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自分は自分
photochikaさんに教えてもらった
2006年7月26日の聖教新聞6面の記事
「子供の楽観思考を伸ばすコツ」を読んだ。
「聖教新聞は悪口新聞だ」くらいにアンチにプロパガンダされていて、
なかなか良いことを書いていても、評価されないのが残念だと思うわ。


 「厳しくしつけられたので、おどおどしている」「小さいころから母の苦労を見てきたから、性格が暗い」「留学させてもらえなかったから、英語がうまくない」----こうしたことが、自分を苦しめることがよくあります。これらに共通するのは「人のせいにしている」ことです。


僕のいいたいことの一つである
「人のせいにするな」
ということはこういうことなんだよな。
僕の言葉だと、語調や語尾が強いので、
反感を買うんだけれど…(^^;
まともなことを言っていると思うよ。


「いつまでも、あの人がこうしたから、と思っていては何も変わらない。小さいころは、大人を信じるしかないけど、今は違う。あなたはさまざまな教えや考えを選べるし、いらないものは捨てられるのです」


「あの人」を創価学会に置き換えて読むことも出来ると思う。
いつまでも、創価学会がこうしたから、
と思っていては何も変わらない。
小さいころは、大人を信じるしかないけど、今は違う。
あなたはさまざまな教えや考えを選べるし、
いらないものは捨てられるのです。
と、こんな風に言えると思う。


かつて僕は、いわゆる「アンチ」の思想を持っていたけど、
いらないものだと判断して捨てた。
僕は僕の責任で、言いたいことを言って、やりたいことをやっている。
もしそれで罰が出るなら、自分が引き受ける覚悟はある。


人によっては創価学会の思想をいらないと思うのかもしれない。
だったら、捨ててしまえばいいと思う。
活動をやめたいと思うなら、やめればいい。
他の宗教がやりたかったら、やってみればいい。
すべて、自分の責任で、人のせいにせず、
捨てるべきは捨て、選ぶべきは選べばいい。
それが道理ってもんだと思うがね。
これは強者の論理なんですかね…。


もちろん同苦という概念も大事だ。
誰かに寄り添ってもらうと励まされるのは確かだしね。
だけど、自由な空へ飛び立つためには、
自分の翼を、自分の力ではためかせなくてはならないと思う。
いつまでも巣に引きこり、エサを与えられるのを待っていては、
率直に言って、自分の命がもったいないと思うんだ。


せっかく与えられたこの命を、どう使うかは自分次第だ。
僕は、人生は一度しかないと思っているから、
今しか出来ないことを一所懸命にやれる自分でありたい。
悪口を言われても、バカにされても、そうあり続けたいと思うんだ。


【以下全文引用】


子供の楽観思考を伸ばすコツ<33>
トラウマへの対処 考え方次第で改善することも
星槎大学助教授 野口桂子


 「自分探しの旅に出よう」というプログラムを通し、楽観思考を鍛えることを紹介しています。ノートに自分の特徴を、長所・短所を問わず書き、吟味することをお話ししました。今回は、その中に、自分のトラウマになるものがあったときの対処についてです。
 「厳しくしつけられたので、おどおどしている」「小さいころから母の苦労を見てきたから、性格が暗い」「留学させてもらえなかったから、英語がうまくない」----こうしたことが、自分を苦しめることがよくあります。これらに共通するのは「人のせいにしている」ことです。しかし、自分の性格や能力が「だれだれのせいでこうなった」と言う人に、私は次のように申し上げたいのです。
 「あなたは、自分で考え、判断できる年齢になりました。間違ったことを教えられたと思うなら、それを捨て、自分で自分に別の考えを教えましょう」「いつまでも、あの人がこうしたから、と思っていては何も変わらない。小さいころは、大人を信じるしかないけど、今は違う。あなたはさまざまな教えや考えを選べるし、いらないものは捨てられるのです」
 確かに人は、人に対して自分がされてきたようにする傾向があります。また、中には自分が受けてきた経験がトラウマになり、心理療法を用いないと、ぬぐい去れないケースもあります。
 しかし、多くのケースは、自分の考え方次第で人生を大きく改善できます。そのことに本人が気付いてマイナスの経験を断ち、新しいスタートを切らなくてはなりません。大人になるとは、一面、自分に合わないものを上手に拒否できるようになることです。わだかまりやしこりを残さず、整理して、新しい自分をつくり出すことなのです。
 私のセミナーに参加した江里子さんは、人に「ああされた、こうされた」と思っているうちはとても苦しいけれど、「あの人は、ああしてくれた。うれしかった」と感謝できることを思い出すと、心がとても平和になることを体験しました。
 人の良い面を先に見られる人は幸せです。そして、さわやかな人です。なぜなら、心の中が居心地よく整理されているからです。それと同じく、自分に対しても良い面を認めてから欠点を見たいものです。人は、意識せずにいると悪いことのほうに注意がいきやすいものです。ですから、意識的にそうすることをお勧めします。



追加。
創価学会の良い面を先に見られる人は幸せです。
そして、さわやかな人です。
なーんて思っちゃったりしちゃったよw
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【2006/07/28 19:20 】 | 未分類 | コメント(12) | トラックバック(0) | page top↑
苦しいときこそニヤリと笑え
ふと「苦しい時こそ笑え」という言葉が思い浮かんだ。
なにかの歌の歌詞だったよなーと思って検索かけたら、
『炎の転校生』だった。そうだそうだ、そうだった。


