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イエと個人と創価学会、要素いろいろ
学会員の家には家訓があるんですよ。
「この御本尊を絶対に守り通すべし」とか
「広宣流布に尽くすべし」とか。
それを守れなかったり、反抗したとすれば、
その家から勘当されるわけです。


信心深い檀家の家で、
「先祖代々の阿弥陀如来像を守り通すべし」とか
「お講の発展に尽くすべし」とか、
そういう家訓と一緒です。
そういう家の子息が、
「俺は家なんて関係ねえ! 学会員になりたい」
って言うと、普通に勘当されるでしょう。


家としては、講にお世話になっているし、
息子が家の方針に従わないとなると、
講の人たちに顔向けできない。
講というコミュニティからすれば、
「親の顔がみたい」ということになる。


子供に家の宗教を辞めると言われて、
親としては、暖かく送り出せるような問題じゃないんですよね。
コミュニティに対するメンツもあるし、
タテマエ上勘当するしかないってのもある。
創価学会って「イエ制度」の文脈で解釈することが出来る。
学会の二世三世問題の構図は、
封建主義と個人主義のコンフリクトでしょう。


さて。
ここからは想像だし、僕が思う仮説で、
自分で組み立てきってはいないんだけど、
日本人はやはり「家族」というものに、
憧れる部分があるんだと思うんですよ。
DNAと言っちゃうと説明を放棄してる感じがしますが、
風土にしみついたものがあるのかもしれない。
そうはいっても、個人主義的「自由」も欲しいのだけど。


もともと日本には三世代同居を前提とした家族制度があって、
戦後、アメリカ的個人主義、民主主義がやってきた。
日本人は、これを運用しやすいように折衷したり妥協したりしながら、
なんとか咀嚼して飲み込んでみた。
歴史的にも、ある外から入ってきた文化を、
咀嚼して飲み込み、運用することが日本人の特性なんじゃないか。
飛鳥の時代、仏教が伝来したときにも同じことをやっているでしょう。


封建的家族制度と、アメリカ的個人主義&民主主義を
ミックスして生まれたのが、戦後の創価学会なんじゃないか。
「文化包丁」とか「文化住宅」とか、
そんな感じの発明だと思うんですよ。
そういや学会の建物は「文化会館」というくらいだしな。
どちらにしても創価学会からは戦後昭和のにおいがするんだよね。


「創価家族」という言葉は、
地方から都市に出て不安で孤独な者にとって
魅力的な響きを持っていたのだろう。
当時、三世代同居が当たり前の価値観を振り切って
都市に出てきたが、家族を求める気持ちを
殺すことは出来なかった人たちにとっての、
家族的コミュニティだったわけだ。
そして世代を重ねてしまったから、
創価学会の宗教が「イエ」の家訓となった。
二世問題ってこれだよな。


なんとなくだけど、結局やっぱり、どんなに逃げようと頑張ったって、
日本人の中に封建主義的なものを求めるDNAがあるんじゃないかな。
「自由」を求めて自分だけは違うと反抗するわけだけれど、
いつか気付くと、やっぱり親と同じことを言っていたりして。


この文章で結論を出そうとも、
オチをつけようとも思ってないんだけど、
なんとなく、昭和的なものへの憧れというか、
ノスタルジーが僕の中にあって、
「イエ」というものを毛嫌いする
行き過ぎた現代の風潮に対して、
またそれを疑おうともしない人たちに対して、
拒否反応が起きているのかもしれない。


子供はひっぱたいて育てるもんだと思うし、
先生は悪いことを教えるために、子供を小突いていいと思う。
子供は風の子で、外で遊んだほうがいいと思うし、
人さらいは昔から居たと思う。
現代ではメディアが発達して、
おかしな事件があれば全国的に報道されるけれど、
「神隠し」は昔からあったよ、きっと。
世に存在するおかしな人の割合って、そんなに変わったんだろうか。
「家で遊びなさい」と言われて育った子供が、
他者とつきあわざるをえない矛盾した社会に出て、
たくましく生きていけるのだろうか。
自分が迷惑をかけられたことばかりを声高に叫び、
人権だなんだかんだと理屈をつけ小利口になって、
それで幸せなんだろうか。


「ごめんなさい、もうしません。家にいれてー」
隣の家から子供が泣き叫ぶ声を聞けば、DVじゃないかと疑われる。
しょうがない。現代ではそういうしつけの手段は使えないよね。
家から締め出すことだって、教育の一つだと思うし、
それはその家の方針だろうと思うんだけどな。


なんというか、とにかく過保護だと思うわけよ。


時代が違うと言われればその通り。
だから僕はただのオヤジであって、
場末の居酒屋でくだまいてるようなもんだ。
でも、寄り添うばかりが愛じゃないと思うわけよ。
タフネスや柔軟さは、どうやったら身に付くのかね。
大人になった今からでも遅くないから、
叩かれた方がいいんじゃないかなんて思っちゃうんだな。


ああ筆にまかせて書いてたら、
グダグダになってしまったw
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【2006/05/28 14:58 】 | 未分類 | コメント(28) | トラックバック(0) | page top↑
最低なヤツ
なんで学会の家に生まれただけで、
後ろめたく感じなきゃいけないんだ?
なんで家族が学会員というだけで、
恥ずかしく思わなきゃいけないんだ?


