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自分の足で歩け
自分で自分を律することの出来ないダメな人に対して、
「ダメでいいんだよ、仏におまかせしなさい」という思想を植え付け、
「仏におまかせすることは恥ずかしいことではないんだよ」と言う。
本人は慈悲のつもりかもしれないが、
それは無慈悲というものだと俺は思う。


はっきり言おう。
自分でないものにおまかせすることは、
人として恥ずかしいことであり、
生きている意義さえ見失う危険なことである。
一歩踏み外せばカルトに陥る。
なぜならこの思想は、
「自分で考えなくてもいいんだ」
という思想に容易に転落するからである。
そこから「教祖様におまかせ」ということになりがちだ。
その人に指示待ち気質があるのなら、なおその危険が高い。


本当の慈悲というものは、
「苦しくても自分の足で立ってしっかり歩け」
というメッセージを含むものだ。


「自分ではないものにおまかせしなさい」という甘い言葉は、
必死に踏ん張っている最後の砦を崩す行為に他ならない。
苦しいときこそ、相手も苦しいし、そこでの粘りがものを言う。
勝ちたいなら痛みに耐えて粘らなくてはならない。


甘い言葉は戦う姿勢を持つ者を誘惑する罠と言える。
崖っぷちを片手でつかみ、落ちないように頑張る人に、
「手を離せば楽になるよ~」と言うようなものだ。
そりゃ楽になるけれど、死んじゃうぜ。
まあ死にたいならいいけどさ。


こういう思想を学会員は「魔」と呼ぶ。
もしそれが本当の仏教と言うのなら、仏教なんて要らない。


人生は戦いの連続である。
これをまず自分に落とし込むことが大切であり、
いわゆる負け組に転落しないための心得の一つだと思う。


負け組の人間は、傷を舐めあうための仲間が欲しいから、
負け組に導くための甘い言葉を吐く。
「負けてもいいんだよ」と誘惑する。
ネットで問題になっている自殺サークルと方向性は同じだ。
気をつけた方がいい。
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【2006/02/28 17:05 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
痛みからしか学べないでしょ?
彼をかわいそうだと思うとき、
自分もかわいそうだと思われている。
彼をアホかと思うとき、
自分もアホかと思われている。


そうやって創価学会問題は起きる。
アンチがシンパに対して感じているのと同じように、
シンパも感じている、
シンパがアンチに対して感じているのと同じように、
アンチも感じている。
それ以上でもそれ以下でもない。
どっちが間違ってるとか、
どっちが正しいとか言えない。


火をつけあって遊んでるだけだ。
いわゆる「敵との戦い」が茶番だということがわかったとき、
はじめて、さらなる高みに登ろうとする気持ちが生まれる。


それをせずに同じ場所にステイするのなら、
まだわかってないということなのだから、
殴り合いを続けるしかない。
【2006/02/24 12:56 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
折り紙くんから思うこと
一つの文章にまとめるのはめんどくさいので、思いつくままに。


【学会を維持する気なら、やっぱ公明党は必要だわ。】
やっぱ日本だったら権力側にいないとやってけないよな。
今回もいろんな力が働いているんだろうなぁ。
団体がでかくなったら、政治と結びつかなきゃ維持できないね。
いろんな人がいろんなことやらかすし、タテマエだけじゃつぶされるわ。
学会には折り紙くんみたいな素直な子が多いもんな。


【民主党ってどうよ?】
こんな足並みのそろわない民主党に
政権担当させなくてよかったじゃん。
国の内々だったからお笑いのネタになるけど、
もしこんな調子で外国とやりとりされたらと考えると
そら恐ろしいよな。
こんな民主党に政権担当させたいですか?
俺はさせたくないな。


【折り紙でも折ってろ】
精神病で入院かー。
そんな神経が細くちゃ国会議員なんてやってらんないだろう。
資格無しだから辞めたほうが幸せだよ、きっと。
責めるのが残酷とは思わんけどな。
どんどん責めて辞めさせた方が本人も周囲も幸せな気がする。
自民党からすりゃ「釣れたクマー」って感じだよねぇ。
そんなエサに釣られちゃうのも資格無しって感じだよな。


【それでもアンチは民主党を推すのだろう。】
理屈はどうにでもなるからな。
「民主党は青いけどやる気はある。それに賭けたい」という論理なら、
「学会員には未熟な者も居る」という論理も通っちゃうな。
アンチの人っていろんな理屈をこねるけど、
考える前に、答えはもう決まってるんだよな。
「公明党は創価学会とつながってるからダメ」それだけ。
前回の選挙では、
バクチとして民主党を応援するとか言ってたけどな…。


【こうやって僕らが政治に対してしらける】
しらけて政治に興味がなくなって、選挙に行かない人が増えるんだ。
「組織票が有利→公明党が躍進→創価学会は維持→(゚Д゚)ウマー」
すばらしい作戦だわ。


