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教祖様の、い・う・と・お・り
たとえばタレントの、みのもんた。
この人って、健康教という宗教の教祖様よね。
この人の発言ひとつで、スーパーの食品の売り上げが変わる。
消費者は教祖様の言うとおりに食品を買っちゃうから、
仕入れ担当者も、教祖様の言葉に耳を傾ける。


みのもんたは人寄せパンダだけど、
本当においしい汁を吸ってるのは
番組のプロデューサさんかもしれない。
プロデューサさんは、特定の食品業者から
リベートもらってるかもしれないよね。
まあ、言ってみれば宗教の構図なんてそんなもんだ。
さて、みのもんた教はカルト?
それともカルトではない?


いつか、池田名誉会長は本幹でダカーポの
「野に咲く花のように」を紹介したことがある。
裸の大将のテーマで、元々僕も個人的には
良い曲だなって思ってたんですがね。
本幹で池田氏に紹介されたら、
僕の所属する地域でも大流行しちゃった。
なんというか、まあ末端は素直というか、
主体性がないというか…。
まあ、その是非は度外視したとして、
こうやって需要が喚起されちゃうわけです。
ダカーポさん、営業乙カレー。


たとえば久本雅美が好感度高いとされてるのが、
学会の組織票だと言われりゃ、まあ否定できないっしょ。
人気商売の処世術の一つではあるわな。
営業さんは使えるものはなんでも使うのです。


契約欲しさに学会員になるのも全然アリよね。
信濃町担当の銀行員はまず学会に入信するらしいぜ(デマ?)。
本当だとしたら、立派な営業さんの姿だよなあ。
「創価学会について勉強しましたっ。
創価学会ってすごいですね! 僕もぜひ入信させてくださいっ」
誰が彼を責められるだろう?


まあ、学会員だろうが、非学会員であろうが、
お金が儲かればなんだってやるよ。
それが出来るのが優秀な営業さんだしね。
ふと立ち止まって考えると、
僕らはみんな、商売教の信者ではあるんだよね。
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【2006/06/30 22:19 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
無理矢理痛み分けてみる
真偽は知らんが、創価学会が学会員に対して
お守り御本尊をやみくもに売ってた時期が
あったって話はよくきくけど、
そういやキリスト教も免罪符売ってたんだっけなぁ
(同列にするな!(笑))。


ルターの宗教改革前だけど、
修道士ヨハン=テッツェルって人がいたらしいで。
「免罪符を買えば、キリストの母マリアを犯しても許されるのだ」
なんて言って免罪符売ってたらしい。
キリスト教にもいたんだから、
創価学会にそういう人がいてもおかしくないわな。
だいたい「キリスト教」とひとくくりにするのが間違ってるが(笑)。


ルターが「聖書中心主義」なら、
日蓮は「法華経中心主義」と言えまいか。
そういや創価学会は「御書根本」だなんて言ってたな。


「個々人が聖書のみを仲立ちとし、
信仰によって神と直接結びつけられるべきだ」
という「聖書中心主義」の立場は、
聖書のところを、法華経にしても御書にしても
成り立っちゃわないか。


「宗教改革」っていうのは、共有テキストに照らして、
既存の権威と対峙していくという構図なんだよな。
でもテキストの絶対化は、原理主義に繋がるんだな、これが。
「法のためなら死ねる」ってのと、
「君のためなら死ねる」ってのは、
似てると思うわよ。
【2006/06/30 15:43 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(0) | page top↑
ものさしについて
宗教ってのは、その人が自分をとりまく世界をどう解釈し、
どう捉えるかというものさしなんです。
折伏ってのは、
「あんたの使ってるものさしよりも、
俺の使ってるものさしの方が便利じゃね?」
と言ってるだけの話で。
「いやあ、俺は生まれてこの方このものさししか使ってないからなぁ」
って言われりゃ、まあそれはそれでいいか、と僕なんかは思ったりする。
でもまあ、自分のものさしが便利だから、機能を説明したりはするよね。
ものさしを持っていない人(日本には意外と多いんだ)には、
「あんたもものさし持った方がいいんじゃね?」
と言いたくなるし。


宗教を持っていないというのは、
倫理を持っていないとイコールですからね。
日本では無宗教の人が増えているから、
倫理が崩壊しているとも言えるんですよ。


どっちかっていうと、別に学会のものじゃなくてもいいから、
神棚でも仏壇でもないよりあった方がいい、
というのは、学会員らしからぬ僕の考え。


だって宗教を持たなければ、
生きていることに何の根拠もないじゃない?
現代の日本人って、罪だって「なんとなく」でしかないもの。
「guilty」じゃなくて「sin」のほうの罪ね。
生きていく中で、何が良いことで何が悪いことかを、
話し合う基礎であるものさしすら持っていないんだもの。
「それは倫理的に間違っている」
と言われることがあるけれど、
なにを基準にした倫理観なの?
まあそもそも八百万の神様の国だからねぇ、日本って曖昧なのよ。