学会員じゃない人は、
「ああ、学会の家に生まれなくてよかった」
なんて安心してるんだろうけどさ。
そんな風に考えてるヤツには、
来世は学会の家に生まれて欲しいと思うね。


親戚に学会員がいたら恥なんだってさ。
親戚に学会員がいないことが幸いなんだってさ。
仏の功徳くらいに思ってるらしいぜ。
結局、自分のことしか考えてないじゃん。
「自分だけ助かったのは御本尊の功徳」
とか言ってる学会員と思考回路一緒じゃん。


そんな人を対象に撲滅唱題したくなるよ。
【2006/05/26 08:27 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
はっきりした答え
「はっきりした答え」が欲しいなら、
学会に浸かってたほうが幸せだと思うんですよね。


それでも敢えて学会から離れるなら、
「はっきりした答え」が出ないもやもやした気持ちの悪さと
つきあっていくしかないでしょう。
「はっきりとした答え」を出してくれる他の依存対象を探すなら、
学会を離れた意味ないじゃんと思うわけです。


答えなんてないという答えもまたそれは答えではない、
ということをつかむというか、また、それをつかめることもないというか、
そんなことが分かるともなしに分かるのが仏の道じゃないかなぁ。
【2006/05/25 16:01 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
カテゴライズ
「人を決めつけないでください」とか言う人ほど、
「人を決めつける」もんなんだよなあ。
決めつける決めつけないの尺度から、
離れることが出来ないからかもしれない。
「○○な人」という箱をつくって、
その中に放り込んでおきたいのだろう。
まあ、そういう納得のしかたもアリだけどな。
僕も「発想が不自由な人」という箱をつくって、
その中に放り込んでおくしね。
だったら「決めつけないでください」なんて
言わなきゃいいのにな。


こないだ成分分析が流行ってたけど、
いろんな成分が混じり合って一人の人になってるってのが、
わりと正解に近いんだろうなあ。
「○%はアンチで出来ています」とか。
仕切り板に見えるものが、実は成分であることも多い。
でも成分なんていちいち分析なんてしないし、
レッテル貼った方が手っ取り早くて便利よね。


まあ、僕は決めつけられてもいいや。
どうぞレッテル貼って決めつけてください。
【2006/05/25 10:16 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
スイッチのある人
スイッチのある人が好きです。
つまりそれは自分にとって「大切なもの」がある、
ということだと思うのです。
大切なものがあるから、
それを守りたい心があるから、
だからこそ、人間だと思います。
「大切なもの」を汚されれば、誰だって怒るでしょう。
怒ればいい。感情をあらわにすればいい。
言いたいことを言わないから精神病になる。


なにものにもとらわれない姿が仏だとするなら、
そんな仏はくそ食らえです。
【2006/05/25 09:37 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
クレーム処理
確かに学会員ってクレーム処理が苦手なのよね。
これが社会の心証を悪くする原因の一つだよな。
日蓮仏法っていう商品売ってるようなもんだから。
「瑕疵があったら誠意でフォロー、
ピンチをチャンスに創価のイメージをアップ」
みたいな教育が必要かもね。
でもクレーム処理のノウハウって、
現場で学ぶしかないって気もするし、
何度か失敗するもんだよなー。
その失敗が積み重なって創価学会のイメージ悪くなってる気がする。
まあ既にイメージ悪すぎて、悪意のクレーマーも多そうだよなあ。
お客様に悪意があれば、なにやったって失敗しちゃうでしょうよ。
まあそれを解きほぐすのが腕の見せ所なのでしょうけど。
【2006/05/24 13:07 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
震災のときの創価学会
あーあー、シンパっぽいなーと自分でも思うんだけどさ(苦笑)
いつかなんかで検索しててみっけた記事。


http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/serial/chugai/html/0801/0120/08-01-20_02_06.html


http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/serial/chugai/page2/0801/0120/19960120-06.gif