叶わぬ敵にもひとまず当たれ
あの娘の瞳がエネルギー
苦しいときこそ ニヤリと笑え
はたからから見てみな 男だぜ


http://www2.kget.jp/lyric.asp?c=0&a=&t=&b=%89%8A%82%CC%93%5D%8DZ%90%B6&f=&n=6fbbd591b93a627ea537711b712ffafc%2F22566


正義と悪との識別完了ってのが笑える。
島本和彦の哲学は好き。
学会員ってこれを地でいってるんだよな(笑)。


うーんやっぱ「心に棚を作れ」は名言だよなあ。
【2006/07/26 12:31 】 | 未分類 | コメント(8) | トラックバック(0) | page top↑
「富田メモ」からのつれづれ
天皇というポジションの人は、
プライベートの場であっても、いかなる人に対しても、
政治的なことに波及するおそれのある事柄については
コメントしてはならないのだなあ。
昭和天皇にとって、左方向にせよ右方向にせよ、
今の政局に利用されることが一番されたくなかったことだろうな。
そういう意味で、メモを書かれて残ってるってことは、
昭和天皇の失策だったと、あの世で思ってることだろう。


しかし、今の皇室に自分のコメントの重さの自覚はあるのかなあ…。
この文脈で、天皇というポジションが可哀想だという思いから、
ぐるっとまわって天皇制反対の左翼ってのはわからんでもないな。
象徴としての宿命が可哀想だから保護しようという方向にいくのか、
象徴としての宿命が可哀想だから撤廃しようという方向にいくのか。


まあ、俺もサヨクなのかもしれないね。
天皇制がなくなっちゃったらなくなっちゃったでも、
いいかもしれないななんて思っちゃうもの。
まあたぶん、そんなには皇室に思い入れがないからだろうけれど。


でも、国歌と決まってるんだから君が代は歌おうよ、
日の丸は讃えようぜ、なんて思う。
僕は日本の国の税金でサービスを受けて、育ったからかなぁ。
日本の国を支えてきた一人ひとりに感謝する意味で、
シンボルとしての国旗国歌は讃えたいと思うなあ。
僕は日本に感謝はしてますよ。
日本人の多くが、日の丸君が代を国旗国歌と認めてる以上、
やっぱ日本という国のシンボルと認めてもいいと思う。
日本の国がどっか他の国と戦うんだったら、僕は協力しますよ。


さて。マインドコントロールという文脈でいうなら、
天皇や皇室に疑念をはさまないのはマインドコントロールだもんね。
それこそ幼少時からのすりこみによるものだもん。
天皇だって、一人の人間であり基本的人権を持つと考えるなら、
現在の扱いは理不尽だという理屈はなりたつわな。


でも、どうなんだろう。
日本のアイデンティティって、やっぱ象徴としての天皇があってさ。
皇族ファミリーってのがやっぱ象徴としての日本のあるべき家族像でさ。
だとするなら、皇族の誰彼が、アメリカ的個人主義な価値観でもって
コメントしたとしても、それは現代日本の象徴なのかもしれないよね。


うーん、なんだか酒飲みながら書いてたら、グダグダだな(笑)。
【2006/07/26 00:24 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
師と出会う時はその師を殺せ
日蓮正宗は日寛教学により、
釈迦本仏から日蓮本仏にシフトすることで、
原理主義的な方向に走ったとされてるけれど、
固定的な釈迦の説いた「教義」というテキストではなく、
日蓮の「振る舞い」という動きそのものに焦点をあてたことによって、
より応用範囲が広く、より寛容な解釈が
出来るようになったのではないか。


日蓮って、何度もツライ状況に追い込まれているけれど、
そのたびにくじけることなく難を乗り越えているのだよね。
その姿にこそ、「本仏」の姿があるわけだ。
日蓮のしたたかさの源泉には、南無妙法蓮華経があっただけ。
単純に南無妙法蓮華経という言葉を広げたところで、
したたかさ、強さ、自分を奮い立たせる力、難に立ち向かう姿勢、
それらがなければ念仏と一緒なわけだ。


五老僧は日蓮の言っていることを言葉通りに受けて、
南無妙法蓮華経だけ広げればいいと思った。
いわゆる、日蓮の「文上」しか解釈出来なかった。
日興は、師である日蓮の言っていることはもちろんのこと、
その言葉にあらわすことの出来ない真意を汲んだ。つまり「文底」だ。


僕は、池田大作氏を特別に師匠と仰いでいるわけではないけれど、
学会内に五老僧的解釈で、弟子を名乗っている者は多い気がする。
池田氏の言うことは、現場現場で変わってくるのは当たり前であり、
「先生がこう言ったから」という運用の仕方では駄目なんじゃないか。
「文上」的な解釈で都合良く自己正当化しているだけだ。
ましてや、言説の矛盾を指摘しているなんて
レベルが低いとしか言えないだろう。
学ぶべきはその「振る舞い」ではないのか。


かつて日蓮正宗と創価学会は師弟関係にあったのではないか。
そして創価学会は日蓮正宗を離れても、実証を示したとされる。


現在は、一人ひとりが実証を示す番と言えるんじゃないか。
一人ひとりが自らの力で、日蓮のように生きること、
これが日興門流日蓮正宗の本意ではないか。
日蓮大聖人から試されていること、
日興上人から試されていること、
創価学会から試されていること、
池田名誉会長から試されていること、
それは僕ら一人ひとりが、たった一人であっても、
力強く生きることではないか。


創価学会の家に生まれた学会っ子は、
もし創価学会の組織が堕落している腐ってると思うならば、
どんどん組織を離れたらいい。
そして一人雄々しく立ち、外の世界で実証を示すべきだ。
「創価学会から離れても、私は実証を示した」
と言えるようでなければ、組織を離れた意味がない。


