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強く生きよう
アンチが創価学会をはじめ、全ての宗教団体を否定する論拠として、
「弱い人間を、余計に弱くしてしまうのが宗教団体だ」
というものがあった。
では果たして、今のアンチ創価学会グループが、
弱い人間がやがて心が強くなるような思想を提供してるだろうか?


僕はそうは思わない。
アンチは「弱くてもいいんだよ」「負けてもいいんだよ」という考え方、
さらに言えば「負ける人間がいるから勝つ人間がいる」などという、
ある意味、敗者肯定の開き直り的な論を展開する。
これは、読んだ人に「自分は弱くてもいいんだ」と思わししめる
カルト思想に他ならないと僕は思うが、どうか?


宗教が、弱い人間を余計に弱くするものであるのならば、
そんなものは要らないというのは僕もアンチも同じだろう。
だったら、自立に向かわしめるために、強い模範を示すものこそ、
宗教の意義を果たすものではないか。


創価学会は「強くなれ」「自立せよ」というメッセージを
発信し続けていると僕は思う。
うがった見方をしなければ、そう解釈出来るはずだ。
しかしながら、創価学会がいくらそう叫んでも、弱い人が存在する。
だから、弱い人の受け皿として活動家組織が存在する。
それだけのことだ。


活動を通して自分が一人で歩けるようになれば、やがて
「仕事が忙しくなってきて責任が果たせない」
「そのかわり社会で実証を示す」
などと言って、活動家組織と距離を取るものだ。
そんな学会員は山ほど居る。


もちろん、やりたい人はずっと活動をやっている。
そんな人は、心が弱い人を支えたいという気持ちの強い人だろう。
創価学会の活動をするのも自由、しないのも自由だ。


弱い人間が強くなろうと努力している人間の集まりなのだから、
おかしな人が活動家に多いということは自然なことだ。
そして、そんな大部分が弱い者の組織の中にも、
弱い者をフォローしようとする人が居る。
もしくは弱い者同士が助け合い支え合う。


アンチはこの助け合いや支え合いを覚醒剤になぞらえて中傷するが、
このような助け合いや支え合いを通して、
人は成長するものではないかと思う。


組織内での助け合いを肯定した上で、
それでも創価学会の本意は、あくまでも、
「人間革命をして、頼るべき組織など必要としない強い人間となれ」
であると僕は思う。間違ってますかね?
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【2006/01/31 07:16 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
希望の反対語
希望の反対語ってなんだ?
絶望っていうのが普通の答え。
希望の反対語は、俺は反省だと思う。
希望は未来を向いている。
反省は過去を向いている。
希望を胸に未来に向かう人と、
反省を胸に未来に向かう人がいたとして、
前者の方が絶対幸せになれると、僕は信じる。
うつむき加減じゃ事故にも遭おうて。
【2006/01/29 16:31 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
折伏ってなにかというと
現代においてわかりやすく解釈するなら、
「折伏」っていうのは「強い自己主張」のことのことなんだろうな。
何者をも恐れず「俺はこう思う」と言い切ること。
これが物事を前に押し進める原動力に成りうる。


方向感が見えない現代においては、
「我々の進む道はコレだ!」と強く言い切り、
先頭に立って切り開いていく人こそリーダーの器と言えるのだろう。


また、誰もが思っているのに、
迫害を恐れて誰も口に出せないようなことを、
勇気を持って言い切ること。
「王様は裸だ!」と言い切ること。
その姿勢を日蓮から学べればOKだろうな。
【2006/01/28 21:02 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
文章のクセでわかる思考停止度合い
弁証法的な考え方が出来ない者、
矛盾する二つのものを対立概念としか捉えられない頭のカタイ者、
ブレインストーミングが出来ない者、そんな者の書いた文章には、
「○○しなければならない」と「○○であるべき」があふれてる。
この語尾こそ、自分の信条と違うものを拒絶する構えであり、
自分の頭で考えるというプロセスを面倒くさがり、
相手を決めつけてかかる姿勢である。


価値の多様化した現代のキーワードは「アウフヘーベン」だと思う。
これが出来ない人は、まともに生きていけないだろう。
【2006/01/23 07:26 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
せめて人として
世の中には二種類の人間が居る。
自分の頭で考え、行動を決める人間と、
他人に考えてもらい、指示してもらえないと行動出来ない人間だ。
前者に対しては、性善説を適用しても安全だが、
後者に対しては、性悪説を適用するしかない。
適用すべきでない者に性善説を適用すると、非常にリスキーだ。