ネット界隈での関西の学会員の評判は最悪だけど、
いざというときの行動力は賞賛に値するのだろうなと想像する。
事件も事故もなにもない平常時は「盲信学会員」と批判されるし、
僕も批判するけれども、緊急時には「盲信」ゆえに
そのパワーと正義感が発揮されるのだろう。


こんな斜に構えた僕だって、
いつか自分の住む地域に災害が訪れ、
そのとき僕が動くことが出来たとしたら、
積極的に創価学会に協力しようと思う。
そのときには組織に従おう。
そんなときのための創価学会組織だろう。
盲信であるとか、指揮官が無能だとか、
そんなのに関わらずトップダウンの駒となって、
働くことが出来るように心がけておこう。
災害時には、その方が秩序を保ち、
効率的にパフォーマンスを上げられる可能性が高いと思う。
個人主義は緊急時には無力だ。


創価学会のした行為は、プラスは評価されず、
マイナスばかりが取り上げられる。
ひどいのになると売名行為とか言われるしね。


で、この中外日報ってどういうメディア?
http://www.chugainippoh.co.jp/
おおっなーんだ、宗教系のメディアだ(笑)。
宗教全否定の人からみると胡散臭いかもしんない。


リンクを見ると創価学会も入ってるぞ。
創価学会に買収されてるとか言い出すのかもしれないけれど。
でも少なくともわかることは、今の創価学会は
他の仏教団体と並んでいてもOKだと思ってるみたい。
「謗法と同座せず」って考え方は薄くなってると思うな。


創価学会のような一神教的団結力は、
いざというときこそ力を発揮するんじゃなかろうか。
「創価学会の被害者」なんて大騒ぎ出来るのは、
食うもの食えて満たされてるからだろう。
隣の家の米びつの中身まで知ってるというような、
ねばっこいつきあいは現代の都市型の生活には
合わないのかもしれないけれど、
いざ必要なものが不足したときには、
創価学会的コミュニティや創価学会的人情が有効になる。
そういや小節『人間革命』の書き出しは、
戦後の焼け野原からはじまるんだったな。


なんというか、俺たち贅沢だし、恵まれてるってホント思うよ。
【2006/05/23 10:02 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
ただの回転焼きちゃうで
gozasourou.jpg

ってなわけで、買ってきました『御座候』。
三九郎さんとこで紹介されてたんですけど、
どうやら関西で有名らしいので、食べてみたくなったのです。
ホントに欲しいと思ったら、速攻ゲットする性格ですw
まだ白あんしか食ってないですけど、確かに甘くなくてうまい。
バランスとれてる感じなの。
4つ買ったんだけど、写真に写ってるのは3つ。
オススメの通り一個は出来たてで食ったのです。
奥さん帰ってきたら、一緒に食おうと思い、
まだ黒あんのは食ってません。


ちなみに画像使ってたのはこのブログ初。
それが『御座候』になるとはw
【2006/05/20 19:27 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(1) | page top↑
自由はキビシイのあたりまえ
小泉内閣メールマガジン第234号
[らいおんはーと ~ 小泉総理のメッセージ]
「挑戦の魂を忘れずに」と題した小泉総理の文章より。


> 日本社会には、今、さまざまな不満があります。不平がありま
>す。しかし、今日ほど、日本の歴史の中で、豊かで平和で自由な
>社会はありません。しかしまた、今日ほど不平不満の多い時代は
>ないと言っていいほど、あちこちで不平不満の声が聞かれます。
>ここが人間社会の難しいところだと思います。

> そういう中でも、日本人として失ってはならないよいものを大
>切にしながら、やるべきことをやる、やらなければならないこと
>をやっていこうと、苦しくてもきつくても乗り越えていく、そこ
>に喜びなり生き甲斐を感じる。そこがまた人間のよいところでは
>ないでしょうか。

> 私も挑戦の魂を忘れずに頑張っていきたいと思います。


小泉さん、いいこと言うw
たぶん「おまえが言うなよ!」というツッコミがあるのは想定内で、
敢えて言ってると思うな、この人。
僕も今の日本は、豊かで平和で自由だと思いますよ。
だから一人ひとりが、なにをしたいか、なにをするべきか、
自分の頭で考えて、自分自身で生き甲斐をみつけなきゃならん。
それが出来ないでいると「死に至る病」にかかっちゃうわけです。
少なくともおまんま食えてる人は不満を言う資格はないよな。
こういう社会で、こういう環境なんだから、それに適応しながら
雑草のようにたくましく生きてくしかないわけですよ。
俺も挑戦の魂を忘れずに頑張っていきたいと思いますよ。
【2006/05/18 12:28 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
「格差」と「改革」って単純につながるか?
なんだか学会批判ブログや掲示板の界隈でも、
はやり言葉のように「格差社会」って言われているけれど、
なんとなくここの記事はすっと腑に落ちた。そうなんだよな。


http://www.nikkei.co.jp/neteye5/suzuoki/index.html
「格差を生んだほどの大改革か?」




いわゆる「格差」といわゆる「小泉改革」を
単純に結びつけてるから、
僕はなんだか違和感があるんだわ、きっと。
もちろん「改革の成果で景気が回復」ってのにも、
なんだか違和感があるよね。
それとこれとは違うんじゃん? と。