一神教的倫理観なら、正邪を厳密に線を引くことが出来る。
そんな国ってあると思うけどね。
意外とそんな国の方がまともじゃない?
多神教的倫理観だと、正邪に線を引くことが出来ないのよね。
「えー。だって俺の神様だとこれはOKだもん」ってなっちゃう。
これって、社会秩序の維持という観点からすると危うさを抱えてる。


創価学会は一神教的側面も強いけれど、その中には、
「一神教的倫理観による裁きというのも必要だよ」
ということも入ってる。


創価学会は日本という国に寄生する国家みたいなもんだけど、
国家固有の倫理観と価値観を持っているんじゃないかな。
あ、「信教の自由」ってのは、
国家内国家を作っていいよ、ってことかも。
本来なら、日本も国の根本たる宗教を持っていて当たり前だと
思うけれどもな、国際的には。
どうせなら天皇を中心とした国づくりにするのも、
意外と僕ら幸せかもよ?
錦の御旗を掲げて戦争に突っ走っていったと解釈されているから、
今日本に住んでる人にはアレルギーがあるけれど、
日本人としてはその方が幸せだったんじゃないか?
八百万の神を束ねる神の末裔を中心とした国の方がさ。
戦前の方がやる気もあって生き生きしてたんじゃないか?


今、日本がデタラメになってると言うんだったら、
やっぱそれは宗教の乱れなんだと思う。
精神病患者が多いのも、
なにを根本として生きたらいいかわかんない人が多いからさ。
広義での精神病患者が、おかしな犯罪を犯す。
自分内の「正しい」を持たないからだし、
この「正しい」こそものさしだと思うのよ。
「正しい」を共有している国は強いよね。


日本の宗教がデタラメになっちゃってるんだから、
創価学会が最後の砦なんじゃないかと思ってるところも、
実は僕にはあるのですよ。
だからアホみたいに「池田センセイばんざーい」なんて
やってる場合じゃないと思うんだけどな。
そういえば学会の十界曼荼羅の御本尊って、
「八百万の神を束ねる南無妙法蓮華経を中心とした価値観」
とも言えるんだよね。
【2006/06/30 09:32 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
草木は萌ゆる
結局「なんのため」に生きているのか、
ということを言いたいのだ。
法のために生きている人もいるだろう。
師のために生きてる人もいるだろう。
それはその人の自由。
それに生き甲斐を感じるのなら、否定はしない。
思いっきりやって欲しいと思う。


この世に生をうけ、与えられた自分のこの人身を
なにに使うかそれはその人本人に委ねられている。
どうせ使うのなら、後悔することなく使って欲しい。
やりたいことのためにつかって欲しい。


俺は俺のやりたいことのために、この身を使う。
なにかに縛られ、やらされてると思いながら生きるなんて、
俺はそんなのまっぴらなんだ。


宗教は人間のためにある。
宗教のために人間があるんじゃない。
言葉といういいかげんもので表現したものが教義であり、
教義にとらわれて法という大切なものを見失うなら、
そんな教義はゴミ箱に捨ててかまわない。


俺は、俺自身が法だと思っているし、俺自身が師だと思ってる。
そして俺自身は世界に遍く存在してる。
すなわちそれが南無妙法蓮華経なのだ。


うっひゃ~、きっと誰にもわかんね~(笑)。
【2006/06/28 08:20 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
人生いろいろ、宗教もいろいろ
いろいろな宗教がある。
やる気を与える宗教。
心をやすらげる宗教。


宗教というものは、
なんの根拠もない人の生き方に、
根拠を与える装置とも言える。
ある一つの「絶対」こそ、宗教の意義だろう。
それが「多」であっても「多」という絶対である。


「謙虚たれ」ということだって、単なる一つの価値観に過ぎない。
僕は「謙虚たれ」という価値観に対しても、眉唾であたる。
きっと功の部分も、罪の部分もあるはずだ。
もちろん功罪を決めるのは、なにかの価値観、
つまりなにかの宗教が必要だが。


その宗教の中での正しい正しくないはあるけれど、
たとえ倫理とされていることも絶対ではなく、
どれが正しい正しくないということは言えない。


宗教を持つということは旗幟鮮明にするということでもある。
つまり絶対の御本尊をもつということである。
それぞれが、それぞれの御本尊を持ち、
自由に対話し、自由競争をすること。
そこにこそ「見えざる手」が作用するのではないか。
なーんてことも、一つの価値観に過ぎないんだけどね(笑)。
【2006/06/27 22:29 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
「個人の問題」だからこそ
今日は創価学会にまつわる問題を「個人の問題」とすることが、
本当に無慈悲で冷酷なのかということについて考えていた。
それでもやっぱり「個人の問題」だと思う。


創価学会は一つの家族であり、家系だろう。
家族にはいろいろな人がいて、いろいろなことをやらかす。
自分じゃない人がやらかしたことに対して、
いちいち反省し、いちいち謝罪し、
いちいち小さくなって遠慮しなきゃならないわけがない。


オヤジのやったことなんてしらねーよ。
俺は俺だし、オヤジはオヤジだ。
それで俺まで悪いなんて言われちゃたまったもんじゃない。
師匠の責任は弟子の責任ですか、そうですか。
それなんて封建主義?
まあ別に俺はそんなに弟子の自覚ないけどさ。