指示待ち君は家畜と同じだ。
仏心をみせればつけあがる。
うまく使うには調教するしかない。


自分の頭で考えることの出来ない指示待ち君は、
自分で自分の首を絞めていることに気づかない。
ラクをしようラクをしようと手を抜くことばかり考える。
聞きかじりの知識を保身のため使い、飼い主を困らせる。
そんなことをするヒマがあるなら手を動かしてほしいし、
その努力をしたほうがパフォーマンスが上がるのだ。


手を動かしパフォーマンスが上がれば、彼を評価せざるをえなくなる。
努力してパフォーマンスが上がったそのときはじめて、
彼は自分の頭で考えている自分に気づき、
頭を使うという意味がわかるのかも知れないな。
パフォーマンスを上げるためには、頭を使うことが必要だからだ。
また、そのときになってやっと、彼に性善説を適用して、
仕事を任せることが出来るのだろう。


まずは人間革命してくださいって感じ。
畜生の境涯で留まっているなら、
畜生として扱うしかないです。
せめて人としてつきあいたいよ。
そのほうがお互い幸せになるんだからさ。
【2006/01/20 00:09 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
正しくないなんて
やっていることが正しい正しくないなんて誰にもわからない。
だけど、一緒に歩いていきたいから、引き留めようとするんだよね。
大切に思うから、引き留めようとするんだよね。
その気持ちがわかっても、毛嫌いすると見えなくなる。
どんなに純粋な気持ちであっても、
悪意を持って解釈すれば、いくらでも悪く書けるものなんだ。
【2006/01/17 20:38 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
毛嫌いしてるだけ
アンチな人って学会を毛嫌いしてるだけなんだよなぁ。


大いなる命でも自然でもなんでもいいんだけど、
そういった絶対神的なものを求め、
自己を捨てておまかせしちゃうなら、
仏教である必要がないでしょう。


キリスト教でも良かったわけだよな。
もっといえば、創価学会でも良かったわけだよ。
モデルは一緒なんだから。


どこまでいっても、ひとのせい。
選ぶ宗教も、ひとのせい。
無責任なんだな。
自主的に今の生を楽しもうという気はなさそうだ。
【2006/01/16 07:12 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
宗教って物語よ?
創価学会を考えるとき、そもそも、
宗教というものをどう定義するかという問題にまでさかのぼる。


「世界を説明し、人間が人間として生きる助けとなる『物語』」
が宗教である。


たとえば、宗教に似たものとして哲学というものがある。
哲学というものは「概念」を使って世界を説明する。
一般性を保ちながら物事の事柄の本質を捉えたものを「概念」と呼ぶ。
哲学は「概念」を使うことによって、
世界を説明するための「ものさし」を、
あらゆる人が共有出来るところを目指している。
哲学の「ものさし」は、おのおのの個人が持つ信条を越えて
有効である。


それに比して、宗教というものは「物語」を使って世界を説明する。
一般性を保つ「概念」ではなく、
限られた集団においてのみ有効な「物語」を使う。
宗教は「神話」という「物語」を持つ。
「教義」というものは「神話」であり、「物語」である。
そしてその「物語」は、「物語」を共有することのできる
限られた集団の中でのみ有効な「ものさし」である。


哲学と宗教を比べたときに、
一番の違いは、その運用のしやすさであろうと思う。
哲学は「概念」を使って、一般性を持たせようとする努力があるゆえに、
用語が難解となり、ある程度以上の教養を持たない民衆にとっては、
運用しにくいという欠点がある。
それに対して、宗教は「物語」という、
ある種単純化した「ものさし」を使うので、
民衆にとって理解しやすく、運用しやすい。これを「方便」とも言う。
ただしその「ものさし」は一般性を持たないので、
特定の限られた集団にしか運用出来ない。
創価学会は、哲学という民衆にわかりにくいものを単純化し、
宗教に翻訳して、それが通用する世界を構築した。


