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それも一つの答え
「どちらでもあり、どちらでもない」
この一言が仏教なんだろうなと思う。
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【2006/04/27 15:15 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
仏教のものさし
仏教というものさしは、反省や癒しだけに使うものではないと思う。
そんな偏頗なものに留まらないだろう。
自分自身におきることや、自分をとりまく世界でおきること全てに、
応用することが出来るはずだ。
たとえば宗教とも仏教とも関係のない、誰かの書いた文章を読んで、
「これが縁だなぁ」「これは無常だなぁ」とそんな風に、
仏教の文脈にシフトさせて解釈してこそ役に立つ。
「おお、親鸞と同じ事言っとる」とか、
「日蓮が言ってたなぁ」ってのもアリ。


仏教というのは長い歴史があり、解釈も多岐にわかっているから、
オールラウンダーであり、だからこそ優れていると思う。
そうじゃないなら、キリスト教でもかまわないんだもの。
【2006/04/26 16:11 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
スランプ上等
スランプのときって、下りのエスカレーターを
上に向かって登るような気がするかもしれないけれども、
それは無駄なことじゃないんだよな。少なくとも筋肉がつく。
僕らは訓練をかねて実践してるわけだから、
全ての仕事が結果に結びつくわけではないし、
三歩進んで二歩下がることを繰り返しているわけだ。
やればやった分だけ進むわけじゃない。
スランプを感じるのは、
今の自分の出来る水準が当たり前になってしまって、
目指す水準とのギャップが出来てしまったからと言える。
「今よりもっと優れたものが作りたい」
という向上心があるからこそ、人はスランプに陥る。
逆に言えば、スランプが無いという人は、
現状に満足してしまい、より高い目標を掲げていない証拠なんだよな。
現役でいる限り、貪欲に「まだまだこんなもんじゃない」と思って、
苦しみ、のたうちまわるほうがいいよな。
【2006/04/26 15:42 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
格差ねぇ…
格差ってものを作っているのは、実は、
格差格差と大騒ぎしてるヤツだと思うなぁ。
そんなことを訴える前に、自分が頑張ればいいのに。
頑張る気がないなら、身の程をわきまえればいい。
身の丈にあった服を着ればいいのさ。
「よそはよそ、うちはうち」じゃないかなぁ。
【2006/04/25 23:20 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
正論が人を一番追いつめる
「こうあらねばならない」「こうあるべきだ」
そう強く思う人が、そう出来ないとき、
自分で自分を追いつめて鬱病になる。
理詰めで考えていけば、やらなければいけないこと、
やるべきこと、なんてすぐにわかる。
でも、わかってても出来ないのが人間でしょうよ。


人間なんてたいしたもんじゃない。
やりたくなったりやりたくなくなったり、気分で変わる。
理由なんてない。なんとなくだ。
まず、そんな気分屋な自分を許すことからはじめることで、
気分屋な他人も、気分屋な世の中も、許すことが出来る気がする。


「思い通り」になんてならなくて当たり前だと思う。
俺たちは機械じゃないんだ。
【2006/04/24 07:19 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
共謀罪に過剰反応する人ってどうなの?
だからさー、人権保護法案とかのときもそうだったんだけど、
なんだかわかんないけど、アンチな人たちって、
政治家のやろうとすることはみんな悪だと思ってるでしょ?
って思うわけよ、最近。


アンチ創価学会という人種って、単に反体制なだけでしょ?
公明党が気にくわないのは、与党だから気にくわないんでしょ?


法律に詳しくないし、詳しく調べてないから、
胸を張っては言えないとは思うんだけど、
共謀罪って、普通に考えて、
たとえば、警察がオウムみたいなテロ組織の
怪しい動きを察知して、事件が起きるまえに
しょっぴくことが出来る法律なんじゃないの?