僕はやっぱり「個人の問題」だと思う。
そうでなければまともな学会員が救われない。
連帯責任とか言われたって、
どうしていいかわかんないじゃん。
なんで個人として悪いことをしていないのに、
他の誰かがした悪いことを根拠に
責任を問われなくちゃいけないんだ?
反省して小さくなってなきゃいけないんだ?
いいじゃんか。
自分が悪いことをしていないなら、
萎縮する必要はないから堂々と胸張ってろ、って思う。


うわべだけの同苦なら、いらない。
やれって言われてやる布施なんて、しないほうがマシだ。
馬鹿にするなと言いたくなる。
ひねくれ者の俺は逆に
「同苦なんてするな」「布施なんてするな」
と言いたくなるね。
そう言われてもなお、せずにおられないのなら、
人に押しつけることなく、さりげなくすればいい。
もし心があるのなら、きっと静かに祈るはずだ。
それこそ、ビジネスマンなら自己アピールが大切だが、
宗教者ならば黙って寄り添えばいい。


心ない学会員に対しては憂いているよ。
心ない学会員に傷つけられた人は可哀想と思うよ。
そんなの自然な感情だし、いちいち言葉に出さない。
その本人に対してだけ言えるチャンスがあれば
言うかも知れないけど、わざわざブログに書くことじゃない。
一対一のフェイストゥフェイスの話だろう。


気づいたアンチの私はこんなにしてます、だぁ?
学会員の人も同苦してください、だぁ?
んなこと言われりゃ、腹も立つさ。


「個人の問題」であるからこそ、
フェイストゥフェイスの問題であるからこそ、
ルールで決められたわけでもなく、
自然な人間の感情としての同苦が出来るんじゃないか。
「組織」というのはルールで作られているんだ。
「個人の問題」であるべきことを、
「組織の問題」としてルールを作った瞬間から事務作業になる。
そんな取り決められた同苦では、きっと僕は涙を流せない。
同苦という単語は、組織なんて関係なく、
プライベートな個人にしか存在しえない。
一つ一つの問題が、全て「個人の問題」であるからこそ、
安易な一律な答えではなく、その場その場でベストが変わってくる。
そういう場所での、一人ひとりの智慧こそが、
創価学会の本意と言えるんじゃないか。
「個人の問題」であるからこそ、
現場の判断に任せられているんだ。
マニュアルを作ったとしたら、
事故もなくなるかもしれないけれど成長もなくなる。
それでは創価学会のアイデンティティはなくなってしまうと思う。
悩み苦しんで、その場所でのベストを探る中で、
割り切れないものを知り、成長していくのが本意だと思うんだ。
【2006/06/27 21:56 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
煽り合戦
アンチとシンパでも、
強者と弱者でも、
傷ついた人と傷ついてない人でも、
なんだか、どっちが先に煽ってるか、
という問題な気がしてきた。


そういう意味で言うなら、
創価学会系の話でいうと、
一番最初に煽ってるのは、
創価学会本体かもしれない。


アンチ、弱者、傷ついた者、
あえて一緒くたにするけれど、
彼らの言い分では、
「創価学会が最初に煽ってきたのだ」
ということなのだろう。
だから、自分も創価学会に対して、
学会員に対して、煽ってやるのだ、
と、こういう気持ちなのかもしれない。
本人が意識しているにせよ、していないにせよ。


シンパ、強者、傷ついてない人、
こちらもあえて一緒くたにするけど
(僕はきっとこっちにカテゴライズされる)、
こちらの言い分は、
「アンチが最初に煽ってきたのだ」
ということだろう。
過去に創価学会がやってきたことなんて知らねーよ。
今、ここにいる俺は俺だし、あんたはあんたなんだ。


「個人の問題」という言葉だけが一人歩きして、
冷たいだのなんだの言われるけれど、
所属とかグループとかとっぱらって、
「あなたはどう思うの?」
ということを話したいわけだ。
僕の考えや言っていることは、
創価学会にとって不利益で迷惑かもしれない、
僕を好きな人を失望させるかもしれない。
でも、そんなの関係ない。
僕は僕だし、人は人。
どんなに創価学会本体が煽っても、
個人レベルで煽ってこられれば、
こっちだって煽り返す。
皮肉を言われりゃ皮肉で返す。


ただのバカシンパになった人の
気持ちが最近なんとなくわかってきた。
馬鹿にしたり、罵倒したりすることで、気が済むのなら、
完全に悪役になった方が、攻撃しやすいだろう。
その方が攻撃する罪悪感は軽減される。
嫌なヤツを殴れば気持ちいいだろう。
なんにせよアンチが学会員を攻撃したいと思っているなら、
悪役になる方がその人のためだと考えたのかもしれない。
【2006/06/27 12:41 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
増上慢
たとえば、だれかが僕をつかまえて、
「あなたは増上慢だ」と言われれば、
「おまえこそ増上慢だ」と言い返すだろう。