確かに小泉さんってなんかやったっけ?
果たして「大きな痛み」ってあったっけ?
僕らの生活や価値観に、
なにか劇的な変化を強いられたっけ?
なんだか、あんまり変わってないような気がするぞ。
マクロな長期的展望というのはわからないから、
将来つけを払わされるのかどうかも僕はわかんないけれど、
これからもなんとなくどうにかなっちゃうんじゃないのかなあ。
このまま放置したら、
たとえば取り返しのつかないインフレが来たりする?
失業者が増え治安が悪化するのかな?
俺いまいち、この辺の知識は乏しいや。


さて勝ち組負け組という文脈で、いわゆる負け組とされる
労働者が苦しんでいるということを言うなら、
中国に工場を移しちゃだめってことになりそうだし。
たぶん、究極的には鎖国しろってことになりそうだ。


イス取りゲームになって世の中悪くなったと言うけれど、
それがわかってるんだったら、イスを取るよう努力しようよ。
それは頭をひねって知恵を絞り、自分のやっていることに
どうやって付加価値をつけるかということだよな。
お上になにかやってもらおうという発想が甘えなんじゃないか。


でも、たしかに銀行の貸し渋りは問題だったのかもしれん。
政府を批判するよりも、こっちの方が批判対象にならんか?
銀行の融資担当者の手抜きと保身でつぶれた会社は気の毒だ。
でもやっぱりそうは言っても、だからこそこれからは
リスク管理は自分でするべきだよな。
銀行はいざとなったら冷徹だということはもうわかったわけだし。


「自己責任」というのはこういう文脈で使う単語だよな。
「騙した方より騙された方が悪い」という使い方ではなく、
騙されないように勉強しておいたり、
リスクを勘案することが大切だと言うときに使う。
やっぱ、ポートフォリオを意識した分散投資だよな。
自分という資本を、どこにどのくらい投資するか
という意識が必要な時代なんだろう。
全面的に信じて全部つっこんじゃうと、
こけたとき首が回らなくなっちゃうもんな。
【2006/05/15 21:20 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
人間放棄
俺の中の誰かが叫ぶ。
「創価学会は不誠実な人間ばかりが集まり群れて、
手のつけようのなくなった獣の集団だ」と。
また違う俺の中の誰かは
「そうさ人間は獣なんだ。
獣らしい本能を思い出せ」と囁く。
どちらが天使でどちらが悪魔かなんてわからない。
だけれども、こんな葛藤を放棄して、
どちらかの結論を出したらおしまいだと思う。
獣は悪だと結論を出し、
決めつけ安心する者を俺は軽蔑する。
そういう者こそ人間じゃないと思う。


俺のおじいちゃんは、創価学会を信じていた。
おじいちゃんは合理的判断を下すことが出来た
立派な人だったと俺は尊敬している。
それでも敢えて、娘の選んだ創価学会を選んだ。
この意味はなんだ?


そして彼の孫として僕は生まれた。
僕にとって、誠実な道はなんだろう。
僕の今持っている力で出来ることはなんだろう。
創価学会については、徹底的に調べた。
今や、このネット界隈で誰かが語ることは、
既にどこかで目にしたことであり、
新しい発見による驚きはまったくなくなった。
そして僕は、必ずしもどちらが悪いと
一刀両断出来ることではないと知った。
そこに人間がいるからだ。
僕にとっては、安易な結論を出す者が敵だ。
なんの疑問も抱かずに学会正義に染まる者も、
なんの疑問も抱かずに学会は悪と決めてかかる者も、
「おまえが諸悪の根源だ」くらいに言いたくなる。


僕は僕の中での正義の輪郭を探りながら、
それに従って誠実に生きていくしかないと思う。
「正義は無い」なんていう安易な結論で満足は出来ない。
少なくともあると信じて、敢えて考え続けていきたいと思う。
苦しいのはあたりまえで、そこから逃げれば惰弱になる。
「結論を出せばラクになれるよ」と言われても、
それは人間を放棄せよと言っているのと同じだ。