哲学であれ宗教であれ、その目的もしくは使命は、
「世界を説明し、人間が人間として生きる助けとなる」ことであろう。


アンチは日蓮の教説が現代仏教学に照らし根拠の無いものだから、
創価学会の主張はウソであり、人を騙すカルトであると主張する。
だが、僕からみれば、そんなことに拘泥している時点で、
教条主義的、原理主義的であり、一歩間違えばカルトに堕する。
俯瞰的視点を失い思考停止に陥っていると言わざるを得ない。


宗教というものが、
限られた集団において世界を説明するための「物語」であるならば、
法華経が非仏説だからといって、学会員にとってはなんの驚きもない。
その「物語」を愛し、それを信じ、
実生活に応用しようとするのが宗教の姿だからだ。
学会員は、創価学会の提唱する「物語」を、
実生活を計る「ものさし」として運用しているだけだ。


世界を計る「ものさし」として、
日蓮という「物語」を「ものさし」として運用する学会員がいる。
池田大作という「物語」を「ものさし」として運用する学会員もいる。
彼がどういう「ものさし」を使おうと自由だ。
その「ものさし」をつかう目的は、彼の幸せである。
どの「ものさし」を運用してもよいという器が
創価学会という組織である。


アンチは教義が変わったと言って創価学会を批判するが、
創価学会は学会員に対して、
たくさんの「ものさし」を提唱しているに過ぎない。
日蓮「物語」を好きな学会員、
日寛「物語」を好きな学会員、
池田「物語」が好きな学会員、
SGI「物語」が好きな学会員、
いろんな学会員が互いを全否定せず、
緩い連帯をつくっているのが創価学会の組織と言える。
創価学会は今や多神教の世界だ。


アンチがよく言う全体主義という批判は当たらない。
学会員一人ひとりが、自分の好きな自分なりの「物語」を持って、
世界を納得し、人間として生きる助けとしている。
かならずしも一つの絶対の「物語」で構成されていない
創価学会という組織は、
多様化した現代における宗教団体としては妥当なありかたと思う。
学会員一人ひとりが、それぞれ自分の「物語」を
語りあう箱が、創価学会なのである。
【2006/01/15 11:19 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
客観的? ウソつけ
インターネット上には、アンチな妻とかアンチな夫とかいるけど、
自分の選んだパートナーと一緒に
勤行やってみたってことあるのかなぁ?
やってみた上で、学会嫌悪の文章を書いてるのかなぁ?


学会の現在の方針を調べたり、池田氏の著作を読んだりして、
客観的に創価学会を理解する努力をした上で批判してるのかなぁ?
アンチな文献を読んだのなら、
それと同量の学会側の文献を読まないと、
アンフェアな判断になるでしょう。


学会側の書物を毛嫌いしてるようじゃ、
説得力持たないと思うんだがな。
自分にとって耳障りの良い情報しか採用しないなら、
アンチが否定するカルトに片足突っ込んでるよな。


実際の創価学会も見てみるべきだよな。
悪いところばかりに注目して、
良いところに目をつぶるならアンフェアだよ。


座談会に出て、普通だったら相手にもされないお年寄りが、
生き生き発言しているのを見た上で組織を批判してるのかな?
そんな老人は、もし座談会がなかったら、
引きこもってボケてるよ、きっと。


結局、ネットの情報や、アンチな人の情報を信じて、
創価学会をちゃんと見ることなく悪し様に言ってるだけだよなぁ。
少なくとも、創価学会に助けられたという人が
ゴマンといるのは事実なんだよ。
そこから目をそらすなら、その人こそカルトの素質を持っているよ。
【2006/01/11 14:50 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
子育てしてる人を尊敬するよ
まあつまり、理屈はどうでもいいんだよ。
結婚もせず、子供もつくらずに、
偉そうなことを言っても説得力ないわな。
リアルで子育てをしてる者から見れば、
インターネットで吠えてたって、ぺっぺっって感じだろう。
創価学会? 仏教? ちっちゃい、ちっちゃい。
いいから結婚して子供つくれ、ってこったな。


でも子供つくるのって怖い(笑)。
【2006/01/07 05:12 】 | 未分類 | コメント(10) | トラックバック(0) | page top↑
敵前逃亡は銃殺刑だけれども
敵を前にして卑怯にも逃げてしまったことを、
本人もやっぱり引け目に感じている。
生きる資格がないくらいに思ってる。