というか、どっちかって言えばさ。
本来の目的ではない微罪でしょっぴいて、
本来の目的の方の尋問をして自供を引き出す、みたいな、
警察官の苦しさの方が問題ありそうな気がする。


俺は、日本の国を信じているからこんな風に言うのだろうけど、、
日本の国に無法者を取り締まる力がなきゃまずいと思うよ。
でも、国を信じられないのなら、日本を出てけばいいんじゃね?


なんだか「共謀罪の危険があぶないデシ」とか、
ネットの雰囲気で流されちゃう一人ひとりの方が危険な気がする。
なーんか、アカな臭いがするんだけど、違うかなぁ?


アンチの人は創価学会に騙されたって思ってるんだろうけど、
今は、なにか他の思想に騙されてるんじゃないのかね?
言論の自由が無くなるみたいに言われてるけど、大げさだよ。
そんなことは無いって。
【2006/04/23 21:40 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
やりがいを感じてるならOK
その人がそれをすることにやりがいを感じ、
生き生きとそれに取り組んでいるのならば、
その人は幸せであり、地涌の菩薩と言えるだろう。


それをする場所は、どこだってかまわないと思う。
学会の組織の中ではなく、現実の社会であっても、
その場所で使命を感じ、活躍しているのならば、
その人は広布に邁進していると言えるし、
後ろめたく思う必要は全くない。


また同様に、その場所が現実の社会でなく、
学会の組織の中であっても、後ろめたく思う必要はないと思う。


大事なのは、本人がその役割を、
やりがいを感じて引き受けているかどうかということだと思う。
仕事であっても活動であっても、本人がそれを望んで、
一所懸命にやっているんだから、
他人がとやかく言う問題ではない。


活動を頑張っている人に対して、
活動をやめたほうがいいとか、
やる気に水を差すようなことを言う前に、
自分がやりがいを感じて出来ることを見つけて、
せっせとやってた方が建設的だ。
【2006/04/20 18:34 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
新庄が引退かー
プロ野球は別に好きじゃないしチェックしてるわけじゃないけど、
新庄選手の姿勢は好きだなー。なにしろヤツは明るいしな。
大きな派手なことを言って、自分にプレッシャーをかけるとともに、
見てる人も楽しませようとする姿勢。
もちろん、そんな姿勢に眉をひそめるアンチな人もいて、
それでもかまわず、自分のやりたいスタイルを貫き通す。
エンターテイナーってかくあるべきと思う。


やっぱ俺は、誰もがエンターテイナーだったら、
この世界はもっと楽しくなると思うんだ。
世界はピエロが救うんだよ、きっと。
【2006/04/18 22:53 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
殺伐として当たり前
たとえば「仲直りの握手」という、
身体を使ったコミュニケーションは出来ないところが、
インターネットの限界なんだよなぁ。
問題の解決は、そういう言葉ではないコミュニケーションで
なされることが多いんだ。
言葉はその声色が分からない限り、善意とも悪意とも取れる。
敵対した関係に近ければ、
相手の言葉を悪意として解釈し保険をかける。
インターネットでの言葉の応酬は殺伐とするのは当たり前だよな。
自分の守りたい大切なものを、持っていればいるほど。
【2006/04/17 15:35 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
自分を変えろ
自分を取り巻く環境を嘆いてもしかたがないのだよ。
どう考えても、やっぱりそれは「人のせい」にしてると思う。
この日本の社会は、どう考えても恵まれてる。
これ以上どうしろと言うのだというくらい恵まれている。
自らが不幸だと思う人は、まず自分自身を顧みた方がいい。


たいていの原因は自分自身にあるはずだ。
家庭環境のせいでもなく、親のせいでもなく、
職場環境のせいでもなく、上司のせいでもない。
創価学会のせいでもなく、政治家のせいでもない。
絶対に、自分自身のせいだ。


自分自身の心が変われば、自分を取り巻く界が変わるという希望を、
間違いだと言うのなら、何を信じて生きていけばいいのだ。


自らを不幸だと思っている人は、幸せそうに生きている人を見て、
自分とは違う恵まれた環境に育ったからのように見えるかもしれないが、
その人はその人なりに努力をした結果なのだ。
容易に口には出さないけれども、
家庭環境の問題を抱えていたかもしれない。
トラウマもあったかもしれない。
でも、それを努力で克服してきたと思うんだ。
なんにも傷を負ってない人なんて居ないと思う。