僕は、脱会した人も応援したいと思っている。
そんな人は一人立つために組織が邪魔になったのではなかったか。
だったら、愚痴を言わず困難に立ち向かう姿勢を示すべきだ。


もし、ただ弱い気持ちで組織から逃げただけならば、
弱虫だ意気地無しだというようなことを言われて当然と思う。
弱い気持ちでないのなら、そんな言葉は屁でもないし、
コツコツと自分の信念に従うことが出来るはずだ。
弱く後ろめたい気持ちがあるから、そんな言葉を気にすることになる。


アンチは学会員を指して、依存体質で弱い人間だと言う。
創価学会内部の学会員が弱いというのならば、
「組織なんて要らない」
そんな組織に対してのアンチテーゼを、
自分の「振る舞い」で、力強く示して欲しいと思う。


そんな強い自分でいられるとき、
南無妙法蓮華経の当体として、輝くことが出来る。
その「振る舞い」は、釈迦仏法とも日蓮仏法とも、
創価学会ともアンチとも矛盾しない「仏」という存在だと思うのだ。
【2006/07/23 14:56 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
学会を離れた人こそ頑張れ
「さあ、次の山へ」「今よりもっと高いところへ」
創価学会の思想は向上心の肯定が主眼となっていると思う。


アンチは「頑張らなくていい」と言う。
それでは僕らはなにに生き甲斐を感じるのだろうか。
頑張らずに自分をぬるま湯に浸らせているとき、
果たして僕らは生き甲斐を感じているのだろうか。
そうではなくて、なにかの目標を定め、
それを睨んで、我を忘れ懸命に励むときにこそ、
僕らは生き甲斐を感じるのではないか。


人間は放っておくと、だらける性質を持っていると思う。
ラクな方へ、ラクな方へ流れていくものだと思う。
これは間違っているだろうか?
少なくとも僕はそうだ。
(ちなみに、自分の弱さを認めるとは、
こういうことだと思うけどな)


だとするなら、思想として強調するべきは、
強く厳しい主張ではなかろうか。
ただでさえラクな方に流れる性質があるのに、
さらにラクな思想を与え、それを肯定したならば、
グズグズのダメ人間になってしまう。


アンチは仏教とは抜苦与楽の癒しであると言う。
ではその癒しの思想を受け入れた者は、
素敵だな、立派だな、と思えるくらいの人格者であろうか。
たいていは、自他共に認めるダメ人間ではないか。
仏教とはダメ人間になるための思想ではないはずだ。
言いたい放題の愚痴をまき散らし、
学会員に対しての、創価学会に対しての、
社会に対しての、世の中に対しての、
恨み言や中傷ばかり言っているではないか。


もしもアンチが立派で幸せなら、
学会員はなにも言うまい。
わざわざ折伏することもないだろう。
少なくとも僕は、恨み言を言い暴言を吐くアンチを、
幸せだとは思えない。
内部ではこれを邪宗の害毒とも、罰とも呼ぶだろう。
「創価学会を離れると不幸になる」とも言う。
実際に不幸になっているではないか。


だから創価学会を離れたならば、
しっかりした幸せの実証を示して欲しい。
創価学会にまどわされないくらいの、
強い自分を構築することだ。
そうでなければ、
街に翻る三色旗を見るたびに心がかき乱され、
会館を見るたびにいちいち反応してしまう。


僕がずっと言っていることだけれども、
創価学会を離れたならば、創価学会に居たとき以上に、
強く自立した一人ひとりでなければならないと思う。
もし、創価学会を離れた人がそうであるならば、
学会員は彼に対して特に何も言わないであろうし、
仮に学会員が何を言ってきたとしても傷つくことはない。
そのときはじめて学会員よりも幸せになったという
実証を示すことが出来るのではないだろうか。


いってみればすべての人にそれが出来たときが、
僕は広宣流布だと思う。
一人ひとりが、他に惑わされず自分の足で力強く立てる時だ。
そのときはじめて、創価学会の組織は必要なくなるのだと思う。


創価学会を離れたアンチは、
学会員以上に自立した強い生き方をして欲しい。
それが出来ないのであれば、
創価学会を批判する資格は無いと思うんだ。
【2006/07/23 13:15 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(0) | page top↑
はっぴばーすでー
いやっほう。
今日は僕ちん、誕生日だよ。
33歳になりまちた。
身体はどんどん衰えていくけど、
気持ちは若いままでいくよ。


心は永遠の19歳です。
そう。今日は19歳168ヶ月の誕生日なのです…。
おめでたいでしょ? おめでとうって言って言って!(笑)。
【2006/07/22 17:35 】 | 未分類 | コメント(13) | トラックバック(0) | page top↑
さよなら。またね。
大切なものは、なくなってしまってから気づくものばかりだから、
まだ存在しているうちに、しっかり愛でていたいね。


生きてるうちは、
まとわりつかれるとうっとおしく思ったし、
ききわけがないと腹も立った。
でも、もっと抱きしめてあげればよかった。
もっと遊んであげればよかった。
死という別れは、ある日突然訪れる。


15日、実家で飼っていた犬(ラブという名前だ)が死んだ。
嵐に怯えて混乱し、紐のついた首輪を引っ張り、
自らの力で息絶えたようだ。
雷の音に「怖いよ! 助けて!」と叫び続け、
ひとり恐怖の中で死んだラブ…。