もがき苦しみながら、のたうちまわって考えながら、
そうやって生きていくことが楽しいし、
うれしいことだと、やっぱり僕は思うんだ。
【2006/05/15 06:39 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
嫌な思いをしたなら、まず自分から変われ
いわゆる「学会被害」と呼ばれるものを、よくよく考えてみると、
その本質は、個人の問題に帰着するように思うんだよな。
「学会被害」という皮をかぶった個人の問題だと思う。


たとえば、結婚したパートナーが学会員という問題。
これは双方が話し合って解決すればいい問題であって、
外野がとやかく言える問題じゃない。
相手や相手の家が、自分や自分の家と違うのは当たり前だ。
創価学会に限らずそれぞれの家に
信条や宗教があり、常識が違う。
そこに問題があるなら二人で話し合って解決すればいいだろう。
相手が聞く耳を持たないのなら、
それは相手の態度が問題なのであって、
創価学会とは関係のない話だ。
それを「学会員だから聞く耳を持たない」というふうに、
創価学会と結びつけるから、おかしなことになる。
聞く耳を持つ学会員もいれば、聞く耳を持たない学会員もいる。
個人の態度の問題だ。


たとえば、親が学会員という問題。
親は自分が良いと思うものを、子供に伝える。
その方法も、その家によって違う。
これは当たり前の話だ。
「題目を唱えると良いことがある」
と子供に教えたり、
「広宣流布のために戦うことは尊い」
と子供に教えたりすることの、何が悪いのかと思う。
創価学会じゃない家庭の親が、
「仏像に手を合わせなさい」
と子供に教えたり、
「奉仕活動をすることは尊い」
と子供に教えることと同じと思う。
でもやがて、親の方針に疑問を持つときがくるかもしれない。
親と子供は価値観が違ってくることも多々ある。
そんな場合、子供は自分の思いを親に伝え、
親と対決し戦い、自分の方針を貫き通すことになるだろう。
この構図は、なにも学会の家だからというわけじゃない。
学会が絡まなくても、よくある話だ。
学会が価値観を押しつけるのではなくて、
親が自分の価値観を子供に押しつけるだけだ。
よく二世三世の学会員が
「普通の家庭に生まれたかった」
なんてぼやいてるけれど、
いわゆる「普通の家庭」なんてないと思う。
家庭には家庭の中に、葛藤があり、
トラブルがあるのは当たり前であって、
創価学会のことに限ったことではないし、
創価学会の家庭じゃなかったら、
葛藤やトラブルが無いかといえば、
そんなことはないと思う。


創価学会にまつわるトラブルというのは、
「創価学会だから」という問題ではなくて、
どこにでもあることであり、
たまたまそれに絡んだ人が学会員だっただけだと思う。
社会で生きていて嫌な思いをすることがなくならないように、
創価学会で嫌な思いをすることがなくなることはない。
まあ、理想を掲げるというのは大切なことではあるけれども。



さて、こんな僕の捉え方は横に置いておいて、
とりあえず「学会被害」と呼ばれるものがあるとして、
それを解決する方法があるとすれば、たぶん、
「自分が変わること」しかないと思うんだよな。
たぶん、創価学会からは変わらない。
あれはあれで良くできた組織運営をしてるし、
ヘタを打たないように逃げ道を残した上で、
組織の維持に有利だと思われる手法を採ってくる。
大衆心理というものをよく押さえてると思う。
実は、創価学会の方針は、大衆にとってニーズもある。
池田名誉会長といういわゆるカリスマを立てているのも、
彼を心の支えとして満足している人が多いからだと思う。
活動組織というものを構成しているのも、
活動自体を目的とし満足感を感じる人が多いからだと思う。
純粋に南無妙法蓮華経だけで満足出来る人は、
名誉会長にも組織にも特に思い入れもなくコツコツと、
御本尊対自分という信仰をしてるもんだ(僕みたいにw)。


創価学会は大衆心理をよくこころえているから、
学会員を組織の都合でうまく誘導することもあるだろう。
でも、そういう誘導をしたとしても、最後の一線は絶対に越えない。
組織(組織は、だ)は個人に対して「強制」はしていない。
絶対に「自由」という点を残している。
この点を残している以上、どんなに理屈で責めても、
創価学会組織に非を発見することは出来ないように思う。


だとすれば、理不尽な誘導から
(理不尽だと思えば、だけど)、
自分を守る盾は「自由」だろう。
僕もよく言う言葉なんだけれども、
「それって任意ですよね?」と聞くと、
意外と簡単に引き下がっていく。
それで緊張感は生まれるだろうし、
警戒され白い目で見られることもある。
でも白い目で見られたからといって、
なんだっていうんだろう。
別に危害を加えられるわけではない。
白い目で見られても平然といられるような自分を作ることだ。
たとえ無視されたり仲間はずれにされたからといって
(その人は意地悪だとは思うけど)、
コミュニティは創価学会だけではないんだし。