意識的に自分をプロデュースしていくことでしか変わることは出来ない。
自分をコントロールするのは、あくまでも自分のはずだ。
なにかを待っていても、決して与えられることはないし、
仮にそれが与えられたとしても、自分の力にはならない。
次に欲しいものが現れて、ずっと不満を言い続けることとなる。


どこかで「思い切る」ことが絶対に必要だ。
それは「過去の自分よさようなら」という覚悟でもある。
未経験のことに飛び込んでいく勇気とも言える。
日常に流されているだけでは、絶対に幸せになんかなれない。
【2006/04/16 09:58 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
当たってる当たってるw
gizmoの62%は勢いで出来ています
gizmoの34%は知恵で出来ています
gizmoの2%はお菓子で出来ています
gizmoの2%は心の壁で出来ています
【2006/04/14 22:17 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
筏は漕がなきゃ
出来事をそのままとらえるだけではなく、
積極的にその変化に、参加していきたい。


生という流れる川の流れに逆らうことは出来ないけれど、
ただ流されるままなんていやだ。
自らオールを持って漕いでいたい。


明るく楽しくなるために、自ら努力している者こそ、
仏法者と言えるんじゃないかと思う。
【2006/04/14 10:38 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
違う価値観
「どちらでもない」ということではなくて、
「どちらでもある」ということを考えられないかと思うんだな。


二つの矛盾する考え方が、
収まりよく成り立つ一点ってのがあると信じたいわけよ。
それを探すことが「対話」だと思うのね。
妥協点とも違くて、お互いのバックグラウンドや、
その考えに至るプロセスなんかを、
理解しようとする姿勢をもってことを進めることを、
「建設的」と言うと思うんだけどな。


「どちらでもない」という、
理解出来る可能性をあきらめる姿勢ではなくて、
「どちらでもある」という、
どこかに理解しあえる点があるかもしれないと信じて、
その点をお互いに探し続けることが必要なんじゃないか、と。


一番ラクなのは、互いに隔離された場所で、
違う文脈で生きていくことなわけですよ。
一人ひとりが違う信念を持っているとするならば、
究極的には、山にこもって一人で過ごすのが一番ってことになっちゃう。
でも、世の中そうはいかないわけじゃないですか。
ひきこもりってのは「どちらでもない」を選択した姿だよな。


なにが問題かっていうと「頑な」さだと思ったりもするなぁ。
しょうがないじゃんなぁ、学会員も非学会員も共存していかねーとさ。


日本は単一民族国家だという甘えが、
学会問題とされているものの本質な気がする。
学会員と非学会員は違う民族なんですよ。


だとしたら、説明しなきゃわかってもらえないだろうし、
説明をきかなきゃわからないだろうよ。
その過程で傷つくことをおそれて、
どっちかが「頑な」になるから、話が前に進まないわけだ。
聞くことすら拒否されるんじゃ、どうしようもないじゃんねぇ。
【2006/04/12 11:09 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
あるがままに
「災難に遭ふ時節には災難に遭ふがよく候、死ぬる時節には 死ぬがよく候、それが災難をのがるる妙法にて候」と良寛さんも言っている。


学会員として生まれたなら、学会員として生きるがよき候ってこっちゃ。
学会員は学会員として生きればそれでよろしい。
学会の家に生まれたことを呪うより、
あるがままを肯定すればいいじゃないか。
自信を持っていい。
【2006/04/09 12:26 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
やわらか頭になろう
ふと思った。
学会否定論者って、頭のカタイ人たちなんだな。
物事を多面的に見られないというか。
なにか正しい答えが決まっていると思いこんでいて、
答えを出せないままでいると気持ちが落ち着かない人だわ。