でも、いつまでもそんな萎縮しててもしかたないだろう。
軽蔑のまなざしを甘んじて受けながら、
格好悪く生き続けるしかない。


死んで欲しいと思われてるわけじゃない。
もしそうなら、そう思っている人の方がおかしい。
死んでお詫びするくらいなら、
生きて攻撃の的になってる方が、きっと役立つことになる。
せめて、はけ口の役目を引き受けた方がいい。


死ぬのはいつだって出来るし、その方が苦しみが少なくてすむ。
だけど、死ぬことはさらなる敵前逃亡であり、
周囲にさらに迷惑をかけることになる。
生きてる方がまだマシだ。
生きてればいつかフォローできるかもしれない。


大丈夫。
みんな生き恥をさらしながら生きてるんだ。
【2006/01/03 08:19 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
攻撃って意味ないんだけどねー
ふと思った。
ネットに接してる人ってさ。
みんな、ちゃんと考えていて、みんな、優しいのに、
なんで反発しあうんだろうなぁ。
なんで攻撃したくなっちゃうんだろうなぁ。


たとえば、ある単語を使えば相手を傷つけることを分かった上で、
傷つけてやろうと、その単語を使うのはなぜだろうね。俺も含めて。


このネットの界隈で僕と反発しあう人であっても、
もしリアルで僕と会う機会があれば、
きっと話ははずんで、理解しあえるような気がする。
なんとなく経験上だけれども。


だとするなら、ネットでドンパチやりあうことって、
まったく意味のないことなんじゃないかなあ。
ネットで、なにか一つの価値観に縛られることも、
まったく意味のないことなんじゃないかな、とも思う。
人生は短いんだし。


アンチは狂人こそ時代を変える、狂人になれと指導するが、
狂っちゃったら、誰も話を聞かなくなると思う。


いいじゃん、創価学会の人だって。
いいじゃん、アカな人だって。
主義主張ってどうでもいいんじゃないか。


いきりたって、血眼になり、
落涙しながら語る狂った人を、読者はどう思うか?
狂った人だとしか思わないな。
あ、こう書くことも攻撃か(笑)。
【2006/01/02 05:48 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
「やらせ」って当たり前だよねえ
「『めざましテレビ』で『やらせ』があったことが発覚したけどさ、
他のメディアでもやっぱ『やらせ』って
よくあることなんだろうなー。」
と、ここまでだったら、学会員は「うんうん」って頷く。
でも続けて、
「聖教新聞の体験談だって『やらせ』かもしれないよねぇ。」
とか書くと、急におっかない顔になって、
「証拠を出せ!」とか「デマを言うな!」言い出しそうだ。


いや、「だからなに?」って言われると、
「いや別に」としか答えられない、そんなネタだのぉ。
まあ、ちょっと思いついただけ。
【2006/01/02 05:45 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ダウナー系とアッパー系
やっぱ世の中いろんな人がいてさ。
おおざっぱに二種類に分けると、
ダウナー系のヤツとアッパー系のヤツがいると思う。
俺は、わりかしアッパー系で、そっちの方が幸せだと思うから、
「元気にアクティブに動こうぜ」ってことを訴えるわけ。


ちなみにこれは、創価学会の価値観と一致すると思うわけ。
そして、いわゆる日本の伝統仏教とは矛盾すると思うわけ。
んで「伝統仏教じゃないから、学会は仏教じゃない」
という暴論には、「ウソつくなよ!」と言いたいわけ。


まあそんなことはどうでもいいや。


ダウナー系な人ってさ。
家にひきこもって「私ってかわいそう」って思い続けていることが、
幸せだと思ってるんだと思うのよ。
不幸に浸っていることが、彼にとっての幸せなわけ。


でも、
「自分がかわいそうだって思ってることが好きなんでしょ?」
「そして『かわいそうだね』って
人に言ってもらいたいだけなんでしょ?」
って指摘しても、たいてい否定するんだよね。


否定するくせに「一切皆苦だ。つらいつらい」とか言って、
鬱々と過ごしているわけ。
そのうえ、アッパー系の人が元気でいるのをみて、
「おまえはいいよな…」なんて興ざめなことを、
ぼそっと言っちゃったりするんだ。
ひどいのになると足を引っ張るために、
理屈をこねたりするからなぁ。


