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自分の場所で戦ってることに誇りを持て
どんな場所にいても、どんな境遇にあっても、
信心してる人は偉いと思う。
信心するってことは、戦うってことだ。
組織について活動していようがいまいが、
自分の場所で日々戦っているなら、それは信心してると言える。
戦いの相手は他の誰かかもしれないし、自分自身かもしれない。
なにかと戦っているなら、自分を卑下する必要なんて全くない。


心ない学会員の言葉なんて聞き流していい。
組織について活動していない学会員だって、
堂々と胸を張って自分の意見を持ってていい。
萎縮する必要なんてない。
言いたいことを言っていい。


「あの人はちゃんと組織について活動してないから…」
そんな風に同志を見下す学会員は、いってみれば「内部アンチ」だ。


活動していても学会員、活動してなくても学会員。
新聞啓蒙してなくても、公明党を推してなくても、
折伏してなくても、財務してなくても、学会員は学会員だ。
だいたい絵に描いたような完璧な学会員なんて居ない。
そんなの池田名誉会長くらいなもんだ。


学会員は誰もが悩み苦しみながら、戦っている。
組織の内外で一所懸命に戦っている。
だから、そんな地道な戦いをしている人を、
小馬鹿にするような人を許せない。
この怒りを捨てろという人があれば、
彼は菩薩になりすました畜生だと思う。
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【2006/08/26 17:34 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
惑星だと思ってたっていいじゃん
僕は保守派の右翼だからw
「冥王星は惑星のままにしといてやれよ」って思っちゃうわけ。
御書全集に偽書があるって指摘する人にも、
「本物だと思わせといてやれよ」って思っちゃうわけ。


合理性より、人の心の方が大事だろって思う。
真実は、一人ひとりの心の中にあるんだ。
「水金地火木土天海冥」と言い張る人を、
指摘してバカにしたくないなあ。


もっといえば、たとえば今時、天動説を信じている人は、
かっこいいとすら思うよ。
自分の目で見たものを信じるとすれば、
天が動いていると思って当然だもの。
もちろんそれでも地球は回っているけれど。


神様は存在しないとか、
罰も功徳も存在しないとか、
優等生ヅラして言ってるヤツには、
ドロップキックをお見舞いしたいよ。
【2006/08/26 10:39 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
気持ちいいなら
ふと思った。
内部アンチの人って、朝晩勤行してるのかなあ?
ちゃんと題目あがってるのかなあ?


そして毎日を生きることに、面白さを感じているのかな。
楽しいなあ、うれしいなあ、と感じながら生きてるのかな。
彼らがそう感じて生きてるんだったら、それでいいや。


自分のしている言動が本当に正しいと思っていて、
心苦しいことがないならば、それでいい。
自分を苦しめていなければ、それでいい。


自分の心の声に耳をすまして、
今やっていることが、気持ちがいいならやればいい。
気持ちがわるいならやめればいい。
【2006/08/24 11:07 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
敵は内部なんだよなあ
最近「敵は内部だよ」という言葉の意味がだんだんわかってきた。
外部のアンチの人が、裏付けの出来ない情報を根拠に、
創価学会を貶めるようなことを言うのは当然だからもう慣れたし、
そんな情報を読む力のない人は可哀想と思うだけのことなんだけれど、
内部のアンチの人が、学会に所属しながら
学会内部のプライベートな情報を垂れ流すほうが
よっぽどたちが悪いし、対処が難しいものなんですね。


人と人とがふれあってぶつかりあう場所が組織だから、
そこで嫌な経験をするのは当たり前のことだろうけど、
それを当たり前ととらずに、「問題」と捉える人がいる。
学会組織の内々、人と人との間で解決するべき「問題」を、
あたかも日本の社会問題のようにすり替えて、
外部に宣伝して外部に味方をつくろうとする。


信仰的な見方をすれば、
「三障四魔紛然として競い起る」
としか言いようがないわけだが、
信仰的な方便を使わずに表現するなら、
やっぱり人間の弱さがそうさせるのだろうな。


