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道具なんだからさ
仏教でもキリスト教でも、題目でも念仏でもなんでもいいけど、
全ては一人の人間がより幸せになるための道具に過ぎないと思う。
「あんたのはニセモノの仏教だ。俺のが本物の仏教だ」
とか言ったところで、それがなんになるのかね。
創価学会の教えで幸せになってる人がいるんだから、
その教えは、仏教の本質をとらえてると言えるんじゃないのかな。
それとも創価学会の教えは、人を不幸にすると言い切るのかね。
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【2006/03/25 12:39 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
なにかにコミットしとけ
この世の中が苦しいと思いこんでいる人に、
具体的に一つだけアドバイスをするとすると、
どこでもいいから、なんでもいいから、
自分の身体を使ってなにかにコミットしてみろ、ということだ。
自分の身体で、他者と関わっていくことだ。


アンチは創価学会の組織を毛嫌いし、存在を否定するけれども、
僕は、コミットする先が創価学会の組織であってもかまわないと思う。
本気で関わってみれば、そこから何かを学ぶことが出来る。
学会活動をやってみて苦しい思いをしたとしても、
そこから何かが学べるはずだ。
ひとつ、次のステップに進めるはずだ。
かのアンチでさえ、学会活動から学んだことがあるはずである。


学会活動は踏み台である。
活動のなかから、あなた自身がなにをつかむのか、
ということが本質である。
つかめたとしたのならば、今度は創価学会という世界ではなく、
世の中という大きな世界で羽ばたく時だ。
「学会活動なんてやってるヒマがない」
と言えるくらいになれれば本物だと思う。


活動を卒業した学会員を呪う学会員はまだ修行途中である。
わかるまで一生懸命に学会活動をやったらよろしい。
逆に、活動を卒業した学会員を祝福する学会員は本物である。
そんな学会員は、多分余裕を持ったまともな学会員だ。
奉仕の気持ちで、歓びに満ちて学会活動をすることを、
自らの意志で選んでいる。
「面倒だなぁ」と思って活動しているのならば、
言ってみれば、その人はまだまだ未熟な学会員なのだ。


アンチに対してもこれは言えるように思う。
歓びに満ちて活動している学会員に対して、
蔑む気持ちがあったり、もったいないと思うのならば、
まだまだ未熟なアンチと言える。
学会憎しの感情に囚われているだけだ。
歓びに満ちて活動している学会員は、
正見すれば幸せそのものなのである。
【2006/03/21 10:07 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
「癒し」だけじゃ偏頗だろう
だいたいさぁ、仏教は「松葉杖」であり、
傷ついた者のための「癒し」だみたいにいわれるけれど、
それだけじゃ方手落ちだと思う。
「勝つために戦え」「努力しろ」というのも仏教の中にあると思うよ。
「天は自ら助くる者を助く」の出典は仏教じゃないかもしれないけれど、
僕は仏教に含まれると思うんだ。
【2006/03/19 22:36 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
功徳に気づくということ
病気になったとして、治ったことが功徳だと言うのなら、
病気にならずにいられることは、相当の功徳なのだろう。
健康でいられることに感謝するなら、毎日功徳に包まれてるわけだよ。
ちょっとくらい環境に不満があったり、嫌なことがあったりしたって、
健康なら良いじゃんなぁ。
健康なくせに不満を漏らすのは罰当たりと思うよ。
【2006/03/15 06:26 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
「勝ち組」「負け組」でいいと思うのよ
この分野では俺は「勝ち組」、
この分野では俺は「負け組」、
それでいいと思うのよ。
カネをたくさん稼げるやつは、
経済の分野での「勝ち組」だけれど、
教養の分野では「負け組」かもしれない。
逆もあるでしょう。
カネがすべてを尺度じゃないのでしょう。
「カネ儲け大好き」
って人はそれはそれで立派だし、
「カネなんて関係ねーよ。これが好きでやってるんだ」
ってのも立派ですよ。


即物的な幸福の尺度にこだわり、
「勝ち組」「負け組」を煽ってるのは、実は
自分は「負け組」に所属してるんじゃないかと疑い、
卑屈になっている者のように思う。


即物的幸福の他に素晴らしい価値観をもち、
それに自信を持つ人は、他人の評価に紛動されない。
即物的幸福をやっかんでいるから「勝ち組」を意識してしまうのだ。
卑屈な者は、自分が笑われ、馬鹿にされてると思いこむ。
これを自意識過剰と言う。
実際は、本人が思っているほど周囲はその人に興味がない。


自分の価値を決めるのは自分である。
そのままで十分魅力的な自分に気づかずに、
社会を呪い、オカルトに逃避する。
だからいつも不幸だ。
不幸は誰が決めているかといえば、
本人の心が決めている。
自信を持てばいい。