「おまえはいいよな」なんて言うなら、やりゃあいいのに。
でも、そんな風に言うと、
「弱者の気持ちがわかってない」
とくるわけだ。


いやホントに「私って不幸せ」って思ってることが、
その人にとっての幸せだとしか解釈出来ないよ。
人種が違うんだ、くらいに結論づけるしかないわな。
【2006/01/02 05:42 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
念仏と法華
以下は俺の印象であり、もちろん我見だ。


念仏信者が阿弥陀如来の大慈悲に包まれていて
安心出来るから大丈夫、思いっきり生きていけるという発想は、
サラリーマンが部長や課長が責任を取ってくれるから大丈夫、
思いっきり仕事が出来るという発想と同じだなぁ、と思った。


んで、法華信者ってのは(まあ、学会員でもいいや)、
妙法蓮華経の当体である自分が、自助努力することによって、
自ら思いっきり生きていこうと誓う発想なんだよな。
自助努力をすることで、諸天をも動かしていく、と。


これって経営者が、自ら責任を引き受け、周囲を巻き込んで、
やりたいことを実現する姿勢に見合っているように思う。
経営者ってのは周囲の助けに感謝しつつも、
自分のやりかたや考え方一つで全部変わると思っている。


コントロールされているということを受け入れた者と、
自らがコントローラーになろうと、もがく者の違い。
そして俺は、もがくところに、生きている面白さがある思っている。


わかりやすいようにズバッと二分するんだけれど、
世の中には念仏気質の人間と、法華気質の人間がいるのだろう。
んで、念仏気質は労働者気質で、法華気質は経営者気質。
大雑把に分けてそんな気がするなぁ。


労働者には上司が居て常に守られているし、
上司の悪口を言ってればいいわけだ。
経営者は守ってくれるものなどなく、自分を信じるしかない。
誰かに守ってもらうことが前提となっている人と、
自らの身は自分で守らなくてはならないと思っている人との
違いがあるんだな。


念仏気質の人間に、いくら「主体性を持て」と言っても、
なんだかんだと理屈をつけては、ラクな方へラクな方へと逃げていく。
逆に、法華気質の人間に、いくら「我を捨てなさい」と言っても、
突っぱねて、やりたいようにやるわけだ。


それでも世間は圧倒的に念仏気質の人間の方が多く、
少数の法華気質の人間に支配されてしまう。
もしその支配を覆そうとするならば、
法華気質に転換するしかないだろう。
だったら最初から法華気質の方がいいじゃん、
と俺なんかは思ってしまうわけだ。
【2006/01/02 05:39 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
北風と太陽より
北風と太陽の話があるけれど、
北風が偉いわけでも、太陽が偉いわけでもないと思う。


旅人の服を脱がすための有効は方法は、なんだっていいんだ。
物語での太陽のように、
ジリジリ照りつけて自然と脱がすのも一つの方法。
北風のように、吹き飛ばすのも一つの方法。
コートには効かないかもしれないけど、
帽子くらいだったらとばせるでしょう。
北風が旅人に冷たい風を当て続け、旅人が家に逃げ込んで、
暖房をつけてコートを脱ぐなら、それも一つの方法でしょう。


「北風じゃダメだ、太陽にならなくては」などと、
わかったような口を利くヤツは多い。
それどころか「北風があるから悪い世の中になってるんだ」
くらいに言うヤツもいる。
どっちだっていいんだよ、手段の一つに過ぎないんだから。
【2006/01/02 05:19 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
宗教組織ではなく政治組織
創価学会は変化することが当たり前なのだから(だよねえ?)、
教義や方針は、これからもどんどん変化する。
「現代に合わせた解釈」とか言って、末端を混乱させないように。


「こうでなければならない」という硬い連帯は
もう維持することが不可能。
おそらく、今後はゆるい連帯となる。
「謗法払いをしなければならない」とか、
「日蓮だけが正しい」とかは言えなくなる。


創価学会は日蓮のエッセンスを抽出して、再びブレンドし直すだろう。
というか、もう日蓮正宗とは決別し、全く違うものになっている。
これからもどんどん日蓮臭は消えていく。
宗教色が薄くなると、公明党を抱えている創価学会は、
必然的に政治色が強くなる。
いや、もうなってるけど。