答えなんてあるわけないじゃん、ってのが答えだし。
落ち着かないまま生きるしかないじゃん、ってのが答えなんだけどな。
それがいわゆる「空」であり「無常」であるわけなんだけど。


創価学会を否定するくせに、伝統仏教を肯定するなら、
結局、仏教をなにもわかっていない証拠だと思うんだな。


日本の仏教の歴史は、古いものがありがたがられ、
権威とみなされる傾向があったわけだけれど、
古いものほど権威と見なされるという執着から、
離れることが出来てないわけだ。
まあつまり、日本人なんていうのは、偉いとされてる坊さんでさえも、
仏教わかっちゃいないケースが多いわけだが。
そもそも「ここにこう書いてある。だから正しい」というのは、
本来の仏教的姿勢ではないわな。


そもそも、分類すること分析することが「分かる」ということだけど、
仏教の精神が「一」であるのなら「分かる」ことはその精神に反する。
「分かった」時点で、仏教をわかっていないとなる。
よく難信難解といわれるけれど、その通りなんです。


それを無理矢理「分ける」ことで「分かる」ことにしてしまうから、
偏頗な人間になってしまうと思うんだな。
「分からない」ことを知ることが仏教なんですよ。
【2006/04/09 12:09 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
信心が足りないんじゃね?
やっぱさー、「罰が当たる」なんて言ってくるヤツには、
「おまえこそ罰が当たる」って言い返してやりゃいいんだよ。
自分の信仰に自信があるのなら、そのくらいのことは言えるべ。


そもそも自分の信じているものに確信がないから、
人にとやかく言われたくらいで、不安になるわけよ。
不安になるんだったら、まだまだ「信心が足りない」んだわ。
題目でもあげたら?


学会員であれ非学会員であれ、
アホなこと言ってくるヤツはいっぱいいるから、
そんなヤツの言葉は聞き流すのが正解だろう。


「地獄に堕ちる」とか「罰が当たる」とか言われても、
俺は全然へっちゃらだけどな。
俺に対して、そんなこと言うヤツの方が境涯低いと思うから、
平気でほっといちゃうし。
まあ、俺の信心は最強だからなぁ(笑)。
【2006/04/07 19:31 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
無常だからこそ
ものごとはすべて変わってしまう。
それを悲しむのか、それとも楽しむのか。


なくしてしまうことや別れさえも、
楽しめる自分になりたい。
悲しさも楽しさに変えていきたい。
それが僕を支えてくれたすべてのものへの、
なによりもの回向だし、供養だと思う。
だってもし俺が死んだら、
生き残っている人には楽しんでほしいと思うもの。
少なくとも、悲しみにくれていてほしいなんて思わないもの。
【2006/04/06 09:13 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
真っ正面から打ち合えばいいのに
なんというか、創価学会の問題というのはたいてい、
実際は個人対個人の問題なんだろうと思うんだけど、
人の顔が見えない組織を責める方が敷居が低いんだろうなぁ。
だから個人を直接責めることなく、
ネットで組織の方に矛先を向けて、
満足した気になってるんだろう。
いつまでたっても問題が解決しないのは、
リアルでその相手と真っ正面から戦わないからだよな。


その学会員が間違っているなら、面と向かってやりあって、
言い負かしちゃえばいいのに…。
ちょっとネットで検索すれば、
間違ってる学会員を言い負かす材料なんかゴロゴロしてるし。
そんな学会員は、面と向かって論破して、
こてんぱんにしてやればいいと思う。
そのほうがその学会員のためにもなるし。
ネットでブーブー言うくらいなら、
理解しあえるまで徹底的にやりあう方がいい。


学会員が退会者をシカトすると、アンチは訴えるけれど、
アンチは学会員をシカトするから、結局おあいこだよな。
「対話しよう」と言われて断る学会員は少ないから、
問題を抱えているなら、身近な学会員を捕まえて、
訴えてみればいいのにと思うなぁ。
創価学会はそういう意味で閉じた組織ではないし、
いろいろな人がたくさんいるから、
真っ正面から向き合ってくれる人が、絶対見つかると思う。