【それによって、もし日本が沈んでいくのなら】
長生き出来る方に賭けるかな。
本気でひっくり返す気がないのなら、
長いものに巻かれてたほうが安全だろうよ。
俺はそんな庶民の気持ちに同情するし、責められないと思うなぁ。
そういや民主党は「日本をあきらめない」とか言ってたな。
中途半端に「あきらめない」とか言うんじゃなくて、
一度、堕ちきった方がいいかもしんないよ。
つーか、甘い汁を吸ってるお金持ちもいるけど、
なんとか暮らしていけるだけいいんんじゃない?
俺たち、インターネットなんてものまで使えちゃうんだし、恵まれてるよ。
【2006/02/24 08:49 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
暴力性とファンタジー世界についての思いつき
暴力性というのは、誰しもが持っているのだから
(持ってないという人はウソつきだと思う)、
どっかで吐きだしておいた方がいい。
できれば、あまり現実と関係のないファンタジーの世界で。


人によっては、このインターネットという世界で。
人によっては、宗教の活動家としての世界で。


それがリアルの世界で暴力性を発揮しない
一つの方法であるかもしれないと思う。


インターネットは匿名である以上ファンタジーである。
ファンタジーの世界で、つまり、便所の落書きの世界で、
悪意は吐きだしておいた方がいいんじゃないか。
そういう意味では、組織をファンタジーの世界だと、
割り切っている活動家というのも多いのではないか。


宗教なんてものはファンタジー的側面を持ってこそ、
薬としての効能が現れるものだしな。
【2006/02/22 13:33 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
「池田先生機関説」と言ってもいい
「池田先生からパンと牛乳が届いています」
「池田先生から押印和紙をいただきました」
内部ではこんな風に「池田先生」という言葉が使われるけれども、
実際に、池田大作氏本人がプレゼントしてるわけではないと思われる。
「池田先生からお手紙をいただきました」というのもそう。
第一だか第二だかの庶務室の仕事だろう。


学会員一人ひとり、「池田先生」像が違うから断定出来ないけれど、
人によっては、池田大作氏本人が、
「おい、あそこの会合に、パンと牛乳差し入れてやれや」
ってな感じで、直接指示している図を思い浮かべてるのかもしれない。
人によっては、池田大作氏本人はなにもしてないだろうと思いつつも、
別にどうだってかまわないと思ってるかもしれない。
学会の組織のどこかが予算を取って購入し、
会合の参加者に配布して「池田先生から」と言ってるだけと
思っているのかもしれない。
学会員一人ひとり、どう思っていようと自由だ。
ことさらに「本人からじゃないじゃないか!」と言うのは、
野暮というものなのだろう。


僕は創価学会に「池田先生」という機関があるのだと思う。


本部職員は池田大作氏に仕事を任されているとも言えるので、
拡大解釈すれば池田大作氏と不二と言えるかもしれない。
だったら、その本部職員が判断しての、差し入れやプレゼントは、
すべて「池田先生から」ということになる。


というか、創価学会という組織自体が、池田大作という人間であり、
池田大作という人間が、創価学会という組織自体なのだろう。
「池田先生のために」と「創価学会のために」というのは同義だ。


「池田先生が勲章をいただきました」というのも、
「創価学会が勲章をいただきました」というのと同義だろう。
「池田先生の著作」というのは、実際に誰が書いていようと、
池田大作名義で出版される以上、「池田先生の著作」だろう。


僕が最近思うのは「自分のため」に頑張るよりも、
「人のため」に頑張るほうが、簡単だということだ。
そして、「○○のため」の○○に入るのは、
人格を持った自然人の方がモチベーションは高まるようだ。


「創価学会のため」というと、ちょっとイメージ沸かないけれど、
「池田先生のため」というと、人格としてのイメージが沸く。
同じことを言っているんだけれども、働きかける力が違う。
喜怒哀楽のある一人の人間のためになら、
結構ツライことも我慢できてしまうものだ。
「池田先生」という方便なのだろう。


自分の守るもの、守りたいものを、
発見することすら難しい時代だ。
「母のために」「父のために」ということは、なかなか言えない。
「妻のため」というのも、ちょっとはばかられる。
自分が「なんのため」に生きているのか見失いやすいんだと思う。
そんな中で「池田先生のため」ということをポンと出されれば、
やる気が出る人もいるのかも知れない。
実際に活動家はいっぱい居るし。
それならそれでいい。


結局、なんだっていいんです、
やる気を出すために「先生のため」を使おうが、
「同志のため」を使おうが、「自分のため」を使おうが、
「広宣流布のため」を使おうが、「創価学会のため」を使おうが。
やる気を出して、積極的に行動することが出来れば、全部一緒です。
やる気を出して積極的に行動出来れば、それでいいんじゃないですか。


人の心の支えになってるものを、
ことさらに「それは違う」と言って回ることはないでしょう。
空気読むのが日本人なんだし。
「池田先生のために広布に邁進してまいりましょう!!!」
って言って、熱くなってるのもいいんじゃないんですか。
そういう風にやるのも自由だし。