雷が嫌いだったアイツ。
雷が鳴るたび、混乱していた。
目の色が変わって狂ったように吠え暴れたけど、
近くに寄り添ってあげられなかったのは、
かわいそうだったかもしれない。
でも、力が強いから暴れるとどうしようもなかったんだ。
雷のたびに何度も何度も脱走して、
家に帰れなくなったアイツを、
しょうがないなーと思いながら、
誰かのお宅や警察に引き取りにいったっけ。


実家でラブと一緒に過ごしていた
母は、可哀想なことをしたかな、と言った。
父は、いや幸せだったよ、と言った。
僕は、一緒に過ごしていたわけではないけれど、
やっぱり幸せだったと思いたい。


僕の投げたボールをくわえて芝生を走り回ってる姿を思い出す。
なでてあげるとお腹をさらし、「もっと」と訴える目を思い出す。


ラブに題目を送りたい。
こうやってラブを思い出してしまうこと。
なんともいえない気持ちにさせられること。
ラブは僕の心の中で生き続けてる。
時が過ぎれば、思い出すことも少なくなるのだろう。
でもそれは忘れてしまったのではなく、
僕の心に溶けこんで僕と一つになったのだ。


だから、僕はラブの分まで楽しんで生きる。
悲しいことや苦しいこともあるけれど、
この世にいる限り、ずっと優しく強く生きていきたいと思う。
今、これから、僕に出来ることはそれしかないんだ。


5884272_223.jpg
脱走したとき保護してくれた人が撮ったラブの写真
【2006/07/19 14:44 】 | 未分類 | コメント(8) | トラックバック(1) | page top↑
『魔法飛行』
mahouhikou.jpg



「信じたい人間だけが、信じればいいのさ。ほかのやつの言うことなんて、気にすることないんだ」
 その口調に、私ははっとした。彼もまた、何かを信じるために決して小さくはない代償を支払っている一人なのだ、と思った。世の人はどうして、罪のない夢想家や風変わりな魂を、放っておいてはくれないのだろう? そっとしておいてくれさえすれば、彼らはきっと幸福でいられるのに。(加納朋子『魔法飛行』。以下イタリック体はこれより引用)



創価学会の内部に、アンチの格好の餌になるような、
清らかならざるものがあるのはわかる。
僕は認めてもいい。


だけど、なんの罪もない末端の学会員に
それを教えてなんになるのだろう。
したり顔で信濃町の内部を漏らす者が、
仏の心を持っているのだろうか。
末端に漏らす行為をした時点で、
その幹部は幹部たる自覚も資格も失っていると思う。
信仰のなんたるかすらわかっていないのではないか。


現実を暴いて幸福になれるなら良い。どんどん暴けばいい。
ところが暴けば暴くほど、人の心は貧しくなっていく側面もある。
だまって見なかったことにするって出来ないのかな…。


「『馬鹿じゃないの、あなたたち。あれは蛾が交尾してるのよ』ってね」


なにもかもを知ってしまうことが必ずしも幸福じゃないはずだ。
何か日常を超えた不思議を信じてほしいという気持ちや、
何か非現実的なことを信じさせてもらいたいという気持ちを、
否定することはないんじゃないか。


御本尊の功徳だって「ある」と言ったっていい。
プラシーボ効果だ、脳内ホルモンの作用だ、と
暴いたところで、本当に幸せになれるのだろうか。


そんなことを言うと「お前ら学会員はどうなんだよ」と言われる。
だから少なくとも僕は、たとえば、
誰かがお地蔵さんに手をあわせる行為を蔑まない。
念仏申す行為を蔑まない。
なにかを信じることで、幸福でいられるのならば、
僕はそっとしておいてあげればいいと思う。


茜さんの気持ちが僕にはわかるのだけれども…。


…と、三章まで読み、ここまで書いて、
それから最後まで読んだら…なにも言えなくなった(^^;
魔法は届くね、やっぱ(笑)。


私がときおり見る夢。あれは決して『脱出』の夢ではない。こそこそ逃げだそうとしているのではなく、これからどこかへ行こうとしているのではないだろうか? そうだ、あれは『出発』の夢なんだ。


えーっと、こういう小説は、
俺ごときがくどくど書いても駄目だな…いいから読め!(ぉぃ


「そう、君は鈴の音を聞いてしまった。だから諦めるのはまだ早いんだ。違うかい?」


犬のメメさんも読むこと! 僕からの宿題だ。
そして読んだ人はコメント欄に何か書くこと(ぉぃ
【2006/07/13 23:40 】 | オススメの本とか | コメント(17) | トラックバック(0) | page top↑
それが大事
負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事・信じ抜く事
駄目になりそうな時 それが一番大事
負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事・信じ抜く事
涙見せてもいいよ それを忘れなければ(『それが大事』より)



法華経を持つということは、こういうことだと思うんだけどな。
創価学会はずっとこれを言い続けているだけ。
だけど、これらの事が一番難しいから誤解されちゃうんだよね。
内部からも外部からも…。
ホント、六難九易だわ。
【2006/07/12 09:43 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
Beep beep Beep beep yeh
それこそ師匠と言ってもいいのかもしれないくらい
糸井重里が好きで「ほぼ日手帳」なんぞを使っているんですがね。
日別の欄に、「ほぼ日」でとりあげられたことばが書いてあるんです。
今日のことばは、連想がはたらいたのでその紹介と、僕のコメント~。


ビートルズについて、何もかもをどこまでも圧縮すると、
「YEAH!」が残るのではないかと思ったのです。
少しお行儀が悪くて、明るくて、
肯定的で、共感性が高くて、
何よりも楽天的な「イエイ」というかけ声。
<『今日のダーリン』より>