学生時代の部活に所属しているのと一緒で、
幽霊部員は、部活に一所懸命な部員から
幽霊部員なりの待遇をされるのは当たり前。
あるポジションについて、その仕事を全う出来なければ、
責められるのも当たり前だと思うんだよな。
相手にして欲しいなら、部活の目的に叶う仕事をして、
貢献しなければならないと思うし。
相手にして欲しいと思わないならば、
幽霊部員でいてかまわないと思う。
自分に必要ないと思うんだったら、辞めてもいい。


結局僕の言っていることは、
「やりたいならやれ。やりたくないならやるな」
ということなんだよな。
そういう視点で、もう一度
創価学会の書物や聖教新聞を読んでみると、
実は「自分が変われ」とか「強く生きよう」とか、
そういうことが書いてあることに気づく。
創価学会は間違ったことを主張してるわけじゃない。
僕が普段言っていることも、
創価学会が主張してるようなことを越えてるわけじゃない。
というよりも、当たり前のことを言ってるだけなんだよな。


なんだか脱線したりして、長い文章になっちゃったけど、
結局、嫌な思いをしたくないと思うのならば、
「自分が変わること」が一番早いと思う。
僕は「自分が変わればすべてが変わる」論者だし、
一歩進めて「人のせいにするな」論者だから、
どんなケースに巻き込まれているどんな人であれ、
学会に恨み言を言うよりも、
自分で自分を制御する方が先だと思う。
創価学会で嫌な思いをすることをなくす近道は、
一人ひとりが強く、したたかに変わることだと思うし、
そうなってやっと、大衆のニーズが変化し、
はじめて創価学会が変わっていくと思うんですね。
まあ、これこそ夢物語で、理想ですけど。
【2006/05/12 13:25 】 | 未分類 | コメント(43) | トラックバック(0) | page top↑
なんで教えてもらおうとするんだろう
なんだか教師が黒板に書いたことをノートに書き写して
それを覚えることが勉強だと思っている人が多いような気がする。
勉強ってそういうことじゃないと思うんだよな。
相手の言っていることを解釈して、
自分の中にあるいろいろなケースと結びつけ、
仮説を立ててみたり、発見を喜んで、
自分の中に新しく知恵を追加する、
そういうことが勉強だと思うんだ。


そうなると、教科書だろうが、参考書だろうが、
本だろうが、マンガだろうが、
鵜呑みにしなくていいわけよ。
問題は鵜呑みにする側にあるんだと思う。
教科書だって、たとえば右寄りだったり左寄りだったりするわけで。


仏教の解釈にしたってそう。
誤解を恐れずに言うなら、
「正しい」仏教なんて存在しない。
「これは間違った仏教」「これは正しい仏教」
そういう決めつけをする方が間違ってるように思うんだ。
目の前にあるテキストは一つのテキストでしかないわけで、
それを解釈するのは、そのテキストを読んでいる者なはず。


そりゃ学校の勉強では、教えられたことを覚えて、
テストの点取り競争しなきゃなんないよ。正解ってのがある。
でも、僕らはそんなのとっくに卒業してきたわけだし、
点取り競争で学んだ知識が世間にそぐわなかったとしても、
あとでどんどん修正していくのが人間ってもんでしょう。
学んだ知識は、どんどん変わっていくんだもん。
太陽が地球の周りを回っていることが正解だった時代もあるわけで。


テキストにあることをあげつらって、
洗脳だマインドコントロールだって言う人って、
絶対的に読書量が少ないのかもしれない。
たくさんいろんなもの読んだ方がいいと思うよ。
どんなテキストであっても、ハウツー本的解釈をするから、
洗脳だったとか、騙されたとか言うんじゃないのかなあ。
大切なことは教えてもらうことではなく、
自分の頭で考えて解釈することだと思うんだ。
そしてその責任はすべて自分にあると思うんだけどな。
【2006/05/11 10:54 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
改宗しただけ
アンチの思想が危険だと思うのは、
「学会員は悪」というイメージから先は、
自分の頭で考えていないからだろう。
彼らは簡単にレッテルを貼って安心する。
「マインドコントロール」
「アダルトチルドレン」
「ドメスティックバイオレンス」
「モラルハラスメント」
僕はこの辺の横文字な単語は、胡散臭いと思う。
既成のそれっぽい横文字に、
自分のケースを安易に当てはめてしまうことが、
言葉に縛られてしまうことになると思うんだ。
言葉はレッテル貼りに便利だからね。
「ああ私、マインドコントロールされていたんだわ」
そんな安易な答えに飛びついて、それで満足すると、
「あなたも、マインドコントロールされているのよ!」
と、他人を決めつけることにもつながる。
「なんでマインドコントロールされてるってわからないの!」
そのうちそんなことを言い出すことにならないとも限らない。
これでは、心ない学会員が
「あなたは魔にたぶらかされているのよ!なんでわからないの!」
と、言っているのと同じです。
まあそこまではいかなくても、
「すべての学会員はマインドコントロールされてる」
くらいには思ってるように見えるんだな。
「この仏法を知らないなんてかわいそう」
と、学会員が思ってるのと同じように。
まあ、思うだけなら自由だけどね。
ただ、学会員を批判する資格なんてないんじゃないの? と思う。