学会活動が生きる支えになっていれば、それは否定出来ないよ。
宗教なんていうのは、そうやって使えばいいんです。
「池田教」って言われたって、別にいいんじゃないですかね。
「池田先生の言葉はぜったーい」って思ってる人も多いわけだし。
それならそれでかまわないんですよ。
百人いれば百人の「池田先生」像があるんだから。
【2006/02/21 08:50 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
元気で周囲を巻き込んでいこう
普通に生きてりゃ、辛いことも悲しいこともいっぱいあるわけだから、
元気に振る舞っていたり、ニコニコしている方が難しい。
だから悲しみに沈んでるのは簡単で、安易な道だよ。
安易な道しか選べない人は、上に立てる器じゃない。


組織の大小にかかわらず、長の立場にいるならば、
不安は見せず、いつも前向きに明るくいなくてはならない。
なんと思われようと、なんと言われようとも。
そうでないと従う者が安心して力を発揮出来ないからだ。


いつでも明るく前向きにいるということ。
それが出来ないでいると、いつまでも下っ端として使われる。
逆に言えば、それが出来ないのなら、下っ端で満足したほうが幸せだ。
それが出来ないにもかかわらず管理者になったとき、不幸が生まれる。


世間が悪い社会が悪いと言う前に、自分をかえりみた方がいい。
実力があり、それが発揮されれば、必ず抜擢される。
僕の目から見て、世間はフェアだと思う。
愚痴を言わないことが、長たる条件であり、
愚痴を言っている時点で、長に立つ資格はないのだ。


自分を沸き立たせる力、そして、周囲を巻き込む力。
これが現代において、必要な力だと思う。
自分で自分をどうプロデュースするかが大事なんだ。
【2006/02/18 17:07 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
「完勝」って敢えて言ってるだけか
たまにはアンチっぽいこと書いてみる(笑)。
学会って「常勝」とか「完勝」とか言うけど、
やっぱこりゃちょっと言い過ぎだと思うのね。
なんていうか、まあ言葉の綾なんだけどさ。


勝負っていうのは好勝負であるほど、僅差で決まるもんだ。
勝負師というのは、そういギリギリの勝負を求めてる。
己の実力を磨きながらも、実力が拮抗するような相手を探してる。
弱すぎる奴を、小手先であしらったってつまらないわけです。


となると、良い勝負ってのは、「完勝」ってわけにはいかないでしょう。
痛み分けってことも多いし、時には引き分けってときもある。
まあでも結局は、最後に立ってた方が勝ちなんだけどね。


あ、そうか!
創価学会が「完勝」とかいう言葉を使うのは、
つまり世の中を挑発してるってことか。
世の中というリングの上で「かかってこいや!」と、
中指おっ立ててるってことだな。
創価学会のホンネとしては
「もっと強い敵が現れて欲しい」
ってとこなのかもしれない。
そのほうが面白いと思ってるのかも。


確かに創価学会に敵対する組織の中で、
今や創価学会に匹敵するような強い組織というのは
なかなか見あたらないもんな…だったら確かに「完勝」か。


アンチの人は偉そうなことを言うのなら、
創価学会に匹敵するような組織を作って、
真っ向勝負を挑んでみればいいのに。
でも、そこまでする気はないみたいなんだな。


というかまあ、やっぱもう創価学会には勝てないって。
敵に回したら損するよな。
【2006/02/18 14:13 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
お互いさまなんだけどね(笑)
創価学会のことになると自分勝手になる自称仏教者がいる。
そんなエセ仏教者は学会員が大切にしているものを、
ズケズケと土足で踏みにじる。
「創価学会は仏教ではない」と言ってはばからない。
かつて自分が信じた十界曼荼羅に悪鬼が住むと言い、
拝めば不幸になると言う。
人が大切にしている本尊に向かってそういうケチをつけるのである。
つまり彼らは人の信じる御本尊に、
平気で火をつけることの出来る人種だ。


彼らがそう来るならば、学会員である我々は、
情け容赦なく彼らの本尊を糞味噌に言おうじゃないか!
その覚悟があって創価学会の決めた本尊を糞味噌に言うのだろう。


なーんてそんな風に煽るのも簡単なんだけど、
大人げないからやめとこう(笑)。
ただ、こうやって宗教的な対立が生まれ、果てには戦争になるわけだ。
そんなら宗教なんてまっぴらだという方が無難だし、説得力持っちゃう。
信仰を持つ者の程度が疑われるわけだ。


内部外部問わず、イっちゃった信仰者は、良識的信仰者の敵だよな。
おっと、これすら戦争になっちゃう。くわばらくわばら。


まあ、つまりアンチっていうのはそういう人種なわけだ。
自分たちを守るために、創価学会を糞味噌に言う。
彼らの言う仏教ってのは、その程度なんだ。
スピリチュアルだかなんだか知らないけど、
単なるオカルトになっちまったしな…。
【2006/02/17 06:50 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
「無常」が仏教のキーワードならば。
信仰仏教教団には若者がいて、
既成仏教教団に若者がいないのはなぜか。
それは、暗いからである。


仏教=クラい


このイメージを打ち崩さなければ、若者は寄りつかない。
「クラい」原因はなんだと思う?
俺は「深い反省を伴って」考えちゃうからだと思う。
まあ反省はほどほどに吹っ切って、明るく前向きになったほうがいい。
でもきっと、既成仏教にはそれが出来ないだろう。
頭が硬直しているからだ。
または、エスタブリッシュメントに縛られてるせいかもしれぬ。
それとも、仏教の条件として
「クラくなければならない」とでも言い出すのかい?