ところが「増上慢」という単語を使わなくても、
相手にそう思わせるような言葉がある。
そして本人は「増上慢」という単語を
使っていないから安心しているのかわからないけれど、
相手に対してそれと同じ意味の発言をしていることがある。
たとえ、本人がわかっていなかったとしても…。


普段、ご大層なことを言っている人が、
皮肉にもとれる言い回しをすれば、
「こいつ、皮肉のつもりでわかってて言ってるな」
と思わせることとなってしまう。
わかってて言ってると思っていると思えば、
僕だってわかってて言うことを返すだろう。
相手がわかっていないで言っていれば、
僕の言葉に反応することはないだろうからだ。
反応するってことは、わかって言ってた
ということになるだろう。
それとも、自分の言葉には気づかず、
相手の言葉には過剰反応するのだろうか。


「あなたはなにもしていない」
という意味の言葉を投げるのは相手に失礼と思う。
どんな涼しい顔をして、すましていたって、
生きていて苦しくない人なんていない。
困難と戦ってない人なんていない。
誰かの痛みを知って平気で知らんぷり出来る人だとでも
思ってるのだろうか。
それは相手に対しての想像力が
ないのだろうとさえ思ってしまう。
「傷ついてるのはあなただけじゃないですよ」
と言いたくなってしまう。


あなたのは強者の意見だとか、
あなたは傷つけられた人の気持ちを
わかっていませんとか言うけどさ。
それこそ決めつけてないか?


本当に僕のことを、
なんの苦労もせず、
なんの困難も経験せず、
傷ついたこともなく、
上から見下ろしてるだけの、
強者だと思っているのかしら。
想像力足りないんじゃないの?


寄り添う私は暖かい人だと自己陶酔に浸り、
自分の基準で寄り添ってないと
勝手に判断した人に対して、
寄り添うべきですという正義を振りかざす。
寄り添うフリならなんぼでも出来る。
オナニーのために寄り添ってるなら、
きっといつか「のに」がでる。
「私はあんなにしてあげた『のに』」とね。


実はこの感情の延長線上に、
たとえば、やみくもに組織に引き留める
学会婦人部の心ない行動がある。
本人の本質が何も変わっていないなら、
学会正義だろうと学会不正義だろうと同じだ。
御本尊のすげかえをしただけだろう。
創価学会からもアンチからも、
学んでいるフリをしているけど、
なんにも学んじゃいないんだ。
【2006/06/27 11:02 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
なんだかね
面白いんだけどなんだか気持ちよくないのは、
実はそんなに僕は論戦が好きじゃないのだね。
「そうきたか。ならこのカード」
というのはもう飽きたはずだったよな。
契約書のチェックが一番嫌いな仕事なんだよ。
それが嫌だから、ちゃぶ台ひっくり返して、
一人飛び立ったわけだし。


文上読みは発迹顕本以前の話だわ。
方便品より寿量品だし、
衆生所遊楽で毎自作是念で、
三代会長は俺自身だし、
天上天下唯我独尊なのです。
そう僕は追撃された最後尾で迎撃する役割ではなく、
最前線のフォワードでポイントゲッターなはずだった。


議論にとらわれてるのは中盤で足止めをくらって、
敵陣に切り込んでいけない状態であるがゆえに、
僕の役割としては負けなのだわ。
敵に囲まれているのにボールを離さず、
フェイクを駆使しながらドリブルで突破しようとしてる。
そういうときはパスを出しましょう。


そもそも僕はクリエイターであって、
組織の戦闘員じゃないわけですよ。
ショッカーのみなさんじゃあるまいし。
自由にレゴブロックを組み立てて
「こんなんできました~。どう? どう?」
ってのが僕の使命なんだよな。
手抜きしちゃいかん。


怒ったり泣いたりするのは必要なことだし、
すべては変毒為薬されるのであるけれど、
引きこもったアマテラスは外から聞こえる
笑い声が気になって天岩戸を開くもの。
笑顔が一番大変で、維持するのが難しい。
心が泣いてても怒ってても、
無理矢理笑顔をつくることも勇気でしょ。
王者はいつも笑ってる。
そして無理矢理作った笑顔が、
色心不二の方程式によって、
いつのまにか心も笑顔になっていく。
それが周囲に広がれば依正不二。一念三千。
笑顔の無間連鎖を信じようではないですか。
笑顔のネズミ講万歳ですよ。
破綻したらまた作り直せばいいんだし。


停滞することによって生まれるよどみは、
きっとジャンプでしか抜けられない。
僕の中の破壊神シヴァにご登場願いましょう。
リセットかけてリフレッシュせんとダメだね。
無作三身の仏を求めるならば、
まず最初に自分が無作になりましょう。