所属する陣営が変わっただけで、
本人の意識や考え方の根本はなにも変わっていないんだもん。
創価学会教からマインドコントロール教に改宗しただけなのよ。
【2006/05/10 08:31 】 | 未分類 | コメント(58) | トラックバック(0) | page top↑
盲目経験のある人
本気で恋して、本気でアタックして、派手に振られる、
みたいな経験がないと、人間の機微って
わかんないのかもしれないな。
もててもてて苦労を知らない人間のことも、
もてないからといってあきらめた人間のことも、
やっぱり俺はあんまり好きじゃなくて、
もてない自覚があって、でも、好きな人が出来て、
勇気を振り絞ってアタックしたけど失敗した経験が
いっぱいある、みたいな人が好きだな。
まあ、俺自身がそういうタイプなんだけどw


ところで信仰って、恋愛みたいなものなんだよな。
【2006/05/09 23:48 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(0) | page top↑
この界隈と関西人
最近、関西へのリスペクトがあってね。
いろいろ読んだりしてるんですけどね。


で。
僕みたいな東京人からすると、関西人としてひとくくりにしちゃうけど、
関西の人って京都人と大阪人と神戸人を
明確に分けてるらしいんですよ。
んでね、俺が思ったのは、この三者の構図って、
この界隈の構図と似てるんじゃないかな、と。


京都人=日蓮正宗
大阪人=学会員
神戸人=アンチ


京都の人は、保守的で粘着質、純粋であることに誇りを持ってる感じ。
大阪の人は、商売っ気が強くて、人なつこい反面、無神経な感じ。
神戸の人は、土着的なものを嫌い、個人主義的でクール。
京都の人と神戸の人って、反大阪という点で意見があうらしいの。
学会員といわゆる大阪人って、同じにおいがする気も。


関西の人、どう思う?
ご意見プリーズ。
【2006/05/06 13:32 】 | 未分類 | コメント(54) | トラックバック(0) | page top↑
「純」を捨てよう
ああ、やっぱりか、そうだよな。
糸井重里はいつもヒントをくれる。
「ほぼ日」は今、久しぶりに読んでいるのだけれど。


2006-05-01のコラム<黄金週間のむだ話>より


>「純自分」なんていないってことだよね。
>「純喫茶」って、昔あったんだよね、どうでもいいけど。
>純って、だいたいは困った考えだよな。
>純が、悪いことするね、だいだい。
>原理主義とかね、ゆずるってことしないから。
>純愛とか、ねー、間違ってるよね、なんか。
>不純こそ、大事だよ。そう思うよ。


やっぱそうなんだ。
「純」が悪さをしてるんだよな。
僕の感じている違和感というのは、いつもこの「純」なんだ。
誰かから、また、何かから「純」を感じるとき、
僕の中のアンテナが反応して、
「危険だぞ」と僕に伝えるんだな。


だから、僕の発するメッセージは、きっと
「純度を下げろ。もっと汚くなれ。汚くなることに慣れろ」
ということだと思うんだ。
「純」であることをちょっと捨てちゃいましょうよ。
鬱病も、神経症も、内なる「純」が原因じゃないかな。
仏教が教える「捨てる」は、この「純」を捨てるこじゃなかろうか。
「勇気」を持って、「純」を捨てることだ。
思い切って、「純」を捨てることだ。


善悪で言うなら「純」こそが悪だ。
そんな「純」を捨てたときに、人の痛みも、割り切れないことも、
うわべをなぞるだけではなく、感じることが出来るように思うのだ。


小乗は「純」度を高める修行をするのだろう。
それに比して、大乗は「純」度が高くない者のための教えのはずだ。
「純」度が高いと、世間にもまれて生きていくことは出来ない。
だから僕は「純」度の高い人に対して、
方便を尽くして「純度を下げろ」とメッセージを投げる。
「純」度が低いことを恥ずかしいと思うのではなく、むしろ誇りとして、
前を向いて生きることが大乗の生き方と言えるような気がする。
仏教はどこまでいっても抜苦与楽であると思うのだ。


大切に思ってる本のカバーで、犬のうんこを拾えるくらいじゃないとなぁ。
【2006/05/05 12:07 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
任天堂社長岩田聡さんの話
これでも僕は任天堂信者だったりイトイ信者だったりするんだけど、
この人って、任天堂って会社の社長をやるだけあって、
ものごとわかっててさすがだなぁ、と思う。


社長に学べ!