うん。
「魔」というのは、「人間の弱さ」のことだな。
「あなたは魔に犯されている」というのは、
「あなたは弱さに犯されている」ということだ。


僕は、人間は弱いままで良いなんて思わないから、
強い人間という理想を目指して努力するべきだと思う。
そう思う僕の言説が、弱い人にとっては冷たく映る。
弱い人に対しての同苦がないように映る。
もちろん僕も弱さを持ち合わせているから、
少なくとも言葉だけでも、強いことを言っていたいと
思うだけなんだけどな。
そうやって、自分自身を叱咤激励している。
言葉に出して、僕も僕に縁する人も、
みんなで上を目指そうとしてる。


「上も下もない」「弱くてもいい」
そんな価値観を示そうとする人も多いし、
そう唱える人にとっては、僕の言葉は邪魔なのだろう。
でも僕はあくまでも、人間は上を目指すべきだし、
弱くては駄目だと思う。
すべての犯罪は人間の弱さがひきおこすものだからだ。


「敵は内部」という言葉の意味は、
「学会組織の内部」ということももちろんのこと、
「自分自身の内部」ということもある。
学会員の誰もが一人の人間として、
その内面にいわゆる「内部アンチ」が潜んでいて、
その命が強くなれば、誰かの賛同が欲しいがために
志を同じくする仲間の迷惑も考えず、
外部に都合のいい攻撃ネタを提供してまわる。
その深層にある心理は「自分は悪くない」と自己弁護するためだけの、
自分勝手な弱さと断じてよいと思う。
外部のアンチから賞賛されることに酔っていると言ってもいい。


組織内部のいわゆる「問題」に火をつけてまわって、
「私は内部のこんな問題点を知っている」
というように世間に宣伝するのは、
自己の虚栄心を満たす行為にほかならない。


それによって、組織は法的な理論武装をしなければならなくなる。
そして結果的に、一人ひとりの学会員の
血の通った暖かさを奪うこととなる。
内部アンチは、その引き金を引いていることに気づいていない。
気づいているんだとすれば、無慈悲な畜生だ。


内部アンチには、ときに「革新派」「改革派」というような
自己正当化の冠がつく場合もあるから、
これが気づかないことの要因の一つだな。


僕は、多分右寄りの保守的な傾向性があるから、
創価学会組織を壊したいなんて思わない。
ルールで縛られ人間の血の通わない組織にはしたくないし、
もちろん組織の自浄作用も含めてのことだが、
今の学会組織のありかたが正解だと思う。


創価学会は妙法に守られているとか言うけど、
妙法というのは、矛盾を抱えた一人ひとりの人間の、
血の通ったぶつかりあいであり、現場で一人ひとりが
当事者となって問題解決に挑むことだろう。
それが民衆の力というものだし、
民衆の力を妙法と呼ぶのだと思う。


この妙法の力、民衆の力を信じられない人が、
外部の圧力に頼ろうとする。
それは、自国の内戦を解決出来ないからといって、
外国の軍隊を導き入れることに似ているように思う。
それが自分たちの福祉につながることは絶対にない。
なぜなら、外国は外国の思惑を優先させるからだ。
内部アンチは、自分の力が及ばないことを棚上げして、
外部の力を借りて解決しようとするわけだが、
外部は外部の思惑を優先させるものだ。
それが結果として民衆の力を分断し壊すことにつながる。
つまり信仰的タームを使えば「破和合僧」なわけだ。
【2006/08/20 11:02 】 | 未分類 | コメント(14) | トラックバック(0) | page top↑
エヴァンゲリオンと学会員とアンチ
久しぶりにパチンコに行って、
「エヴァンゲリオンセカンドインパクト」を打ったら、
一万円勝ちました(笑)
というわけで、エヴァからの連想でつれづれに書いてみる。
エヴァってもう十年前なのよね…。