人をアトラクトさせるものというのは、明るく朗らかなものだ。
仏教の寺なんて、テーマパークみたいなもんだろう。。
だいたいクラい奴に近づこうと思うかい? 俺は思わないな。
天の岩戸は、歌と踊りによって開かれる。


仏教寺院にいって、
鬱々とした気分になって帰ってくることになったら、
二度と行こうとは思わないだろう。
もし寺に若者の姿が見えるようにしたいのならば、
リピーター獲得の努力をする必要がある。


たとえば、現代において仏教は、
音楽に溶け込んでいるというのは俺の自説だけれども、
ミュージシャンのライブというのは一種の宗教儀式だと思う。
ライブで一緒に盛り上がり、
ミュージシャンと観客とで、一体感を感じる。
それが、とても気持ちいいわけだ。
これを「境智冥合」と言うわけですよ。
ライブからの帰路で「またライブに行きたい」って思う。


だから、既成仏教だって、そういうイベントをアピールして
若者に「また来たい」って思えるようにすればいい。
そういえば真言宗の護摩なんて、なかなかいいパフォーマンスだ。
不動明王真言の響きとともに炎がゆらめく。
その炎に吸い込まれるような気さえする。
一種の芸術だと俺は思うよ。
少なくとも俺は「また行きたいなぁ」って思ってる。


創価学会で言うならば、会合に行って、
みんなと一緒に方便品自我偈と唱題をする。
それだけで、なんとなく一体感が味わえて「いいなぁ」って思う。
そして「また一緒に勤行したいな」って思う。
それでいいんだと思うんだ。それが宗教ってもんだろう。
だから、創価学会にはリピーターがつくわけです。
年間パスポートを買うわけですよ(笑)。
アンチは、そんな人を「騙されてる」と言うけれど、
「元気になれた」「励まされた」と思って買う人も多いんですよ。


ニーズが無いものは滅びる。
ニーズがあるものは生き残る。


生き残りたいと思うのならば、
ニーズをつかんでそれに合わせて変化していくことだ。
創価学会がなぜ生き残っているかといえば、
時代のニーズに合わせて自由自在に変わっていくからだ。
すくなくとも時代のトレンドに合わせようと努力している。
仏教の根本である「無常」を理解するということは、
そういうことではなかろうか。


今までの教義すら捨てられないで、なにが仏教か。
一遍は死ぬ際に
「一代聖教みな尽きて 南無阿弥陀仏になりはてぬ」
と言って、著作の一切を焼き払ったと言う。
このくらいの行動が出来てこそ、仏教者だと思う。
教義に執着している時点で、エセ仏教なのです。
時代や地域に合わせて、水のように姿を変えていく。
これこそが、仏教のありかたではないのか。


創価学会は今までの教義を平気で捨てていく。
しかも、大きな混乱が起きないように、上手に。
もちろんアンチは悪く言う。
「学会はカメレオンのようだ」と。


しかしそもそも創価学会の理念は、
民衆・大衆を救うためのものであり、
民衆・大衆が納得する形を研究し、工夫しているだけのことだ。
その結果、時代にあった形で、解釈を変えるし、指導性も変えていく。
それによって、民衆・大衆の支持を得る。
なにが悪いのか?
変わったからといって、いちいちいちいち反省し謝罪すれっちゅうの?


民衆ではないインテリは、
インテリなりに自分だけで勝手に哲学を構築すればよろしい。
法華経での二乗成仏の立場である俺は、そういう二乗も許すよ。
だけど、仏教はきっと本来、インテリではなく、
民衆・大衆を救うためのものであると思う。
大乗仏教というのはそういうものだ。
釈迦の滅後、八万法蔵が生まれたのは、
仏教が時と場所に応じて変じていったという証拠である。


仏教なんていうものは、見る角度によって多彩な色を見せるし、
どれが正統なものだなんて言えない性格のものだ。
いわゆる非仏説であろうとも仏教の範疇に入るとされることでわかる。


アンチは「創価学会は仏教ではない」などと、したり顔で言うけれど、
世の中仏教でないものなんてひとつとして無い、というのが、
仏教者の立場じゃないのか。
あらゆるものを仏教の一つの相として解釈出来るものだ。
それが出来ないならば、教条主義に堕したエセ仏教者なのだと思う。