勝つとか負けるとか、
正しいとか間違ってるとか、
責任の所在がどうとか、
誰が悪いとか悪くないとか、
そんなものを超越したしゃぼん玉をとばしている右上の熊。
こいつがここでの僕の御本尊なのだと思う。
そして、この姿勢を失うことが、
僕にとっての謗法なのかもしれないね。
まあ、たまに謗法を犯し罰を出してみるのも、
面白いんだけれどもね。
アイタタタみたいな。
【2006/06/25 10:10 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
そんなに俺は冷たい人かなぁ?
弱音を聞いて「うんうん君は悪くないよね」と言えば、
彼はきっと僕を好きになる。
普通の感情をもった優しい人だと思いこむ。
弱音を聞いて「いやそれは君の甘えだよ」と言えば、
彼はきっと僕を嫌いになる。
普通の感情を持たない冷血漢だと思いこむ。


口当たりのいい言葉であれば気分良くなれるし、
口当たりの悪い言葉であれば気分が悪くなる。
そんな気分を良くしてくれたか悪くされたかで、
多くの人は、他人を判断するものだ。
だから、単に仲良くしたいだけなら、
問題提起などしてはいけない。
どうでもいい話をしてたほうがいい。


「私が愚かなことを言うと、彼らは私の言いぶんを認める。
私の言うことが正しいと、私を非難しようとする。」
ゲーテのことば



まあ、たいていそういうもんだよな。
【2006/06/24 11:26 】 | 未分類 | コメント(15) | トラックバック(0) | page top↑
池田氏について思うこと
現在の池田名誉会長の行動が正しかろうが、間違っていようが、
そんなのどうだっていいんじゃないか。
自分が「一人立つ」の精神で、自分の活躍する戦場で
堂々と戦うことが出来ればいい。
池田氏だって他人なんだから、他人はほっとけ。
少なくとも池田名誉会長は「私を先生と呼べ」とか、
「私だけを尊敬せよ」なんて、言ってないんじゃないかな。
まあ、百歩譲って少なくとも創価学会のオフィシャル的には、
彼本人の口からは言ってないことになってるんじゃないか。
学会員が勝手に「先生先生」と言っているだけで。
まあ、それも自由なんだけど。


アンチに「池田教」と揶揄されて、
学会員が必死で「違う」と反論するのは、
そんなところに源泉があるんじゃないのか。


僕が誰にも負けないくらいに幸せになったとしたら、
たとえば、それを池田名誉会長は嫉妬するだろうか。
「よくがんばったね」と言うのではないか。
そういう純朴さに学会員一人ひとりは惹かれているし、
彼のようになりたいと願うのではないだろうか。
それとも本当にアンチが言うように、
僕の幸せを妬み悪く言うだろうか。
そこまで根性悪くないと思うけどな。
別に僕が直接激励を受けたりしたわけじゃないけれど。


勲章や、名誉市民や名誉教授の称号の数々を彼が
見せびらかしてるようにみえるのかもしれないけれど、
「これらはみんなのおかげなんですよ。
 みんながもらったと同義なんですよ」
って報告していると、素直に解釈出来ないものなのかね。
学会員同士で「俺たちってスゲー」って思ってていいじゃん。
同志を讃え合って「もっと良くなろう」、
「もっと感謝されるようになろう」って、
思ってればいいじゃん。
別にすごいと思わないなら、
「ふぅん」でいいんじゃないのかな。


でも少なくとも70過ぎて、まだなんらかの活動してるのは、
普通に立派だとは思うけどなぁ。
特別崇拝するわけじゃないけれど。
【2006/06/19 20:36 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
「盲信学会員」というレッテル
ある学会員をつかまえて「盲信学会員」と決めてかかる人がいる。
学会員である前に彼は、良いところも悪いところも
持ち合わせた人間だと思うんだけれど。
本気で向き合ってみれば、本気で答えると思う。
どちらかといえば「盲信」と決めつけるほうが、
根気が足りないのではないか。
情熱が足りないのではないか。


本当に分かり合いたいと願うのならば、
その学会員に徹底的につきあってみればいいじゃないか。
創価学会について学んでみればいいじゃないか。
創価学会の歴史や教義、目指すもの、
いろんなものに目を通して、まずは把握してみることから始めるべきだ。
それが本気で向き合うということだと思う。
その努力もしないくせに、ネットだけでアンチの一方的な情報を読み、
「創価学会は悪」という印象をもちながら対話に望むから、
話が噛み合わないのだと思う。


創価学会の書物はどのくらい読みました?
学会内部での仏法用語の使い方知ってます?


共通のタームを持っていれば、そんなに噛み合わないことはない。
その理解し合いたい学会員と同じだけ、もしくはそれ以上の、
創価学会の知識を持っていれば、彼は絶対に耳を傾ける。
「これだけ勉強してみたんですけど、教えてください」
そんな態度で話せば「盲信」なんて感じられなくなるはずだ。
「創価学会のことなんて知りたくもない」
というような態度で接するから、話にならないのだ。


「創価学会のこと理解したいんです。オススメの本ってありますか?」
そんな風に切り出してみればいい。
もし理解したくもないと思っているなら、
自分の方が「創価学会は悪」だと「盲信」してるんだ。