競争は悪いことじゃない。
勝ち負けを決するのも悪いことじゃない。
自分の得意な分野で「勝ち組」になればいい。
仏教がいつから共産党になったのか知らないが、
徒競走でお手々つないでみんなでゴールが仏教じゃない。
脚の速いヤツはその分野で「勝ち組」のヒーローになればいい。
「これが仏教だ!」なんておこがましいことは言えないが、
世をあまねく支配する法、自分を支配する法にしたがって、
自分の使命を感じる場所で活躍できれば、幸福であろう。
精神的幸福をゲットしているその人は「勝ち組」だと思う。
一人ひとりが「俺、勝ち組」って思い込み、
幸福だと思うことが出来れば、
今以上にもっと社会は良くなっていく。


宗教は人を幸福にするための方便であり、道具である。
仏教もその一つに過ぎない。
人を幸せにしない仏教ならば、
そんなものは捨てた方がいいのだ。
卑屈になって現実逃避をして、
アカになってしまうのが仏教なら、
そんなものいらない。
【2006/03/13 10:02 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
傷つけてみればいい
人の失敗を責めるから、
自分の失敗も許せなくなる。
創価学会の未熟な人を責めるから、
自分も未熟であってはならないと思いこみ、
自分を追い込むことになる。
そうやって、神経症や鬱病になる。


未熟だっていいじゃん。
結果として人を傷つけることになったっていいじゃん。
人の反応を気遣って我慢するくらいなら、
開き直ってやってみればいい。


そうやって人を傷つけて、また自分も傷つけられて、
だんだんと人と人との距離感ってのがつかめてくるんだよ。
今までにそれを経験しなかったのならば、
今からでも遅くないから、それをやったほうが、
これから生き生きと生きられるようになると思う。
【2006/03/11 08:57 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
やっぱ貪欲がいいね
貪欲に生きてる人を見ていると、気分が良い。
好きなことを、もうそればっかやってる人。


金儲けが好きな人は、貪欲に金儲けすればいいと思うな。
文章書くのが好きな人は、貪欲に文章書けばいいと思う。
仕事が好きな人は、貪欲に仕事すればいい。
そう。学会活動が好きな人は、貪欲に学会活動すればいいんだよ。


いやならやめればいい。
【2006/03/08 08:06 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
淋しくたっていいじゃん
歳をとって淋しさを味わうことをなぜ恐れるのだろう。
なにごともそうだが、恐れてビクビク生きるから、
求めるものが手に入らない。


孤独を恐れずに自分をさらけ出して伸び伸び生きている人が、
かえって孤独にならず、淋しさを味わうことなく歳をとるものだ。
元気なおじいさんには話しかけたいと思うけれど、
卑屈なおじいさんには話しかけたいとは思わない。
だいたい、若いうちから歳をとった時のことを心配したりするから、
今の生を肯定して、生き生きと生きられないのだよ。
【2006/03/07 11:00 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
卑屈だから「負け組」
「負け組」という言葉を気にするゆえに「負け組」なのだ。
勝ち負けは全て、自分の心のなかにある。
自分を「負け組」だと思いこみ、
卑屈に生きることのどこに環境への感謝があろうか。
「勝ち組」「負け組」という言葉に囚われ、
馬鹿にされたと思いこむことこそ傲慢である。


そういう卑屈な自己否定をするから、
近くにある本当の幸福に気づかない。
小さな幸せに気づくことが出来るのなら、
既にあなたは「勝ち組」だろう。
それ以上なにを望むのか。


望むのならば努力すればいい。
努力しないのならば、そこで満足しとけ。
上昇しようと努力する者をやっかむな。
【2006/03/06 02:42 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
信仰者の看板
信仰を持つ者って「かたわ」なんだろうか。
精神的に欠けているから、宗教を必要とするのだろうか。
だとすれば、信仰を持たない者がやはり健常者と言えるのか。
純粋に、この界隈を見回すと、おかしな人ばかりだ。
言ってみれば、精神的障害者ばかり。
僕は信仰を持つ者としての自覚があるが、
精神的障害者ではないと思っている。
もしかすると、自分で気づかないだけなのか?
でも少なくとも、信仰を持たない者から蔑まれる振る舞いを
しているつもりはない。


信仰を持たない者に対して、信仰を持つ者として、
「信仰を持つ者はおかしな人ではない」
という主張をして行きたかったけれど、
それはあきらめた方がいいかもしれないと最近感じている。
この界隈の人は、何度も何度も同じ間違いを繰り返し、
「わかりました」と言っても、ちっともわかっていないことが多い。
成長する機能が失われているのではないかと思わされるほど。


信仰を持たない者は、こう言う。
「宗教なんかに頼るのは弱い人間だ」と。


信仰というものが松葉杖の域を出ないのであれば、
信仰を持たない者のそんな言葉を甘んじて受けるしかない。
信仰を持つ者は、差別されるべくして差別されていると
言わざるを得ないだろう。