ATフィールドというのは心の壁のこと。
学会員はATフィールドを力ずくでこじあける者。
心に傷を負った者ほど、ATフィールドは強い。


アンチのATフィールドが頑丈なのは、
それだけ心に傷を負っているから。
アンチのメンタリティは、アスカやシンジみたいなチルドレンと同じ。
アスカもシンジも幼少時の経験が、性格形成に影響を及ぼしている。
アスカは首を吊った母親、シンジは父親に必要ないと言われたこと。
そんなトラウマゆえに心の壁をこじ開ける者に対して拒否反応を示す。


トラウマは、外部からの圧倒的な力によって壊されるときがある。
それを否とするのはアンチ(拒否反応を示すから当たり前だが)。
それを是とするのは学会員。
学会員はエヴァであり、使徒である。
誰かの頑なな心を、力ずくでこじ開けることを「折伏」と呼ぶ。


自分内の人類補完計画は、いわゆる「人間革命」。
すべてのATフォールドを解き放つこと。
自分を自分たらしめるものは自他の境目(ATフィールド)であり、
これを消滅させることは、すなわち死である。
極端に言えば、皆殺し。


自分のATフィールドを解き放つことで、
それを維持するためのエネルギーを節約することが出来る。
また、境目がないため、他の痛みを自分の痛みと感じることが出来る。
これが自然体と呼ばれる状態。覚りと言ってもよい。
「同苦」というものはしようと思ってするものではなく、
結果として自然と感じるものである。
【2006/08/19 23:45 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
「君が代」って軍国主義?
別に安倍晋三に思い入れがあるわけではないが、
安倍晋三『美しい国へ』を読んでみてる。
ちょっとハッと思わされることがあったので、引用する。


「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。
 アメリカ国歌に、「星の輝く旗は、まだはためいているか?」と、問いかける一節があるのをご存じだろうか。独立後の一八一二年に起きた米英戦争の際、激しい攻 撃を受けながらも砦に星条旗がはためく光景を歌ったものだ。
 戦意を高揚させる国歌は、世界にはいくつもある。独立なり、権利なりを勝ちとった歴史を反映させようとするからだ。フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」は、はじめから終わりまで「暴君の血に染まった旗が、われらに向かってかかげられている」「やつらがあなた方の息子や妻を殺しにくる」と、烈しい言葉がならび、最後は、「進め! 進め! 汚れた血がわれらの田畑を染めるまで!」というフレーズでしめくくられている。



他国の国歌に興味を持ったので、ちょっとググってみたら、
こんなサイトをみつけた。


http://inouen.at.infoseek.co.jp/anthem/word/

「国歌の歌詞と日本語訳」


http://inouen.at.infoseek.co.jp/anthem/word/usa.html

「アメリカ合衆国」


http://inouen.at.infoseek.co.jp/anthem/word/france.html

「フランス共和国」


なるほど。世界の他国の国歌のスタンダードというのは
このレベルにあるのか、と僕は思った。
だったら、「君が代」のどのへんが軍国主義なのか疑問だわ。
つまり君が代否定論者は、やはり天皇制否定論者なのかね。
「君が代」が軍国主義だというのなら、
世界のほとんどの国が軍国主義だな。


しかし、どこの国歌も宗教色はあるもんだねぇ


アメリカにおいて、アメリカの国歌に
「God」という単語が入っていることを理由に、
国歌を拒否する無神論者のアメリカ人というのは、
まあ、そりゃあ人種のるつぼだからいろんな人はいるだろうけれど、
普通に「おかしな人」「偏った人」なんじゃないか。


日本人って、あれこれアレルギーを抱えすぎだ。
「国」にもアレルギー「軍備」にもアレルギー、
そして「宗教」にもアレルギー。
僕は無国籍主義者を信用しないし、非武装主義者も信用しない。
そして一番信用出来ないのは、無宗教を標榜する人だな。
【2006/08/16 13:57 】 | 未分類 | コメント(15) | トラックバック(0) | page top↑
学会がこれ以上分裂して欲しくはないなあ
たとえば、共産党員でもなんでもない僕が、
共産主義や学生運動について知ろうと思って調べると、
中核派とか革労協とか革マル派とかいう派閥が出てきて、
それぞれの考え方とか指導者とかを、
ちゃんと立て分けて把握しようかと思うかといったら、
そこまでの興味がなくて、途中でイヤになってしまう。
大雑把に「ああもういいや、はいはい共産党ね」と括ってしまうわけだ。
ところが、たとえば学生運動に関わった人だったり、
共産党員だったりすれば、そこには明確な違いがあり、
一緒くたにされるのは迷惑だと思うのだろう。


