だけではなく、
当事者意識の無さと、感謝の意識の無さのせいだと思った。


おまんま食えて、インターネットにも繋ぐことが出来て、
こんな環境、幸せ以外のなにものでもないでしょうよ。
日本はダメになったのかなぁ?
普通に生活出来てれば、万々歳だろう。
ましてや、仏教を語る者ならばなおのこと。
小欲知足で満足せいよ。


もちろん不幸な事件は起きるけれど、
いつの時代でも一定の割合で起きてるんじゃないかな。
メディアが発達してるから、
一瞬にしてみんなが知ることが出来、
ヒマだからコネコネ考えちゃうだけで、
おかしな事件の数は、実は変わってないかもしれないよ?


今の日本だったら、生活するための道具は100円ショップでそろう。
本気でやればかなり節約して食っていけるはず。
現代日本において飢え死にするヤツってそんなに居ないと思う。
飢え死にするヤツは、こだわりがあるヤツじゃないのかなあ。
文化的な生活だってやろうと思えば出来る。
公園だってあるし図書館だってある。


まあ税金は払っているけれど、
稼いでないヤツの方が利用料金は安いでしょう。
稼いでるヤツの方が税金たくさん払ってるんだから。


で。
こんな贅沢なこと出来る環境である日本を作ったのだれよ?
過去に一生懸命働いた日本人の遺産だし、
今、一生懸命働いてる日本人が維持してるんじゃないの?


これに感謝することを忘れ、したり顔で「日本はダメになった」と、
一生懸命働いた、働いてる日本人に対しても言っちゃえるんだろうな、
というところまで僕は連想してしまうのだな。


「日本はダメになった」って言うけどさ。
あんたも日本人なわけでさ。
日本っていう団体のメンバーなわけよ?
(もちろんイヤなら日本人やめたっていいんだけどさ。)


この日本の幸せな環境を維持するメンバーとして
参加してる意識あるのかな?
つまり自分が「働いてる日本人」だと言えるのかってこと。


したり顔で「日本はダメになった。おかしい!」って言える人って、
現場の苦労を知らない人間なんじゃないかなぁ、
なんて思ってしまうのだ。
日本の国を動かしてる僕ら一人ひとりは、
日本をおかしくしようと思っておかしくなってるわけじゃない
と思うんだよなぁ。
よかれと思ってやってみて失敗することもあろうて…。
こういうのって性善説過ぎ?
事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!(笑)
まあ、こう言ってる俺も、インターネットでこんなこと言ってる時は、
会議室の人間だからなぁ…。
【2005/12/11 15:50 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
hedgehog dilemma もしくは free flight
僕自身が針をまとって生きているから、
針をまとった者にしか理解されないと思います。
針を身にまとった者でないと、きっと友達になれません。
そして、僕と友達になったとしても、
針を身にまとっている者同士だから、
ぴったり寄り添うことは出来ないのです。


それでも寄り添いたいと思うなら、
苦しいに決まっています。
もし寄り添うことがあったなら、
互いに血を流すしかないのです。


ambivalentなもの…。


僕は両翼を持っています。
だから単独で自由に飛び回ります。


飛び方を教えることは出来ても、
その者の片翼になることは出来ません。
せいぜい曳行するくらいしか…。


僕は両翼を持った者が好きです。
単独で飛べる者同士、互いを尊敬し称え合うけれど、
お手々つないで飛ぶわけにはいきません。
接触すれば、墜落してしまう。


飛んでこそ、自由なカモメ。
僕のアイデンティティはそこにある。
飛べない豚はただの豚です。


安らげる地面を蹴って、敢えて飛ぶ。
そんな僕であり続けたいのです。
【2005/12/05 14:09 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
まず「ごめんなさい」をやめよう
「やれば出来る」は魔法の合い言葉だけど、
「ごめんなさい」は不幸の合い言葉だな。


そうだった。
「ごめんなさい」はあんま使っちゃいけないんだった。
「やれば出来る」は信じるという言葉で、
「ごめんなさい」は疑う言葉。
予防線を張り、相手にそれ以上の責めを許さない。
自信がないから、ベストを尽くしていないから、
「ごめんなさい」なんて頻用するんだ。


黙って自分のやるべきこと、
やりたいことを着々とやっていれば、
よけいな「ごめんなさい」は出ないはず。


だってしかたないじゃん。
そうせざるを得ないんだもの。
俺はベストを尽くしてなかったの?
尽くしているのなら、なんで謝らなきゃならんのよ。


逆に言うと本気でぶつかってないから、
「ごめんなさい」なんて言いたくなるのかもよ。
俺よ、自分を信じなさい。
そして、相手を信じなさい。
【2005/12/05 12:35 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
とりあえず笑っとけ
「福運」って笑顔の異名だと思うなぁ。
とにかくまずは笑えって思う。


笑う門には福来たるで、
因果倶時なんだから、
笑った瞬間に福は来る。


しかめっつらしてないで笑おうぜ。
それから、切り替えは早いほうがいいんです。
【2005/12/03 19:51 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
心の闇から目をそらす輩
おかしな事件がおきるたびに、
「今の日本はおかしくなってる」とか、「犯人は狂ってる」とか、
したり顔で言うヤツがいる。


そういう人が無責任な気がするのはなぜだろう。
単なるスタイルに見えるのは、俺の心がすさんでいるせい?


本来、黙って涙を流すべき(俺の嫌いな「べき」だが)ことを、
ことさらに「俺はわかってるんだ」と主張するような輩。
「二度と繰り返してはいけない」なんて声高に言うような輩。
そういう人に唾を吐きかけてやりたい。


もう少し寛容に捉えるなら、たぶん、そういう人は、
その人の中にある「おかしな」部分や「狂ってる」部分が怖いのだろう。
なんとなくそんな風に思う。
まあ、俺だって怖いけれど。


ほんの少しも悪意を持たない人なんていない。
俺だって、隣の部屋の住人が騒音を出してただけで、
殺意が芽生えることだってある。
そんな思いは「狂ってる」だろうか。


実行すれば「狂ってる」とされる。
でも、思いとどまるかどうかなんて、偶然だろう。たまたまだ。
心の中の悪魔が「やっちゃえ」とささやけば、俺はきっとやっちゃうぜ。
そう思わない?
自信を持って「私は絶対やらない」と言い切れる?


でも、「私は絶対やらない」と平気で言い切れるような人を
僕は信用できない。
もしそうなら気持ち悪い。人間じゃないと思う。ウソつきと思う。


したり顔で「犯人は狂ってる」と言ってるヤツってのは、
平気で「私は絶対やらない」と言えちゃうヤツのような気がして、
唾棄したい衝動に駆られるんだ。
【2005/12/03 08:58 】 | 未分類 | コメント(13) | トラックバック(0) | page top↑
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