信仰を持たない者にそんな風に言われて、
信仰を持つ者として、悔しくないのだろうか。
僕はそれを認めたくなかったのだけれど、
この界隈の人は認めてしまっているようだ。


僕は僕に縁した信仰を持つすべての人に、
信仰を持たない者から蔑まれないようになってほしいと願う。
そのためには、一人ひとりが信仰を持つ者としての自覚を持ち、
立派で豊かな振る舞いをしなければならない。
そうでなければ、信仰を持たない者からの
「宗教やってるのはおかしな人たち」という批判を
甘んじて受けるしかないと思う。


創価学会ではよく
「学会の看板を背負っている」
という言われかたをするけれど、
僕らは信仰者という看板を背負っている。
その自覚を持って振る舞いを律することが出来ないのなら、
他の全ての信仰者に対して迷惑だ。
【2006/03/04 09:59 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
ちょっとかなしいこと
僕がまだアンチだったころ、
アンチの陣営は「学会を脱会しなさい」とか、
「学会員の伴侶とは離婚しなさい」ということは言わなかった。
あくまで本人の判断にまかせるという線は守っていた。
当時はまだ理性があったし、良心的だったよ。
最近のアンチは先鋭化していて、危険なにおいがする。
学会憎しの宗門と同じ状態になってるわ。


しかも、迷える学会員を創価学会から脱会させて、
南無阿弥陀仏と唱えさせるのが目的だったとはね…。


アンチの陣営は、完全にカルト宗教になっちまったな…。
【2006/03/02 09:07 】 | 未分類 | コメント(6) | トラックバック(0) | page top↑
本当に僕が憎むもの
たぶん「べき」という語尾が、
この世の中で一番憎むものだ。
「べき」の裏には、「自分は正しい」という
おごりがあるように感じるんだ。
主体的に、自分が考えて、自分の言葉で、
自分が責任をとるつもりで話をする場合、
語尾に「べき」はつくことはそんなに多くないように思う。


もちろん文章表現能力の未熟さからくるものもあるだろう。
だけど、安易に「べき」を使う者は、
正解を安易に導き出そうとしているような印象がある。


学会員は「創価学会は正しい」と言い、
アンチは「『創価学会は正しくない』が正しい」と言う。
どちらにしても「べき」という語尾で語った場合、
同じ穴の狢のように思える。


アンチは、学会問題に悩む者を救うという大義名分を掲げているが、
学会員は、社会の問題に悩む者を救うという大義名分を掲げている。
大義名分を掲げておれば安心で、
「なんのため」かが書いている本人にも
わからなくなっているにもかかわらず、
「べき」という安易な語尾を使うと、
なんとなく体裁が整ってしまったりするのもある。


これは、学会員であってもアンチであっても、
同じように当てはまる。
所属する陣営がおかしいのではなく、
個人がおかしいという問題だ。


「べき」が文章を作る上で禁じ手というわけではないのだが、
「べき」って語尾から、無責任で、思考停止的な臭いを感じるのだ。
しかも、自分の主張以外は許さないという雰囲気がある。
大上段から「べき」と言われると、
それ以外の意見を持っているものは、遠慮し萎縮する。
そのくせ「強制はしていない」「提案しただけだ」などと言う。
その点では、ずるい学会員幹部もアンチも、
同じことをしていると言える。
【2006/03/01 14:20 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
学会に依存してるということ
アンチであれ、シンパであれ、
学会にこだわっている以上、学会に依存している。
その自覚があるか?


少なくとも俺は学会にこだわっているし、
学会という存在からいろいろなことが学べるから、
学会に依存してると言える。
アンチの君たちもそうなんだぜ。


俺はこれからも学会には存続して欲しいと思う。
いろいろなことを学ばせてくれる学会は、
俺にとって「ありがたい」存在だ。
学会という宗教団体にまつわる諸々のことが
世界の全てを説明してくれる。
生きていて出くわすトラブルは、たいてい
同じモデルが創価学会にまつわることの中にある。
おかしな幹部が居るように、おかしな上司が居るんです。
そんな人間関係のモデルが学べれば、それでいいんですよ。


あとは、一人ひとりがそれを応用して、
どうぞ幸せになってください。
創価学会の本意は「一人ひとりが幸せになること」ですから。
創価学会を離れて幸せになれるのなら、どうぞ離れてくださいな。


そのかわり、創価学会を攻撃しないでくださいよ(笑)。
創価学会を攻撃しておきながら、
「我々のことは攻撃しないでください」
ってのは、虫が良すぎるんじゃない?
攻撃する以上、同じくらいの攻撃されることを覚悟してくださいねっ☆ミ
【2006/03/01 11:03 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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