そこで、創価学会の文脈に持ってくるわけだが、
日蓮正宗系についても同じだろう。
創価学会であろうが、日蓮正宗宗門であろうが、
顕正会であろうが、正信会であろうが、
外からみたら一緒くたなんだよね。
「学生運動の内ゲバみたいなもんだろ」と思っちゃう。
内側にいる人からみれば、
「全然違う。あんな暴力集団と一緒にしないでくれ」
と、多分それぞれが思ってるわけだけれども。


さて、たまにはアンチとも言われかねない邪推をしてみる。
今、信濃町が「師弟不二」「異体同心」を強調するのは、
これ以上、外からみた「内ゲバ」を
起こさせないためってのもあるかもな。
邪推だけれども、組織論的にみたときには、
創価学会の上層部は一枚板じゃないかもしれん。
それぞれやっぱり思惑があるものなんだろう。


で。
インターネットってのは、ハンドルネームを使うから
言ってみれば匿名なんだよね。
僕の文章も含めて、なんの担保もない怪文書なんだわ。
現在のインターネットの情報というのは、
そういう意味で、砂上の楼閣だと思ってたほうが安全だな。
もしかしたら、一枚板ではない上層部の誰かが、
ネットの住人を煽動するためにもっともらしい情報を、
まき散らしていないとも限らないわけ、まあわからんけれど。


信濃町発の煽動のための情報ってのは珍しいもんじゃない。
古くは「池田名誉会長は日蓮の生まれ変わり」という説とかね。


まあ、僕らにとっては創価学会の主導権なんてどうでもよくて、
大切なのは民衆である学会員一人ひとりなんだよなあ。
結果的に破和合僧になれば、トリガーを引いた人は仏敵だとは思うわ。
今のところ池田名誉会長を長としてまとまってるのが妥当だろうな。
【2006/08/09 11:18 】 | 未分類 | コメント(6) | トラックバック(0) | page top↑
価値を創造すること
最近、創価学会から思うのは、
いつまでも「池田先生池田先生」と指導者に頼るな。
いつまでも「創価学会は安全地帯」と組織に頼るな。
「池田先生」「創価学会」に頼らなくても生きていけるなら、
自分なりの仏法を掴んで、創価学会の組織に拘らず、
どんどん外に飛び出して、自分なりの実証を示せ、
自分なりの幸せをつかめ、って言ってる気がする。


中で学会精神を発揮するのではなく、
外でこそ学会精神を発揮せよ。
それが学会っ子の使命だ。
君が幸せになり、君の周囲も幸せにすることが、
なによりも一番の広布だ。
そんなメッセージを感じるな、僕はね。


まあ、異論はあるでしょうが、
僕は、本気でそんな風に思っているのです。


組織の内部で戦うよりも、実際の社会で戦うほうが大変だもの。
そして、内部での訓練は、外で戦うためのものだもの。
内部で戦っているからといって、それだけが偉いわけじゃない。
気づいた人から、内部寄りから外部寄りになっていく。
組織にぶらさがってるってことは、頼ってるってことですよ。


もちろん敢えて組織に留まる志願兵も必要だと思うよ。
志願することが幸せなら、志願すればいいことだ。
幸せを感じて命を賭けて活動すればいい。
活動家は奉仕の心で、守るべき一人ひとりの会員に対して
「奴婢と為つて持者に奉えよ」でいればいいと思う。


でもその人その人によって、価値は違うだろう。
自分なりに価値的な判断をして、自分なりの価値を作り出すこと。
誰になんと言われようとも、それが価値創造であると僕は思う。
価値創造の前には、日蓮仏法ですら方便であり、
言ってしまえば、日蓮仏法なんてどうだっていいと思うよ。
それが「創価学会」という名前の意味だと、僕は思うんだ。
【2006/08/09 09:56 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
当然のようにアンチは減らないのよ
創価学会内部でしか通用しない「魔」という概念を使わずに、
アンチが減らないのはなぜかという問いに、僕なりに答えてみる。