現代において何が求められているのかということを敏感につかんで、
己を世界に合わせていく。
そういうカタチこそ、真の仏教と言えるのではなかろうかと思う。
現代はクラいものより、明るいものが求められている。
創価学会は伝統仏教のクラく抹香臭いものを廃し、
明るくしよう朗らかにしようと努力している
(いや、あかぬけてはないけどね(苦笑))。
だから少なくとも既成仏教教団よりも、創価学会の方が仏教らしいし、
トレンドに敏感な若者さえも集まっているのだ。
【2006/02/16 10:47 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
謙虚を装う傲慢
エセ仏教者は、ひたすら自分をからっぽにせよ、
からっぽにして仏というものを自分の中に受け入れよと言う。
じゃあ、からっぽにして、またそれが出来たとして、
どこに自分の意志というものがあるのかね?
自分の意志がないのなら、生きてる意味があるのかね?


そんな風に生きててなにが楽しいのかな。
そんなに自然とひとつになりたいならば、死んじゃえばいい。
死んだら自然とひとつになれるよ。


俺はそんなのイヤだから、生き生きと自分の意志を表現して、
生きていることに感謝しながら、生きることを精一杯楽しむよ。
俺は最後の最後まで生きていることを楽しむと誓う。


どんなに苦しくたって、そういうことを前提にしないと、
ご先祖様に顔向け出来ないじゃないか。
君の先祖は、そんな風な君のように「生きることは苦しい」と、
悟ったように生きることを期待して、血をつないできたのだろうか?
君の両親は、そんな風な君のように「生きていることは苦しい」と、
悟ったように生きることを期待して、一生懸命育てたのだろうか?


「ああ生きていくことは苦しい。それがわかったよ」
「己をむなしゅうして一心に仏を受け入れることにするよ」
そんな風に生きて欲しいと、
君の先祖は、君の両親は、願っているのだろうか?


じゃあ、立場を変えてみよう。
君が子供を持ったとしよう。
子供に対して何を望むか?
子供に対して「生きることは苦しい」と、
悟って生きることを期待するだろうか。
俺は自分の子供はいないけれども、
もし子供が出来たとしたら、
「生きることは楽しい」と思って生きて欲しいし、
「どんなに苦しくても自分の強い意志で乗り越えて欲しい」と願う。


もし「生きてることは苦しい」とするのなら、
子供を作ろうという気になどなれるのだろうか?
それとも仏教者的には、、子供を作ることすら悪だと言うのか。
そうだよな。セックスすら汚らわしい悪だと言いそうだよな。


話がずれた。
さて、君のご先祖様は、君の両親は、
なによりも君の幸せを願っているはずだ。そう思わないか?
そう思わないのならば、人としてどうかしている。
神とか仏とかを語る前に、まずは人間としてまともになる必要がある。


せっかくこの世に生を受けて、
「生きていることは苦しい」ということを受け入れることは、
一見謙虚なように見えるけれども、
それは自分に対する欺瞞であり、傲慢である。
今ある自分の生を冒涜し、
生を受け継いできた先祖をも冒涜することである。
たかだか数十年しか生きていないくせに、
なぜ「一切皆苦」などと言う資格があるのか。
もし先祖が目の前にいたら、先祖に向かってそう言うのか?
俺が先祖だったら、そんな子孫は殴り飛ばしてやるよ。
罰を与える力を持ってたなら、罰を与えまくってやる。
「反省してるから許してください」とか言ったなら、
なおさら酷い目に遭わせてやるよ。
だって、なんにもわかっちゃいないもの。


「生きてることは苦しい」ということが仏教というのであれば、
そんな仏教は糞食らえだ。
それが仏教というのであれば、
仏教なんて滅びてしまえと思う。


言ってみれば「生きることは苦しい」そんなことは当たり前だ。
そんなネガティブなことを強調して何が生まれるんだ?
「生きることは苦しいけど、楽しいこともいっぱいあるよな」
というところまで昇華出来なければ、
仏教であれ、いかなる思想であれ、まったく意味がない。


なぜならば「生きることが苦しい」という時点で止まったとすれば、
今すぐこの場で死ぬのが一番楽、という結論となるからだ。
まあ、いいけどね。
どうぞ死にたいなら死んでください。
まあ、死ねとは言わないけれど、死んだような目をして、
つらいつらいとぼやき、猫背でトボトボ歩きながら、
どうぞ生きながらえてくださいな。
そんな人間とは友達になりたくないけどね。


っていうか、いつか絶対後悔するぞ。間違いない。
その後悔のことを「邪宗の害毒」とも「罰」と呼ぶんだ。
生きていられる時間は短い。
死ぬ直前になって、もっと生き生きと、もっと思いっきり、
生きておけばよかったと思っても遅い。
せっかく生を受けたんだから、後悔しない生き方をしたい。
自分自身の意志を大切にして、
言い訳しない、神や仏のせいにしない、
そんな覚悟を持って生きていきたいと思う。
【2006/02/15 12:45 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
不満を表現するのが文章ですから
人はどんなときに文章を書くかと言えば、
たいてい不満があったり、割り切れないものがあったりして、
それを自分にわからせるために、
また、他人にわからせるために、文章を書くわけです。
たとえば、たいていの文学というものにおいて、
著者に生まれる創作へのパッションは、
著者がその生活で直面する矛盾から生じるものが多いものです。