なにが大切かというと「ただしい」ということではなくて、
これをするとかこれをしないとか「決める」ことなんだと思うんだよ。
その自分で「決めた」ことが彼の中での「ただしい」になるだけで。


いったん相手の言ってることを「ただしい」と決めてから、
仮説をくみたてなおしてみること。
それを互いにやってみることが「対話」だと思うんだけどな。
【2006/05/05 07:47 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
教条主義に縛られること
「これをしちゃいけません」
「いかなるときもこれをしちゃいけません」
というのが教条主義と言うわけだ。


ルールだから正しいと思ってしまう人たち。
こういう文献があるから正しいと思ってしまう人たち。
東大の先生が言ったから正しいと思ってしまう人たち。
弁護士の先生が言ったから正しいと思ってしまう人たち。
そしてもちろん、かの先生が言ったから正しいと思ってしまう人たち。
ちっとも自分の頭を使っていない。想像力がないのかもしれない。


「正しい」というのは仮に引いた線に過ぎない。
教義も同じ。仮に引いた線だ。
その場その場で臨機応変に対応していくことが大切と思う。
それが「国法よりも仏法が上」という意味だと思うんだな。
教義にとらわれている時点で仏教的視点を欠いている。


制限速度で走ることが、大切なんじゃない。
円滑な交通と、人が怪我をしたり死んだりしないことが
大切なんだ(だから点数稼ぎの白バイに腹が立つw)。
「正しい」に縛られて、生きることが面白くなくなっちゃえば、
あんたなんのために生きてるのよ、と言いたくなるね。
【2006/05/04 16:32 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
弾圧されたい?
タテマエをとっぱらってシンプルに思うんだけど、
創価学会が不利にならないために権力を持つことって悪いの?
僕は学会員だから創価学会が力を持つことに賛成なわけだが、
そうなるとパフォーマンスが一番高いのは、
政治的な権力を持つことじゃないのかなぁ。
だって俺、弾圧されるのイヤだし。


だいたい自民党ってのは財界の思惑で動くんでしょ?
公明党が創価学会の思惑で動いてなにが悪いんすかね。
政教分離とか騒がれるけど、カネ教と政治だって結びついてるじゃん。


しかも、創価学会って選ばれた人で構成されてるわけじゃない。
財界人にはなかなかなれないけど、学会員になるのは簡単。
うらやましいなら創価学会に入会すればいいのに。
誰でも入れるよ。


二世三世なんて、生まれながらにして権力の側に居るようなもんだ。
福運もって生まれてきたと思うよ。
【2006/05/04 11:21 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
たとえば定年後
ううむ。
定年後の趣味としての学会活動というのもアリだと思う。
もし学会がなかったら定年後にやることがなく、
ボケていくという不幸なケースも想像出来る。
もともと多彩な趣味を持っていたり、好奇心旺盛だったりすれば、
定年後でも生き生きと生きていけるかもしれない。
そんな人は、別に学会員じゃなくても全然かまわないんですね。
だけど、いわゆる会社人間でずっとやってきて、
今定年を迎える人たちもいるわけで、
そんな人は仕事が趣味だったりしてたわけです。
彼らが定年を迎え仕事を取り上げられたときの
受け皿の一つとしての学会ってのはアリだなぁと思う。
いわゆる広宣流布のための強烈な活動に邁進すれば、
ボケることも無かろうと思うんですよねぇ。
少なくとも人と接して、話をしなければならないからね。
笑いあうこともあるだろうし、ケンカすることもあるだろう。
定年後にそんなディープな人と人とのやりとりを出来る場所って、
そう多くはないように思うんだ。
まあ強烈じゃなくても学会員であれば、
座談会には誘ってもらえるでしょう。
定年後であっても、人と人とでぶつかりあって、
頭を使って生きている方が、幸せだと思うのは僕だけなのかなぁ。
第一線から退いた後も、
主体的に好奇心を持って生きていける人はマレな気がする。
僕自身だって疑わしいよ。
【2006/05/03 00:11 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
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