アンチが減らないのはなぜかというと、
未熟な学会員が減らないからです。
学会の組織というのは、意外と流動性が高いんですね。
まともな人が出てった分、おかしな人が入ってくるんです。
僕はおかしな人といっているけれど、
悩みある人と言い換えてもいいかもしれない。
悩みある人はおかしな言動をする。
それはこの界隈を見渡してもわかるでしょう。


まともな活動家が、自分のいる組織がイヤになると、
たいてい、いわゆる学会活動から遠ざかるわけです。
「忙しい」とか「社会で実証」とか、なんだかんだと理由つけて、
組織と距離をとっていく(ありがちだよねぇ?w)。


それを避けるために、聖教新聞などオフィシャルの指導では、
「君の一念で、君のいる組織が変わる」と言うわけですが(笑)。
まあ、これは真実だと思いますけど、
今の世の中、そんなにヒマな人ばかりじゃない。
能力の高い人ほど忙しいし、
学会活動よりも価値的なことを外で見つけている場合が多い。
オフィシャル的には「両方やれ」って言うけれど、
イヤになったら平気で離れていきます。


その人がなにをやるかということは本人の自由なのです。
オフィシャルは個人を縛りつけられない。
「恩知らず」くらいのことは言うけど、
出来る人にとっては、屁でもない。
自分なりの恩の返し方があると思ってる。


創価学会の本意は「一人ひとりが幸せをつかむこと」ですから、
創価学会の訓練を受け、悩みなく幸せになってしまえば、
どんどん訓練を卒業していくものじゃないですかね。
そして、社会へと躍り出ていく。


もちろん、訓練を卒業するほどになっても敢えて留まる人もいる。
そういう人は、なかなかの人格者です。
創価学会には立派な人格者がひとりも居ないと言うのなら、
それはちょっとうがちすぎの見方ですよね。
まあ、へっぽこな人格なのに、卒業したくらいに勝手に思いこんでる
駄目幹部も居ますが(苦笑)。


さて。すでに学会の訓練が必要ない優れた人は、
社会で重宝され、いわゆる学会活動をやるヒマがない。
となると、未熟な人間だけで組織をつくるしかないわけですね。
組織は未熟な者ばかりになる。
未熟な学会員は、当然周囲に迷惑をかけます。
学会員に接して嫌な思いをした人が、アンチになります。


結局、アンチが減らないのは、こんな構図だと思いますよ。


オフィシャルとして出来ることは、
「迷惑をかけるな!」
と呼びかけるくらいでしょう。
迷惑をかけるおそれのあることは、禁止するしかない。
忘年会を禁止するほどのことまでやってるのに、
これ以上なにを呼びかけろと言うのだろう。


僕が創価学会を応援するわけは、
未熟な者たちの訓練施設になっているからです。
未熟な者は未熟なままでいてくれればいいや、
って思うのは無慈悲だもん。
おかしな人をまともな人に育てるのが創価学会の使命です。
それに、現代において、未熟な者たちを許し、
本体の組織が泥をかぶってまでも、
未熟な者の成長を待つという組織がみつからない。


組織の中の未熟な者が問題を起こしたら、
反省しておとなしくなってしまう組織ばかりでしょう。
創価学会は組織からしてめげない。
そのめげなさが一人ひとりの手本となってるように思う。
創価学会がシュンとしてしまえば、未熟な者もシュンとする。
シュンとしてしまえば、目の前の問題を解決しようという力は出ない
(まあ、アンチは創価学会に「シュンとしろ」と言ってるわけですが)。


おかしな人をまともな人に成長させようとすることは良いことです。
創価学会は法律的に悪いことをしているわけではないしね。
もちろん、未熟な者を成長させようとする中で、
人様に迷惑をかけたとき、その人が現場で謝ることは必要です。
でも、未熟ゆえに謝ることも不自由だったりする。
それを許せないというアンチの人が多いわけです。