だから、ネットにおいて書かれた文章の大部分は、
自分の直面している不満や割り切れないものが表現されています。
どんなものに対しても、問題点を強調した書き方になるだろうし、
そのものの持つ良いところ、美点については黙殺されてしまいがちです。


文章というのは、不満や割り切れないものを
表現するのに適したメディアです。
もちろん文章は、満足や割り切れるものを表現することも出来ますが、
それをわざわざ文章にして訴える意味がどこにあるでしょうか。
そもそもその当人は満足しているわけです。
嬉しいことをことさら訴える人は稀少です。


仮に、世界に存在する全ての文章を集めてきて、
不満を訴えた文章と、満足を訴えた文章の割合を
調べることが出来たとしましょう。
圧倒的に、不満を訴えた文章が多いはずです。


確かにインターネットには創価学会への不満が散見されます。
だけれどもそれは当たり前のことです。
なぜなら創価学会に満足している人は、
その満足をネットでわざわざ表現する必要がないからです。


アンチ創価学会の人たちは、
創価学会がおかしくなっている根拠として、
創価学会への苦情がネットで多く見られることを挙げて、
極悪な教団だと決めつけますが、ネットに表出しない
創価学会に満足している学会員はその何倍も居ることでしょう。
ネットで見える不満者の水面下に、
見えない多数の満足者が居るのです。
そうでなければ、本幹の同時中継に
あんなに人は集まらないでしょうし、
石を投げれば学会員に当たるくらいの会員数にはならないでしょう。


インターネットに不満が散見されるからといって、
創価学会自体が極悪だと決めつけることは一種の詭弁です。
ネットでの訴えは、創価学会全体からみればレアケースでしょう。
創価学会に満足している学会員が大多数であるから、
組織を維持することが可能なのです。
アンチの言うように、本当に社会問題になっているとするならば、
法によって裁かれていることでしょう。
組織としてはコンプライアンスを確保しているように思います。


どんな組織だって、重箱の隅をつつけば、
欠点を見出すことは出来ます。
レアケースを引用し、あたかも創価学会全体がそうであるかのように、
針小棒大に喧伝するアンチの手法に、そろそろ賢明なネットワーカーは
気づかなくてはならないような気がしますよ。


創価学会に対して不満のある人は存在します。
ですが、それはその個人の問題であり、全体の問題ではありません。
問題を持つ個人だけをサンプリングしても、
正確な全体像にはならないのです。
【2006/02/11 12:18 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
期待はしちゃうもん
相手の気持ちを考え許してあげて、
「今度は大丈夫かな」と期待しても、
普通にまた裏切られるわけよ。
この繰り返しって不毛だけど、普通なことだよな。


教育ってのは、不毛とも思える繰り返しを経なければ、
ものにならないのかもしれないね。
その不毛さにいつまでつきあってあげられるか、
ということが、思い入れのバロメータかもしれん。
どうでもいいやつはほっとくことになるし、
スルーするっきゃないものな。


間違えたことから学んで成長するのも人間なんだけど、
何度でも同じ間違いを繰り返すのも人間なんだよな。


だからと言って期待しないわけにはいかないから、
裏切られることに慣れることが大切かもな。
【2006/02/10 21:55 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
いいじゃん「創価家族」。
創価学会内部でよく言われている、内部外部という言い方は、
つまり、価値観を共有できる人であるか、できない人であるかの、
差別に過ぎないんだよなぁ。
これもまた創価学会内部で「創価家族」とよくいうけれど、
学会員同士っていうのは、ひとつの家族みたいなもんでさ。
家族以外の人間と差別して、家族をひいきするのは普通でしょ。
差別って言っても悪いことじゃないんです。
まあファミリーなんですよね。
ファミリーっていうとマフィアを連想しちゃうけど(笑)。
まあ冗談はおいておいて。


家族ではいろんな役割の人が居てさ。
それでかまわないわけですよ。
外で稼いでくるお兄ちゃんとか、
家族を優しく癒すお姉ちゃんとか、
厳しく家計を守るお母さんとかね。
いわゆる活動家っていうのは、
池田大作名誉会長という「お父さん」を尊敬していて、
お父さんの仕事の跡を継ぐとか、
お父さんの仕事に協力する役割を担いたいと、
思ってる人が志願してやってるわけでしょ。


お父さんを尊敬していても「創価家族」の一員だし、
お父さんに反抗していても「創価家族」の一員なわけだ。
アンチは「全体主義だ」「北朝鮮だ」と煽るけど、
けっこう連帯はゆるいと思うぜ。