ネットでうじうじしてても何の解決にもならないけれど、
リアルでアクションを起こせばいつかは解決するもんだよ。
【2006/04/05 23:40 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
痛い人を救えなくて、なにが仏教か
まあ、僕がいつも言っていることだけれども、
終戦直後の日本には、貧乏人と病人があふれていた、
仏教の団体である創価学会は、貧乏人と病人を救うのが使命だった。
当時、貧乏人と病人ばかりだったことは、
学会の誉れでもあったわけだ。


現代の日本には、依存心の強い人や、
精神を病んだ人があふれている。
空気の読めない人や、自意識過剰な人、
粘着な人は、社会に適応出来ない精神病な人だ。
そんな精神を病んだ学会員は、
現実社会にも居るけれど、もちろんネットにも居る。
そんな人は何度も何度も同じ間違いを繰り返して、
少しずつ人間の機微や心を学んでいくのだろう(と、信じたい)。


そんな痛い人を見放さず、救おうとしているのが創価学会である。
取り返しのつかない過ちを犯さない限り、
どんな学会員であっても、創価学会はその人を守ろうとする。
昔の創価学会に病人が多かったことが学会の誉れであったように、
今の創価学会に痛い人が多いのは、学会の誉れだ。
ただし、痛い人がそのままで肯定されるわけではない。
創価学会の看板を汚さないように意識しながら、
真人間になれるように自らが努力するしかないだろう。
そんな痛い人をサポートしているのが創価学会だとも言える。
【2006/04/05 03:03 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
本当に問題は創価学会なの?
ホントに思うんだけど、
ネットに溢れている創価学会の問題とされている問題って、
創価学会の教義や組織に問題があるというよりも、
単にその家庭や人間関係に問題があるんじゃないかと思う。


本当に創価学会の問題だとするのならば、
創価学会が消滅すればその問題は解決するはずだ。
けれど、創価学会が消滅した状況を、出来る限り客観的に想像しても
彼もしくは彼女の抱えている問題は解決しないように思うんだよな。
創価学会にはまっておかしくなってる人は、
他の宗教にはまっておかしくなってるよ、きっと。
だって、まともな学会員もたくさん存在するもの。


つまり、問題の表面的なところに創価学会という宗教団体が
あるのかもしれないけれど、その本質は一人ひとりの人間性だったり、
その恋人同士の関係だったり、家族の関係だったりすると思うんだ。
宗教の問題ではなくて、人間関係の問題だろう。


創価学会という存在が責めやすいから、
責めてるだけじゃないかなあと思うわけ。
家族間で対話出来ないのは、創価学会が悪いのではなくて、
その家族の関係に問題があると思うのね。
お母さんが家庭もかえりみずに創価学会にはまるのは、
創価学会が悪いのではなく、お母さんが悪いんちゃうの?
熱狂的になる対象がヨン様じゃなくて、
池田大作という人だっただけなんちゃうの?


俺は、創価学会への言いがかりにしか見えないんだよなぁ。
創価学会の歴史、創価学会の教義の問題なんかにすり替えて、
「ああやっぱり創価学会が悪かったんだ」と満足し、
安心してるだけに過ぎないように思うんだ。
【2006/04/05 01:01 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
堕地獄について
アンチは日蓮の言説や、学会員の言葉の、
「地獄に堕ちる」ということを攻撃対象にするけれども、
そもそも地獄の恐ろしさを提唱し、表現したのは源信だよなぁ。
日本人の地獄の視覚的イメージって源信にあると思う。
学会員が「あんた地獄に堕ちるよ」と言ったとしても、
その怖さの原点は日蓮ではなく、念仏の提唱者である源信じゃね?
責めるなら源信のほうを責めようよ。


まあいいや。
学会員が地獄と言う場合、
どこか他の場所のことを指すのではなく、言ってみれば、
十界互具の自分自身の中の心の状態のことを指すのでしょう。
いわゆる「地獄の境涯」というやつでさ。