題目も同じだと思ったんですよ。
南無妙法蓮華経って、少しお行儀が悪くて、明るくて、
肯定的で、共感性が高くて、何よりも楽天的、だって。
僕ら仏教徒の「YEAH!」が「南無妙法蓮華経」なんだと思った。


仏教について、何もかもをどこまでも圧縮すると、
南無妙法蓮華経が残るというのもそうでさ。
釈尊について、何もかもをどこまでも圧縮すると、
二十八品の法華経が残る(頭のカタイ文献中毒はほっとこう)。
そして二十八品の法華経について、何もかもをどこまでも圧縮すると、
南無妙法蓮華経が残るわけです。


僕らの魂の叫びが南無妙法蓮華経なんですよ。
日蓮仏法はロックだし、日蓮仏法者はロックな生き方をしてる。
A rolling stone gathers no moss.
【2006/07/12 08:42 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
『この人を見よ』
僕は今、ニーチェ『この人を見よ』を読み終えて、
一人で勝手にエキサイトしている(笑)。


道徳の定義、道徳とは----生に復習しようとする底意をもち----そしてそれに成功したデカダンたちの病的性癖である。(ニーチェ「この人を見よ」より)


かつてアンチは、弱い者をさらに弱くするのが、
創価学会であると言った。だから悪であると。
犀の角となり一人強く歩むべきである、と。


なるほど、学会にそういう側面はあるかもしれぬと思い、
かつての僕は、創価学会が人を弱くするのなら、
そうではない強い哲学を唱える者であるアンチとして
存在しようと思ったわけだ。
ところが、実はこれは間違いであり、僕は勘違いしていた。
アンチは弱さの哲学を唱える者であり、
その弱さゆえに創価学会を否定し、
強き者を味方につけるための方便として、
「創価学会は弱い者をさらに弱くする」
という、ウソをついていたわけだ。


僕はどのポジションにいたとしても、
人間は強く生きようとするべきだと思っている。
僕は生の哲学を持ち、現実から離れない、
生き生きとしたディオニュソスでありたい。
理想主義や道徳主義はくそくらえだ。


もしアンチが、ニーチェのように宗教を否定し続け、
高みへ登る哲学を示し続けていたのであれば、
きっと僕はアンチのままでいたのだろうと思う。
弱さを肯定し、より高みへ登る強さを放棄した時点で、
アンチは創価学会に敗北したのだ。
アンチのご立派なお説教は、
すべてデカダンから発するものであり、
ルサンチマンであったことを告白したのである。


アンチが創価学会を教会の権威とみなし、
ツァラトゥストラであり続けたのなら、
僕はアンチを否定し攻撃することはなかったろう。
「我らこそが高みに登る者だ」
アンチにはそう言い続けて欲しかった。
高みに登ることを然りと言い続けていたならば、
僕も彼らとともに歩み続けられたのではないか。


もし弱さの哲学を肯定するくらいならば、
百歩譲って口先だけだとしても創価学会の方がマシなのだ。
学会員の方がよっぽど強く生きようと努力している。
今やアンチは弱さのぬるま湯に浸かって、
傷を舐めあってるだけではないか。
傷つくことを恐れるあまり、生の本能を捨て、
いわゆる仏教の権威を借り、弱さを正当化する。
心を閉じて殻に閉じこもり、
今ある大切な生をないがしろにしてる。
すなわち生命力を自ら捨てているのだ。


善人という概念においては、すべての弱者、病人、出来そこない、自分自身を悩みとしている者、つまり破滅してしかるべき一切のものが、支持され、----淘汰の法則がはばまれ、誇りに充ちた出来のよい人間、肯定する人間、未来を確信し、未来を保証する人間に対する否定が、理想として祭りあげられ----そういう立派な人間がいまや悪人と呼ばれることになる……しかもこれらのこと一切が道徳として信奉されたのだ!----このけがらわしいものを踏みくだけ!----(ニーチェ「この人を見よ」より)


いいなぁ。うっとり…(笑)。
【2006/07/10 18:00 】 | オススメの本とか | コメント(25) | トラックバック(0) | page top↑
同志の失敗を内外に言いふらすことについて
創価学会の活動っていうのはスポーツみたいなもんじゃないかな。
創価学会って一つのチームだと思うんだけどな。
つまりサッカーチームみたいな。
活動家というのは一人ひとりが
ピッチに立っている選手みたいなもんでしょう。


広宣流布という勝利のために、
チームメイト同士で協力しながら敵陣のゴールを目指すわけです。
ドリブルしたり、パスしたりしながら力を合わせて戦うわけでしょう。
チームメイトがミスしたら「ドンマイ!」と言って励ましあう。
それがチームワークってもんだと思うよ。


時には、敵の選手に強く当たりすぎて、
イエローカードもらっちゃう場合もある。
時には、オウンゴールしちゃう場合もある。
そんな時、同じチームメイトなのに、
ミスした選手を責めたらどうなっちゃうか。
なんとなくチームにおかしな空気が流れ、
萎縮して力を出せなくなっちゃう。


試合中は勝つことだけを考えて、
チームのマイナスになるようなことをするべきじゃない。
誰かがミスを犯したとして点を入れられたとしても
「ドンマイ。勝負はこれからだ!」と肩を叩き、
ともに奮起するのが正解でしょう。


創価学会というチームも学会員という選手も同じだと思う。
そりゃあ、技術が追いつかない者が、
イエローカードもらっちゃうような迷惑をかけちゃったり、
オウンゴールみたいな、あちゃーってこともやっちゃったりする。
それを同じチームメイトが、
「あいつのイエローのせいで負けそうだよ」とか、
「あいつの自殺点でピンチになっちゃったじゃん」とか、
「監督の指揮がダメなんだよ」とか、言うわけだ。
それってチームメイトとしてどうよ? ということなんだわ。