いいんじゃない?
だって、現代日本において「家族」ってもの自体が崩壊してるんだから。
日本の若者がおかしな事件を起こすのも、道徳がなってないのも、
「家族」による道徳教育が不十分だからだという意見もあるくらいでさ。
だいたい、まともな「家族」でまともな「家庭教育」を受けたと、
自信を持って言えるヤツってなかなかいないんじゃないかなぁ。
「創価家族」があるだけマシでしょうよ。


未来部、いいじゃん。
若くて使命に燃えるお兄さんお姉さんがやってきて、
こうしようねああしようね、こうしちゃいけないよああしちゃいけないよ、
そうやって倫理を教えてくれる機関と考えれば、
なんにもないよりマシだよ。
何かに挑戦して、自分自身を鍛えよう、強くしようと、
指導されてりゃそれでいいんじゃん?
池田名誉会長という「お父さん」を尊敬しようという教育だって
別に悪くないんじゃないの?
幼少時から、信仰を根幹とした道徳を叩き込んでおこうぜ。
悪いいたずらでもしたら、御本尊の前に座らせて、
懺悔の唱題をさせるくらいでちょうどいい。
幼少時からぬるい教育されてると、大人になってから、
「社会が悪い環境が悪い」と人のせいするようになるぜ。
幼少時のうちに世間の理不尽さを教えておいた方が、
その子のためなんじゃないか?
親子は友達関係じゃないんだから、
親は嫌われるくらいでちょうどいいんじゃないかね。


たとえそういう教育したって反抗するヤツは反抗するし、
従順なヤツは従順だろうよ。
ただ、大人に厳しくしつけられなかった者や、
兄弟の間でもまれなかった者は、
わがままなまま大人になるような気が、俺はする。
少子化が進んで、一人っ子が当たり前の時代、
たまの休日に未来部で刺激を受けるのは悪いことじゃないだろう。


また、日本がおかしくなってきたのは、家庭も学校も崩壊して、
立派な大人が規範を示せなくなったせいだとか言われるれど、
池田大作名誉会長という「立派な大人」の
手本を示せればいいんじゃないかね。
そのために聖教新聞を使って内部へのプロパガンダするなら、
別に目くじら立てることもあるまい。
池田名誉会長というのは創価学会の機関の一つですよ。
「みなさんのおかげです。みなさんがもらった勲章です」
くらいのことは池田名誉会長は言うしさ。
いいじゃん。いっぱい勲章。いっぱい名誉市民。


その上で自分の子供に、
「池田先生に顔向け出来ないことはするなよ」
と教育するのは、「戒」みたいなもんでしょう? 
モデルとしては、仏教に叶ってるじゃん。
要は当人に悪いことさせないための方便なんだから。


日本から宗教的な道徳心が失われたとも言うけれど、
御本尊の前で、なにかを誓ったり反省したりする学会員は多いよ。
それでいいんじゃないの?
無宗教を標榜する、なんの戒も持たない、
よくわからん無原則な人よりは全然信用に値すると思うけどな。
また、わざわざ自分にマインドコントロールかけ直して、
別の本尊に乗り換えなくてもいいと思うぜ。
南無妙法蓮華経で充分です。


インテリは日本を憂うけれど、
問題を解決する説得力のある具体案は示さないよね。
だったら、創価学会にまかせておけばいいんじゃない?


若者が所属している青年部だって、
青年部として「学会の看板を背負う」という意識があるだけでも、
悪いことをしでかす心理的な抑止力になるかもしれないよ。
おかしなことをして「ほら、あの人、学会員だから」と、
世間の人から言われないように気をつけるだけで。


僕が見てきた青年部活動家の実態は、
そんなにほめられたもんじゃないけれど、
青年部に所属していながら活動に熱心じゃない人ってのは、
組織と距離を取っているだけに、
組織に迷惑をかけまいとなおさら気をつけるんじゃないかな。


活動家におかしな人が多いというのは事実だけど、
そんな人は活動したってしなくたっておかしなことはするよ。
おかしなことを考える時間を、活動に消費させられてて、
社会の秩序を保つために役立ってるんじゃない?


そんな風に考えると、創価学会ってバカにしたもんじゃないと思うし、
良いところはいっぱいあるわけですよ。
一つの面だけ見て、さも知った顔で批判出来るほど、
創価学会って底が浅いもんじゃないと思うですよ。
一つの国家にも相当する、立派なシステムです。


こんなによくできたシステムよりも良いシステムを提案し、
構築することなんて、ちょっと俺には出来ないな。
批判する人はそこまで勘案して批判しないとトンチンカンになるよね。
だから、創価学会を批判することはものすごい覚悟がいるんですよ。
わかってると思うけど。
【2006/02/09 18:53 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
別に日蓮もどうでもいいけどね
オーケー。君が日蓮を嫌いなことはよくわかったよ。
日蓮がその言葉を紡いだ背景も、心情も想像することなく、
言葉尻を捉えて、攻撃的だとか、排他的だとか言うんだもんな。
好意的に捉える気持ちなんて微塵もないってことだろ?
それって、つまり日蓮が嫌いなんだよ。
まあ学会員を攻撃するだけの材料なのかもしれないけど。