だから彼よりも教学について詳しくなればいい。
たとえば、彼よりも御書をよく知っていたり、
池田名誉会長の指導をよく知っていたりして、
縦横無尽に引用して展開することが出来れば、彼は耳を傾ける。
そうなったとき、彼を「盲信」とは言えない。
まずは相手の土俵に立つだけの力を身につけるのが先だと思う。
その努力もしないくせに「盲信学会員」と決めつけるから、
いつまでたってもいがみ合うことになってしまうのだろう。


別に仲良くなりたくない人なら、
「盲信」と決めつけてほっといてもかまわないけれど、
家族となるような、大切な人ならば
そのくらいの努力はしてもいいんじゃないかと思うけどな。
【2006/06/18 16:51 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
敢えて非常識なのです
常識を変えたいと思うのならば、
まず自分から、常識とは違う行動をしなくてはならない。
常識と違う行動を取るのだから、それは非常識である。
「非常識だ」と思われようが、罵られようが、
それは当たり前だし、誉め言葉だと捉えてよい。


周囲からの批判や罵声が想定の範囲内であるのならば、
まったく考慮に入れる必要はない。
周囲の反応をシミュレートした上で、
敢えてその行動を取っているわけだから。


立ち止まって考えなくてはならないのは、
想定の範囲外の指摘を受けた時だ。
そのファクターを自分の考えたロジックに代入し、
再計算してみる必要がある。
その結果、自分の取った行動が間違っているならば、
そのときはじめて方向を修正すればいい。


たとえば僕は自分なりの正義を持っているけれど、
読み調べ考えた上での正義だと自負しているし、自信がある。
だから、僕の正義が間違ってると言いたい人に対して、
この正義を揺らがすくらいの変数を示して欲しいと願う。
想定の範囲外のファクターを示してくれれば、僕は喜んで考える。


たいていの批判は、今まで何度も目にしてきたし想定の範囲内だ。
目新しい批判、斬新な視点での批判、
そういったクリエイティブな批判が欲しいと思う。


常識を変えたいと願い、
敢えて非常識な行動を取っている者に対しては、
常識を変えたいと願う者が思いもよらなかった問題点や、
思いもよらなかったより良い代替案を提示しなくては、効果はない。


常識を変えたいと願う者は、聞く耳を持たないのではなく、
旧態依然とした批判に飽き飽きしているだけである。
そんな批判は既に折り込み済みであり、
トレードオフな事柄を選択した結果が今の行動なのだ。
もし新しい視点から、新しいより良い方法が提示されたのなら、
熱心に耳を傾けるだろうし、妥当だと思えば平気で持論を変えるだろう。
【2006/06/17 10:55 】 | 未分類 | コメント(128) | トラックバック(0) | page top↑
ハラスメントへの愚痴
これはもちろん、責任を他に求めることであり、
愚痴に他ならないのだけれども、
僕はきっと現在の社会の方向性が嘆かわしいのだ。
たとえば創価学会というような、
おせっかいの権化のように他に干渉する人たちを、
ハラスメントというような単語によって追いつめ、
さも弱者を守っているような顔ぶりでいる人たちが、
大腕を振って闊歩している。
それが「よいこと」とされることによって、
なにか大切なものが失われているような気がしてならない。
カンでしかないのだけれど。


セクハラでもパワハラでもアカハラでもモラハラでも
かまわないんだけれども、こんな単語の横行によって、
一歩踏み込んだコミュニケーションをしようとする挑戦が
失われていくようなそんな危惧が僕の中にある。
人と人とがつきあっていく中で、
「あ、これはハラスメントになりうる」
と、感づいてしまったら、
もうそこから先に踏み込まないほうが無難だ。
親切のつもりであっても、下手すると訴えられる可能性がある。
これは冷たい人間関係を容認してしまうことにならないか。


人と人との距離感をつかむことは、
トライアルアンドエラーでしか出来得ないと思う。
もちろん出来る人は出来る。それは才能だ。
生まれつきコミュニケーションが上手な人はいる。
そんな人はハラスメントとは無縁でいられる。
だけれども、今その能力を持っていない人は、
失敗しながら成長するしかないのではないか。
それを暖かく見守る土壌が、今の日本にあるだろうか?
この手のことってルールで縛るべきことだろうか。
線を引くことで、本当に僕らは幸せになるのだろうか。


なんとなくだけれども「ひきこもり」の問題も、
このへんに源泉があるような気さえする。
彼らは傷つくことを恐れるだけではなく、
傷つけることを恐れているのではないか。
また、それを告発されることによって
受ける制裁の可能性を恐れているのではないか。
今、彼らは「どうしていいかわからない」
という事態に陥っているのではないか。
たいてい、彼らは優れた思考力を持ち、
合理的に考えることが出来る。
だけれども、他と接することを拒む。
おそらく彼らの中の損得勘定で、
他と接することで失われるかもしれないものと、
他と接することで得られるものが、
つりあっていないのだろう。
他と接することで得られるものが、
たとえば告発されるようなリスクを冒してまで
獲得したいものではないと判断している。