仮にたとえ点差が開いていたとしても、
最後の一瞬まで勝利を信じて戦うべきじゃないのか。
それを「もうこのチームはダメだよ」「この試合はダメだよ」なんて、
悟ったような弱音を吐くのは選手としては間違ってると思う。
あんたは解説者か、と。


学会員はずっと試合中じゃないかな。
学会に関係のない人が見ている場所は、常に試合中だろう。
内外のいろんな人が見ている場所で、
同じ志を持つものをけなしたり、
創価学会はおかしくなってるとか、
池田名誉会長亡き後は崩壊するとか、言ったりするのは、
試合を放棄しているのと一緒だよな。


ゲームの運びに不満があるなら、
内部での作戦会議のときにやっとけってことなんだわ。
作戦会議で納得出来なかったからといって、
試合中にふてくされて、味方を罵ったり、
相手方にパスしたりする人がいるわけだ。
そういうのは見苦しいし、チームメイトに迷惑だから、
最初からピッチに立たなければよかったんじゃないか?


組織の活動から見れば、
僕は一サポーターみたいなもんかもしれないけど、
誰を応援し同情するかと言えば、
監督やチームメイトを信じて、自分のチームの勝利のために、
息を切らしながらピッチを走り回ってる選手だな。
【2006/07/09 12:00 】 | 未分類 | コメント(20) | トラックバック(0) | page top↑
『いわゆるA級戦犯』
小林よしのり『いわゆるA級戦犯』を読んだ。
まあ、靖国神社は一宗教法人に過ぎないし、
靖国神社の「分祀」の解釈を、現代において、
靖国神社の外部に通用させるには
無理があるだろうとは思う。
小林よしのりの靖国神社観、神道観に関しては、
諸手を挙げて賛成するわけじゃないけれど、
日本のため、アジアのために戦った
先人を尊敬する気持ちは理解出来る。
言っとくけど、
僕は小林よしのり信者じゃないからね(笑)。


僕はいわゆる東京裁判に対して、
徹底的に調べようなんてことはないけれど、
興味を持ち続けてはいるので、
いわゆるA級戦犯のプロフィールを
わかりやすく再確認出来ておもしろかった。
あの戦争や戦前戦後のこと、
プロパガンダというもの、
アメリカという国、
日本という国、
アジアと欧米、
一国のリーダーのありかた、
日本のこれからのありかた、
そして宗教というもの…。
そんなことを考えるためのきっかけとして、
『いわゆるA級戦犯』はオススメです。


東条英機って、ものすごく評判が悪いけれど、
やっぱり同情する面は大きい。
官僚は官僚だったのだろうけど、最後には
覚悟を持って使命をまっとうしたと言えないだろうか。
広田弘毅なんて、とばっちり受けただけじゃないか。
気の毒としか言いようがないよ。


そういや、NHK大河ドラマ『山河燃ゆ』の原作である
山崎豊子『二つの祖国』を読んでみるのもいいよ。
これは「二世」ということを考えさせられる。
アメリカに渡った日系二世三世の戦時中の苦労、
東京裁判の欺瞞、そして原爆。
苦しむのはいつの時代も末端…。
もちろん小説だけれど、オススメです。


さらにそういや、この『東京裁判』っていうDVDを観て、
A級戦犯として裁かれる被告の面々の素顔を見ながら、
素直に「立派だよなぁ」って思ったりもした。
そうそう、大川周明の、東条の禿頭ペチンも映ってるよ(笑)。


僕自身も、一度は国粋主義的に揺れたけど、
現実的には、今はもうアメリカ51番目の州に
なるしかないんじゃないか、なんて思ってる。
ポチだけど、ポチのまま朽ち、朽ちたら、
そうなったときに考えるしかないんじゃないかと。


日本の立派な精神は、アメリカによってもう既に、
100年かけて壊されちゃったんじゃないか。
僕の中に、立派な日本人はもう居ないんじゃないか。
アメリカ流の浅はかな個人主義はいるけれど。
それはみんなも同じじゃないか。


たとえば、政治のフィールドだけに限らず、
経済のフィールドにも、文化のフィールドにも、
「日本人の誇り」を持ったリーダーは
もう一人もいないのではないか。


明治の志士にも、いわゆるA級戦犯にも、
戦後のモーレツ世代にも、
申し訳が立たないけれども、
僕らは性根までアメリカ流に腐ってる。
命をかけて守るべきものも、
蹂躙されて怒りを感じることも、
僕らは失ってしまったんじゃないか。


守るべきものを取り戻せ!なんて、
言えないよ、もう。
地域社会だって、家族だって、
もう壊れちまってるんだ。


…創価学会くらいしか残ってないんじゃないか?
なーんんてね(笑)。
【2006/07/06 14:22 】 | オススメの本とか | コメント(17) | トラックバック(0) | page top↑
面の皮の厚さ
面の皮の厚さって一つの能力よね。
面の皮が厚いだけで、まず合格点だわ。
ホント、みんなどっかで身につけておいて欲しいって思う。


正直な話、傷つきやすい人って苦手。
怒られても次の瞬間にはケロッとしてるヤツの方が
つきあいやすいし、一緒に仕事もしやすい。
いつまでも萎縮してたりウジウジするヤツは、
すごい気を遣わなきゃなんないし、やりにくい。