嫌いと言えば、俺の場合、個人的には最澄なんかは嫌いだな。
天皇の権力を利用して自分の教説を正当化しておきながら、
すました顔して良い子ぶりっこしてるんだもんな。
粘着で未練がましい姿勢も、じめじめしてキモイよ。
と、こんなことを書けば、最澄が好きな人にとっては
反論したくなるだろうな。
でも、日蓮嫌いな人は、
俺が今最澄に対してこんな風に書いたようなことを、
日蓮に対して書いているんだとわかってるのかな。


まあ、日蓮はおいておくとしよう。
日蓮の他では、俺は空海なんか好きだけどさ、
君の好きな人物は誰だい?
日蓮の揚げ足取りはもうわかったから、
君はどんな信念を持ってるの?


俺は創価学会の提供する信念でも充分だと思ってる。
わざわざ他の思想に鞍替えしなくたっていい。
幼少時から南無妙法蓮華経が最高と聞かされて育った二世三世が、
南無阿弥陀仏と唱えてハッピーになれると信じることが出来るかい?
信じることが出来るんだったらいいけどさ。マレじゃない?
ものすごいインテリじゃないとムリなんじゃないのかな?


南無妙法蓮華経を、無理矢理否定しなくたっていいだろう。
身体に染みこんでるものは、そのまま肯定しとけばいいじゃん。
そっちのほうが手っ取り早いもの。
俺みたいに南無妙法蓮華経を肯定しながら、
空海好きな学会員だっている。
平気で不動明王真言を唱えたりしますよ。
他の思想を学ぶために、題目を捨てなきゃいけないわけじゃないし、
創価学会を捨てなきゃいけないわけじゃない。


アンチは創価学会を指して、全体主義だ北朝鮮だと中傷するけれど、
アンチが思うよりも、いろんな思想を持った人が学会には居るよ。
俺みたいな学会員をアンチは異端と決めつけるけれど、
俺みたいな学会員が異端だとするならば、異端が学会を支えているし、
学会を支えているのならば異端とは言えず、それこそ本流じゃないのかね。
【2006/02/08 09:28 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
世界「被害者」発見!
ちょっとした困難につまずいている人がネットをサーフィンすると、
自分を正当化するために都合の良い説を発見することが出来る。
インターネットって本当に便利ですね。
「カルト」とか「マインドコントロール」とか「アダルトチルドレン」とか。
そして「私も被害者だったのだと気づきました」などと言って満足する。


どうも日本人は「被害者」という言葉に弱いらしいよ。
「被害者」と言えばたいていは、ひいき目にみてもらえるぜ。
お得だから、みんなで使おうか、「被害者」。
そうすりゃ「被害者」という特権が薄まるかもよ?
一億総被害者という日本もいいかもね(笑)。
【2006/02/04 09:53 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
悪魔の自覚
アンチは学会員の大切にしているものを、
バッサバッサと切り刻んでいるんだから、
自分が切り刻まれるような言葉を
投げかけられることも覚悟しているはずだ。


学会員を鬼や悪魔のように言うときは、
同時に自分も、鬼や悪魔になっている。
そういう自覚がないのなら、とんだ偽善者だ。
人の大切にしているものを中傷しておきながら、
ただで済むと思ったら大間違いだよな。
俺も地獄に堕ちるけど、あんたも地獄に堕ちまっせ。
【2006/02/03 14:44 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(0) | page top↑
この世界は勝者の思いのまま
結局、なんだかんだいって勝つか負けるかなんだよな。
その教えや、主張が正しいかどうかなんて、実は関係ない。
勝った者の主張は通るし、負けた者の主張は退けられる。
正しいか正しくないかなんて、本当はわからないことだ。


創価学会が正しいのは、
現在勝っている(少なくとも僕はそう思う)からであり、
ひとたび負けたとしたらば、正しくなんてなくなる。
だから、学会員は勝とう勝とうと頑張っている。
その行動が、良いか悪いかなんて、本当はだれも言えない。
だけれども、創価学会の陣営に居る限り、
創価学会を有利にするために、
「創価学会は正しい」と言い続けたほうがいい。
「正しい」と言う人の数が多いことが、
勝負のファクターとなっているからだ。


僕は勝っている方に付く。
卑怯者だと言いたくば言え。
逆に言えば、僕みたいなヤツがいるから、
学会は勝ち続けなくてはならないわけだ。


みんなも勝ち組に付いた方がいいよ?(w
【2006/02/03 07:51 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ハイクブログはじめてみました
ふと思ったことや、気づいたこと。
五七五に凝縮してみます。
まあテキトーなんですが。
【2006/02/02 10:14 】 | 未分類 | コメント(8) | トラックバック(0) | page top↑
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