現状、社会はどちらの方向に動いているかといえば、
そのリスクを高める方向に動いているように思う。
ルールを作ったり、ペナルティを高く設定すればするほど、
リスクをとりたがる人はいなくなる。
人と人とがコンフリクトを起こすことの、
損害額(経済的にも社会的にも)が高くなっているように思うんだ。
黙ってひきこもっている方が得なんじゃないかとすら思う。
コミュニケーション能力の低い者は、
練習する機会を与えられなくなっている。
格差というのなら、ここに格差が生まれるんじゃないだろうか。


気づいている人間は、ひきこもる。
図々しい人間は、声高に「傷つけられた」と言う。
どうしたらいいんだろう。
たとえば、僕みたいなバカ者がもっと居ればいいと思う。
人権論者が悪いわけではないけれど、
なんだか比率が増えすぎな気がする。
豪快な人や、乱暴な人、
僕はそんな人になりきれてないけれど、
自分を解放した人がもっと多くなって、
それが世のスタンダードになったほうが、
よっぽどストレスのない社会になるんじゃないか。


なんというか。
もっと許し合うことって出来ないのかね。
もちろん深刻なケースがあることも知った上で。
【2006/06/11 18:33 】 | 未分類 | コメント(6) | トラックバック(0) | page top↑
プリキュアが気になる
この数日『ふたりはプリキュア』が気になってしかたがない。
溜池ナウで中川翔子がアカペラで歌ってたのを聴いてからだ。
「一難去ってまた一難 ぶっちゃけありえない」ってな歌詞。
「ぶっちゃけありえない」に惹かれる。
「プリティでキュアキュア」ってなんだよ?w
大きなお友達もさることながら、
まっとうに小さなお友達にも受けていたようだ。


主人公の設定もツボっぽい。
『「スポーツ万能、勉強嫌いで無鉄砲だけど人一倍正義感が強くクラスでも人気者の“なぎさ”と成績優秀で常にクラスのトップ、ちょっと見にはお高くとまっているようだが、実は天然ボケの“ほのか”』


「ぶっちゃけ」「ありえない」「ていうか」
そんな現代語が多用されるようだ。
ここまで開き直ってくれると気持ちいい。
敵陣営は「ドツクゾーン」…「どつく」ですよ。
敵キャラ「ザケンナー」…「ざけんな」ですよ。


お互いピンチを
乗り越えるたび
強く近くなるね
your best My best!
生きてるんだから
失敗なんてメじゃない!
笑う門に福来たるでしょ!
ネガティブだって
ブッ飛ぶぅ~!
生命の花咲かせて!
思いっきり~
もっとバリバリ!!


こんな歌詞。
こういうの好き。萌えるなぁ。
CD買ってくるしかないよなあ…。
【2006/06/10 22:26 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
村上さんのコメントより
マルチポストごめん。


gyaoで村上世彰の会見の始終を観たんだけどさ。
http://www.gyao.jp/news/
やっぱ彼の言うことってスジは通ってるんだよな、と思う。
感情論は横に置いておくとして。
まあ検察のことだから、まだまだ他にもいろいろ、
出てくるのかもしれないけれど。


ちょっとピックアップしてコメントしてみる。


村上
「私が責任者なんですから。
逃げるためにシンガポールいったんじゃない。
ただ一ついいたいことは、
若干日本がイヤになってきたかなという気持ちはありました
変な国になってきてる。
それは僕もそう思ってる。


頑張る人を讃える、
税金いっぱい払った人を誉め讃える、
そうあるべきじゃないんですかね?
違いますかね?


こんな僕がこんな偉そうなこと言っちゃ
ダメかもしれないけれど。


たとえば、僕は堀江さんのこと今でも好きですよ。
もうあれ以来堀江さんに会ってないですよ、僕は。
たぶん会うこと自体がおかしなことになるかもしれないけれども、
でも、やっぱり希有な才能をもってた人。
で、そういう人がずっと常時戦っててですよ。
その人の才能が生きないっちゅうのは、
この国にとって本当にいいんですかね?


もしくは、堀江さん的っていう人がどこまでいたかどうかわかりませんが、
そういうトライをする人、チャレンジする人、
やっぱりそういう人をもっと応援するべき国じゃないんですかね?
僕はそう思うな。
僕自身は一線から身を引こうと思ってますから、
もういい年ですからそれはかまわないんだけど、
若い人が頑張ってチャレンジするような国になって欲しい、
と僕はそう思います。」



これは僕も賛成。
日本がイヤな国になってると僕も思う。
それは、成功者の足を引っ張る人が多すぎる、ということ。
「あいつは成功した」「あいつはいくら儲けてるはずだ」
そんなこと言ってるんじゃなくて、
それに触発されてもっと頑張りましょうよ。
自分が出来ないなら誉めましょうよ。
素直に「すげぇなぁ、くそう、俺もやってやるぜ!」ってなぜ言えない?
もしくは「すげぇなぁ、俺には出来ない。がんばれ!」ってなぜ言えない?
普通に考えてどっちかだろうよ。
嫉妬して揚げ足取って引きずりおろすの、やめようぜって思う。