「心こそ大切なれ」で、一念三千で色心不二なのだから、
心が地獄の様相を呈していれば、
自分をとりまく世界も地獄のようになる。
地獄の境涯を持った者が集まってくる。
それがあなたの幸せだと言うのなら、止めはしないけれども。


自分の心を、菩薩の境涯に保つことが出来れば、
集まってくる眷属も菩薩となる。
世界も輝いて見えますよ。


世界に対して恨み言を言っている限り、
ずっと三悪道四悪趣から抜け出すことは出来ないわけです。
【2006/04/03 17:14 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
まあそうムキになるなよ
学会問題をなくす(まあ、なくならないと思うけど)一番の近道は、
頭の良いアンチ(頭が良いからアンチやってるんだよね?)が
ムキにならずに創価学会や学会員を生暖かい目で見守ることだと思う。
まあ頭の良いシンパも、イっちゃったアンチを生暖かい目で見守ろうや
(頭の良いシンパは実はもうすでに沈黙してるんだけどねw)。


ムキになればなるほど、相手もムキになる。これ仏法よ。
「学会をぶっ潰す」なんて言ってると、
「アンチを殲滅しよう」なんて思われちゃうでしょう。
どっちかが大人にならなきゃならないのなら、
頭の良い方から大人になればどうよ?
【2006/04/02 19:53 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
いかがわしいもの
「本当の自分」ってかなりいかがわしい。
何かに従って活動してるときも、
自主的に行動しているときも、全部「自分」だ。
「偽りの自分」なんて存在しない。
その行動を自ら選んでいるはずだ。


疑問を持つことを許されなかったのではなく、
疑問を持つことを放棄することを選んでいたのだ。
組織の言われたとおりにしていたのではなく、
組織に言われたとおりにすることを選んでいたのだ。
自らを振り返ってそう言えることが、
自分の行動に責任を持つという覚悟だし、
過去を言い訳しないという姿勢であると思う。


カルトだマインドコントロールだと、
自分に都合の良い横文字を使って、
自分の選んだ行動を「やらされた」と思っている限り、
その人は自分の行動に責任を持っているとは言えない。


「『本当の自分』はやりたくなんかなかった」
などというのは、ただの言い訳でしかない。
【2006/04/02 17:35 】 | 未分類 | コメント(16) | トラックバック(0) | page top↑
悪の自覚
自分の中の悪を滅することが大切なのではなくて、
自分の中の悪を自覚することが大切な気がする。
御本尊を眺めたときに、鬼子母神も提婆達多も見ることが出来る。
僕らは御本尊を自分に見立てて拝むわけだけど、
なぜ御本尊の中に鬼子母神や提婆達多が描かれているのかといえば、
自分の中に棲む鬼子母神や提婆達多を知るためと言ってもいい。


完全に善である人なんていないし、完全に悪である人なんていない。
それを知れば、誰かを一方的に悪と決めつけることは出来ないはずだ。


だけれども、言葉は便宜的に決めつけをする。
この「便宜上」ということをわからないと、
言葉だけを表面的にとらえてしまうこととなる。
学会が「文底」を強調するのはそういう意味だと僕は思う。


自分の中の悪を自覚することなく、
優等生ぶってきれい事を言ってる人を見るとムカっとする。
このムカっとする悪しき心も自覚しなければならないが(笑)。


誰かの悪を指摘する際、自分だけ良い子ちゃんでいるなんて
アンフェアで卑怯だと思う。
敢えて汚い言葉を吐き、自分の価値も落とすくらいで
やっとフェアじゃないかな。
【2006/04/02 09:55 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
宗教団体はじめました
アンチだとかシンパだとか、
僕はもうイヤになっちゃったから、
勝手に宗教を作ることにしたよ。
信者大募集! 名誉会長は僕です。


法華平等会
http://groups.msn.com/hokkebyoudoukai
【2006/04/01 11:45 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
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