信仰者タイプの古い学会員は、
宗教色が薄くなった学会を「根無し草」だと批判する。
「公明党のための創価学会ではない」と言う。


新しい学会員は、そういう信仰者タイプの古い学会員を
「学会内法華講」と批判する。
いや、批判はしない。その人の言葉を受け流しながら、
心の中でそう思っている。
「公明党のための創価学会で何が悪い」と思っている。
政治権力を押さえることは総体革命には必要不可欠だもの。


「青年を大切にする」という言葉の裏には、
古い学会員は大切にしない、というと言い過ぎだが、
優先するのは、新しい学会員だということがあるだろう。
ということはつまり、主は公明党で従が創価学会ってこった。
【2006/01/02 05:16 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
池田名誉会長の書いたものを読もう
池田氏を師と仰ぎ、
「師弟不二」ということを心に染める者ならば、
良いか悪いかわからない幹部の言葉を信じるよりも、
池田名誉会長の書いた書物を読んで学ぶのが、
まず大切なのではないか。


池田名誉会長に触れたいと思うならば、
名誉会長の書いたものを読み、想像力を働かせながら、
メッセージをつかみとることをしないと、
ダメな幹部に翻弄されるのだろう。


聖教新聞でもよく取り上げられるが、
悪い幹部が学会の中から出たことを、
学会の自浄作用により「膿」が出て、
よりよい組織になろうとしているのだ、なんて言うけれど、
解釈によっては、今、あなたを指導している幹部が、
もしかしたら「膿」そのものかもしれないんだ。
ダメな幹部は、自分の都合で嘘をついているかもしれない。


だから、幹部の言葉を鵜呑みにするのではなく、
自分で池田名誉会長の書いたものを読み、その言説と照らし合わせて、
目の前にいる幹部の善悪を、自分で判断しないといけない。
そのために聖教新聞では悪い元幹部をこき下ろし、
幹部は威張るなと繰り返しているわけでしょう?


学会では「青年は政治を監視せよ」と言う。
創価学会には創価学会の政治がある。
民衆である末端の学会員が、
創価学会の政治を監視していかなくては組織は浄化しない。
活動を続けながら、自分の地域から
少しずつ変えていこうと努力する手法もありだろう。
ときには、活動をボイコットすることで、
自分の意志を示す手法もありだろう。


池田名誉会長の言説は多彩であり、
いろいろな側面から解釈することができる。
メッセージを「学会活動に邁進せよ」と解釈する人は、
そうすればいい。
「必ずしも学会活動だけじゃない」と解釈する人は、
そうすればいい。
少なくとも「幹部の言いなりになれ」とは言ってないはずだ。
本部職員だからといって、
必ずしも池田名誉会長の意図を正しく伝えてるわけじゃない。


なんのために池田名誉会長は膨大な書物を残そうとしているのか。
邪推を抜きにして、素直に解釈するならば、
それだけのメッセージがあるということだろう。
一人ひとりが、そのメッセージを受け取り、
咀嚼して意図をつかみ、その上でどう行動するか考えて、
自分で自分の道を選んでこその弟子なんじゃないすかね。
【2006/01/02 05:09 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
PCの中身の整理
むーん。PCの中身を見るにつけ、発表したのかしないのか、
覚えていない書きかけもしくは完成した文章が散らかっている。
我慢ならねぇ。


つーわけで、ここにコピペして、
どんどん捨ててくことにする。
だから、今からここに書くことは、
必ずしも今僕が思っていることではないです。
誰かの考える糧になれば、と思いますがゴミかもしれません。


いや、そもそもこのブログって、
ゴミも宝石もごっちゃになってるってのが、
最初のコンセプトだから、いいのだ。
うん、いいのだ(笑)
【2006/01/02 05:06 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします^^


さて、早速g様ファンに朗報です(笑)。
お年玉と言っちゃなんですが、
一月一日に何か始めたいと思ったのもあって、
新しいブログを始めてみました~。


池田大作著『今日のことば365』をブログする


これは池田大作の著作である
『今日のことば365』という本を一日一言引用して、
それに僕がコメントしていくという企画で、一年間頑張るつもりです。
続けられるか不安だけど、なによりもまずは、
一歩を踏み出すことが大切かと思い、作っちゃいました。


応援してもらえると嬉しいです。
こちらもあちらもよろしくお願いしますです~^^
【2006/01/01 15:53 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
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