悪い言葉で言うと「面の皮が厚い」だけど、
良い言葉で言うと「へこたれない」という感じ。
同じ失敗繰り返して、毎回怒られるんだけど、
一瞬は落ち込んだとしても、すぐに元気になるヤツが理想。
いちいちどんより落ち込んで、いちいち自分を責めて
ずっとしょぼくれてるヤツには、そのうち何も言いたくなくなる。


あ、もしかすると、いちいち自分を責めるヤツって、
実は他人に何も言われないようにするための作戦?
だとしたらズルイよなぁ。
それで周囲まで陰気にするんだもん。


創価学会って、面の皮の厚さも訓練してくれるよね。
そういうところで実戦向きなところがあるよなぁ。
池田名誉会長は、昔、金貸し屋の営業やってたんだから、
面の皮の厚さも心臓に生えてる毛も相当なもんだと思うし、
僕は、彼のそういう側面からも学びたいとも思うな。


そもそもリーダーなんて、
心臓に毛が生えてるくらいじゃないと、鬱病になっちまうよ。
矛盾をズバッと割り切って決断しなきゃならんのだから。


学会員なら、池田名誉会長の立場になって考えてみー。
「今、学会は間違った方向に進んでいる」
なんて、簡単には言えないと思うぜ。
それとも、池田氏に替わって自分がリーダーだったら、
いわゆる正しい決断が出来ると思ってるのかな? 
だとしたらスゴイ自信だよね。
たいへん面の皮が厚いと思います。
【2006/07/04 12:54 】 | 未分類 | コメント(22) | トラックバック(0) | page top↑
日蓮仏法定食
今日、ラーメン屋のカウンターで、
チャーハンを食ってたんですけどね。
隣にやってきたおっちゃんが、
「マスター、今日は何?」と聞いていた。
マスターは「今日はナスだね」と答え、
おっちゃんは「じゃあそれ」と注文する。


こんな会話から、ふと連想がはたらく。
決めてもらうのって、とってもラクなのよ。
複数の選択肢がある中で、一つに決めるということは、
なによりも一番エネルギーの要ることだと思う。


さあ、ここから創価学会に繋げますよ、僕は(笑)。
創価学会の本意というのは
「自分なりの哲学を持ちなさい」
ということだと思うんだ。
自分を取り巻く世界との距離を測り、判断し、
行動するための、自分なりの尺度を持ちなさい、と。
創価学会の書物を読んでいると、僕はそれを感じるんだな。
「日蓮じゃなきゃダメ」なんてことが本意じゃない。
世の中の一人ひとり、すべての人が自分なりの哲学を持ち、
それを基準にして、自分なりの幸せをつかみなさい、と言ってる。


自分なりの幸せがわからない人に対して、
たとえばこんな哲学がありまっせ、という風に、
オススメしているのが日蓮仏法なだけです。
だから、日蓮仏法じゃない哲学を使って、
既に幸せ状態であるのならば、
創価学会は無理に日蓮仏法を薦めない。
だって創価学会は「信教の自由」を認めているのだから。


学会員は、日蓮仏法を使って、自分を取り巻く世界を測る。
それによって、あらゆる現象あらゆる物事を、
全て幸せと感じられるように変換していくわけだ。
これを変毒為薬とも言うし、絶対的幸福とも言う。
外から見て「あんたそれは不幸だよ」と思われても言われても、
自分自身で「よし、難がきた」と覚悟を決めて取り組もうとする。
馬鹿だといわれようとなんだろうと、無敵の楽観主義だ。


本当の学会員は、生きているだけで幸せなんです。
どんな辛いことだって、喜びに転換していく強さを持ってる。
そういう強さの哲学を、創価学会は提唱しているだけなんだ。


だから、日蓮仏法以外の他の哲学を使って、
自分なりの幸せをつかんでいる人には折伏なんてしない。
生きていることの全肯定が出来ているならば、
それは日蓮仏法となんら矛盾しない。


逆に「生きることが辛い」「死んだ方がマシ」、
そんな風に思ってる人がいたら折伏したくなる。
「生まれてきてごめんなさい」と思っていたり、
「世の中は一切皆苦」と思っていたりすれば、
それは全然違うぞ! 間違ってる! と強く言いたい。
「あの世に行けばこの苦しみから逃れられる」
なんていう哲学も、声を大にして破折してやりたくなる。
折伏というのは、こういうことだと思うんだよな。
死に至らしめる思想や、自虐に至らしめる思想は、
断じて違うぞと言い切ることだ。


学会員じゃなくたって、日蓮仏法を知らなくたって、
自分の生を、生き生きと楽しんで、思いっきり生きてる人がいる。
たとえば念仏信者でもそういう人がいる。
そんな人にに対しては、創価学会も日蓮仏法も必要ない。
というよりも、その人は既に日蓮仏法を体得してる。
折伏なんて必要ない。


だぶんその人は、紆余曲折しながら生きていく中で、
自分なりの自分の幸せ哲学を作り上げてきた人なんだと思う。
誰かに教えてもらうでもなく、決めてもらうでもなく、
自分で決めて自分で歩いてきたのだろう。
実はこれが自分で出来てる人は、
創価学会なんて必要ないんですわ。


ちなみに、上記のような生き生きとしている人と
本当のまともな学会員は、思想は違ったとしても対話は噛み合う。
池田氏と他宗の人との対話のように。


そしてこの界隈を見渡す限り、
確固とした幸せ哲学を持ってる人って、そんなに多くない気がする。
みんな自分のことを「不幸だ不幸だ」って言ってる気がする。
「不幸だ不幸だ」「つらいつらい」って言ってるから、
「じゃあ創価学会の哲学でもどう?」ってオススメしたくなる。