僕は学会員を「ひいき」してるから、
「まあ、大目に見てやってよ」
とか言っちゃうわけですけどね。


未熟な者を成長させようとする良いことを、
妨げる働きを内部では「魔」と呼ぶだけでして、
単なる方便なんですよ。


創価学会は社会不適合者が適合者になるための組織なんです。
社会に適合する能力に障害を持つ
障害者と言ってもいいかもしれない。
言ってみれば、そんな障害者に鞭打つのがアンチという存在です。
そんなアンチって「魔」に犯されてるって言ってもよくない?(笑)
【2006/08/08 11:29 】 | 未分類 | コメント(17) | トラックバック(0) | page top↑
自由ということ
すごくシンプルに考えてさ。
やりたくないことを「やりたくない」と
言えないというのは、どこに責任があるのだろう?
「やりたくない」と言えない人にあると思いません?


ハッキリと自分の意見が言える人と、
ハッキリと自分の意見が言えない人。
どっちがまともな人だろう?
僕は、ハッキリと自分の意見が言える人の方がまともだと思う。
そして、世の中はまともな人に合わせるべきと思う。


ハッキリと自分の意見を言い、その責任を自分が取る。
それが自由ということだと思うけどな。
もしそんな自由が要らないというのなら、
価値観を為政者に支配される世界を望むということなんじゃないか?


まあ、自由を放棄する人の気持ちもわかるよ。
自分で自分のことを決断することが、
一番難しいことで大変なことだからね。
実は自由というのが一番厳しい生き方なんだ。
それが出来ない人が、自由主義の現代の世の中で鬱病になる。
【2006/08/07 23:24 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
一人ひとりが日蓮に
御書といえば日蓮大聖人のお手紙だけれども、
そんなやりとりというのは、
今の世でもやろうと思えば出来るものなんだな。
ネットでもメールのやりとりが出来る、
クローズドなサイトでもやりとりが出来る。


日蓮大聖人のようになりたいと思うのが、
大聖人の弟子と言えるんじゃないのか。
オフィシャルの場では、熱く激しく鋭い言説。
プライベートの場では、篤く優しく人によりそうことば。
態度の切り替えは必要なことだと思う。


御書の前半は法門編、オフィシャルなタイプの論文で、
御書の後半は御消息編、プライベートな手紙です。
この二つがあるから、日蓮大聖人は
バランスのとれた人物だったんじゃないのかな。


悪意を持ってみれば日蓮は分裂症とか言われるけれど、
そうじゃなくて状況にあわせて臨機応変に振る舞った結果、
あんな風にいろいろなタイプの文章が残ってしまった。
いろんな人のいろんな時に適切に対応したら、
絶対に矛盾が出てくる。
人間っていうのは、そのくらい矛盾多き生き物だと思う。
十界互具の人間だもの。


少なくとも僕は、現代の日蓮大聖人になりたいと思うなあ。
【2006/08/03 08:49 】 | 未分類 | コメント(19) | トラックバック(0) | page top↑
関係が途切れる場合
自分の近くに居て欲しいと思う人が離れていったときは、
必ず自分のどこかに問題があると考えるべきだし、実際にそうだ。
その人との人間関係を修復したいと願うのならば、
自分の中にある原因をみつけ(既にその人に指摘されているかもw)、
改善し、自らが関係を修復しようと働きかけをしなくてはならない。
ただし、それをしたからといって相手が許してくれるとは限らないが。


そこまでのことを自分がしないのなら、自分はその人のことを、
別に自分の近くから居なくなってもかまわない人だ思ってるということだ。
自分の近くに居なくてもいいと思う人が離れていったのなら、
悲しむ必要もないし、傷つく必要もない。どうでもいいことなんだよ。


でも、近くに居て欲しいと思う人が離れたときは、やっぱり、
すべては自分の振る舞いだと、自分を省みるしかないだろうな。
【2006/08/02 15:36 】 | 未分類 | コメント(6) | トラックバック(0) | page top↑
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