記者
「ニッポン放送の関係を通してですね、いったいいくらくらいの利益をあげているのか?」

村上
「僕はそれが、今記者の方が言われた質問が残念なんです。
みなさんの新聞記事は阪神でいくらの利益がでた。
そればっかし。
ほんとに嫌気がさした。
だからシンガポールに行ったところもある。
そんなんどうでもいいじゃないですか。
計算してくださいよ、それは。


それよりも、そういう取引や、そういう売買、
もしくは私鉄の再編においてなにが起きるのか、
そういう本質論をもっと議論しましょうよ。


もしくはテレビ局のあり方。
テレビ局が持ち合いではなくて、
もしくは僕はテレビ局のみなさんに言いたい。
なんでMBOしないんですか?こんな安い株価で。
なんでみんな従業員の方がリスクを取らないんですか?
持ち合いやめましょうよ。
そのほうが僕はまっとうな会社になると思う。


だからナンボ利益出したんだということよりも、
本来の会社のありかた、
そういうことを若い記者のみなさんも徹底して議論してほしい。
僕はそう思う。
申し訳ないけれども、その質問に答えたくない、今日は。」



僕もそう思うところがある。
つまり創価学会についても同じような論法で、
創価学会がアンチに責められている場合、
その論点はおかしいんじゃないの?と言いたくなる。
「墓園事業でいくら儲けた」
「御本尊ビジネスでいくら儲けた」
「財務がいくら集まってる」
そんなんどうだっていいじゃないですか?と言いたくなる。
もちろんルールの範囲を逸脱しているのならば、
ペナルティを負うべきでしょう。
創価学会はルールを犯してるんですか?
創価学会ってそういうレベルで戦ってるんじゃないかなあ。


とは言っても、
村上さんの言ってることに無理があるとは思う、日本では。
日本の国民ってのはそういうレベルで動いてないんですよね。
勉強し続けるのも嫌いだし、お上に従ってればいいと
思ってる人が多い。
まあ村上さんは、だからこそ日本の国がイヤになったんだろうけれど。
創価学会の経営が成り立っているのは、
学会員一人ひとりが不勉強で、
そういうレベルでものを見ることが出来ないからです。
合理的に考える学会員が少ないからだ。


でも、みんなが村上さんみたいに弁が立つわけじゃない。
そういうレベルで考えることが出来るわけじゃない。
もうだったら、不幸な人を出さないために、
矛盾をあちこちに抱えたまま日本人の権化として
創価学会を飛ばし続けた方がいいと僕は思う。


国民を嫉妬するように煽って書くマスコミや、
それに簡単に乗せられて嫉妬する国民が多い。
この国はどんどんおかしくなっていくような気がする。
頑張る人は讃えられない。
いや、頑張っているうちは讃えられるが、
成功すると一気に嫉妬に変わる。
それじゃ頑張ろうなんて気がそがれないか?
リスクを取ろうなんて気がそがれないか?
いやもしかしたら、これが国民の本当の姿なのかもしれない。
もし、そうだったとするならば、
戦後の繁栄の方が分不相応だったんだ、きっと。


でも、村上さんが認めた以上、ルール違反を犯したことは事実だ。
違反は違反。スジは通ってるので、ルールに従って、
ペナルティを払ってもらうしかない。
感情的には「これが日本の姿なんだな」って思うけどね。
【2006/06/06 22:51 】 | 未分類 | コメント(12) | トラックバック(0) | page top↑
コンプライアンスが大切なんだけどさ
ホンネを言えば、
東横インの社長がバッシングされていたとき、
第一印象では「社長、かわいそう」
「窮屈な世の中になったな」って思った。
コンプライアンスをうるさく言われる世の中になったから、
それに合わせなくては商売出来なくなった。
障害者保護という名目で年に数回しか使わないスペースを
確保しなければならないというルールができちゃってる。
豊かな世の中になったもんだ。
まあ、法律ならば従わざるを得まい。
結論でいえば、東横インの社長が悪い。
公の場でホンネを言ってはいけないし。


今まで債権者は、債務者に精神的圧力をかけて
回収していたけれど、それが許されなくなった社会だ。
そうなるとカネを貸す側は、
回収できるかどうかを慎重に調査する。
規制を強めれば強めるほど、持てる者は慎重になる。
また、ルールは複雑になり、知識の有無が重要となる。
いわゆる「強者」は抜け目なくルールの確認をする。
いわゆる「弱者」はルールを確認するすべを知らない。
となると、規制を強めることも、弱めることも、
たぶんあまり「弱者」の地位を高める用をなさないのではないか。


なんというか、もっと「情」でなんとかなんないのかね。
俺は俺の周りの人間を不幸にしたくないから、
また、俺の周りの人間に生き生きと生きて欲しいから、
したたかにお金儲けをしようと思う。
そして、俺の周りの人間が生活に困っていたり、
やりたいことがあったりすれば、
喜んで資金の援助が出来るようでいたい。
それが「情」だと思うからだ。
なんのためにお金儲けをするかといえば、
身内をひいきするためだろう。
俺は縁した人の味方でいられるだけのお金が欲しい。
自分自身が必要以上の贅沢をするためではなく、ね。
【2006/06/01 10:37 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
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