さて、ラーメン屋のことなんだけど、
数あるメニューから、自分の食べたいものを
決めることが出来る人、もしくは、
自分で決めないと気が済まない人は、自分で決めたらよろしい。
迷いながら選べばいいんですよ。
不味かったら、次は他を選べばいい。
でも、なんか食った方がいいとは思うよ。
決めるのが面倒だったら、ラーメン屋のオススメでいい。
創価学会のオススメする定食は、日蓮仏法定食なわけです。
ニンニク入りで栄養満点ですよ。
いいじゃんそれで。ラクチンだよな。


…うーむイマイチw
哲学と定食はさすがに無理があったなw
【2006/07/03 17:12 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
今日はサービスショットだよ
shouhondo_ss.jpg


今はなき大石寺の正本堂でのワンショット。
「久遠之灯」って書いてあるね。
伯母さんが行くのに連れだって、
一度だけ母親と弟とで行ったことがあります。
中央、顔にモザイクがかかってないのが、
小学3年せいくらい(かな)のgizmoさんです。
はじめてネットで晒す素顔(笑)。
かわいいですね(ぉぃ)


学会員にはこんな思い出があるんですよ。
大石寺の正本堂は、
創価学会の誇りとして、新しい平和のシンボルとして、
世界広布がここから広がっていくという手応えがあった。
それは非現実的かもしれないけれど、夢があり希望があったのだ。


だけど、これを壊された。
我らのシンボルを壊された。
僕の母親なんかは学生の頃、部活で腹を減らして帰るとき
楽しみにしていたおやつのパンを我慢しコツコツ貯金して、
正本堂のために寄付したわけですよ。
それを跡形もなく壊された。


僕は、実際にお金を貯めて寄付した世代ではない。
だけれども、泣いても泣きたりないほどの
悔しい気持ちが僕にはわかる。
その怒りを持ち続けちゃいけないのだろうか。
静かに胸に秘めてなくてはならないのだろうか。
思い入れを持っていたものを壊された怒りを、
表現し続けてなにが悪いのだろう。
「この畜生! 日顕め! ドブネズミめ!」
そう吐き捨てたくなる気持ちは、僕にはわかる。
庶民だからこそ、民衆だからこそ、
こんな最上級の罵詈雑言でしか表現出来ないものがある。
上品なままでは伝えられない空気がある。
そして、これは言い続けなくてはならないと思う気持ちが、
理解出来る僕は、そんなにおかしいだろうか。


確かに部外者は不快感がつのるかもしれない。
「仏法を信ずる者としていかがなものか」
などとわかったような顔で言い放つ学会員も居る。
知りもしないくせに、子供の教育に悪いとか、
そんな正論を振りかざしているんじゃないのか。


そりゃ物に執着するのは仏教的ではないさ。
弘安二年の本門戒壇の大御本尊にも執着するわけにいかないさ。
モノにこだわるのは寺信心だからね。
もちろん今は、僕の心の中に正本堂も大御本尊も入ってる。
でも、この悔しかった気持ち。
僕らはずっと、持ってなきゃいけないと思うんだけどな。
間違ってるのかな。
もちろん諸々の宗教間で、こんな気持ちが消えないから、
世界での悲しい戦争は起きているのだけれど。
だからといって「忘れろ」というのもどうかと思うんだな。


そもそも成人してから再度、創価学会に接して疑問に思ったことは、
「あの正本堂ってなんで壊されたの?」ということだった。
そこから宗門問題を学んだりしたのだけれど、
結局、宗門と学会で双方の言い分が食い違っていて、一度は僕も、
どちらの言い分が本当なのかわからないという結論を出した。
宗門の情報戦略もあり、もちろん学会の情報戦略もあるだろう。
「醜い依存関係」だとアンチ流に納得した。


だけど。
日蓮正宗の針金教的側面を見直そうという創価学会の姿勢を
宗門がつっぱねた結果じゃないのかなと、今は思う。
「一方的に破門した」というのは事実と言っていい。
少なくとも対話のテーブルについて、
議論する事実がなくてはならなかったんじゃないか。


もちろん、壊した当時は既に日蓮正宗宗門の持ち物で、
可処分権は宗門にあったのだから、そのまま使おうが
壊してしまおうが宗門の自由だったのだろう。


でもね。
心情的にどうよ?
壊さないで欲しいと思う人間の気持ちは無視。
いや、わざわざ逆撫でするように壊したわけだよ。
正本堂を壊した所行は、確実に悪だと断じてよくないか?


もうこれからは、正本堂を知る人も、大御本尊を知る人も、
さらにどんどん少なくなっていくのだけれど、
だからこそ、あの怒りを忘れちゃいけない、
その怒りの空気を伝えていかなきゃいけない。
そんな風に思うのってそんなに悪いことなのかな?


現に僕だって、こんな写真でも出てこなければ思い出せないんだ。
もちろん、壊されちゃったもんはしかたない。
前向きに前進するべきだよ。
でも、聖教新聞での評判の悪いあの口調は、
根底にこういう怒りの気持ちがあるということを、
せめて内部の人間ならば、
共感することが出来てもいいんじゃないかな。


もちろん普段は、聖教新聞で見かけるたびに、
「まーた下品な言葉つかってやがるなー(苦笑)」
って、僕自身も思っちゃうんだけどね(^^;


あ、ヘビーなこと書いちゃったけど、
写真についてだけとかでも、気軽にコメントしてね。
特に最近コメントしてくれない人、よろしく(笑)。
【2006/07/01 21:58 】 | 未分類 | コメント(14) | トラックバック(0) | page top↑
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