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四苦八苦と文章表現
文章というものは、
「私はこのように不幸である」ということを
表現するのに適したメディアかもしれない。
ふと、そんな気がした。
そもそも、メディアであることすら
気づかない人も多いかもしれないが。
人間は言語を使ってものを考えるのだけれども、
物事を正確に詳細に把握しようとすれば、
そのアラを過大に意識することにつながる。


「生きることは苦しみだ」と発見(?)することは、
人間にとって嬉しい発見ではないと思う。
なるほど、言葉を使って掘り下げれば、
なんのための人生かと思い悩むことにもなろう。
なにに焦点を当てるのかによって、
生きる姿勢というのは変わってくる。
今まで経験した辛いことに焦点を当てて、
そこから考えを展開して将来を予想すれば、
将来も辛いことが待ちかまえているという予想につながり、
お先真っ暗となりかねない。


生きることが苦しみなら、今すぐ死んでしまうことが
ラクになることであり、インテリがいくら「違う」と言っても、
論理的に矛盾しないではないか。
「生きるのが苦しい、死ねばラクになる、だから死ぬ」
なんの矛盾もない三段論法だ。


「そうじゃないでしょ」って僕は思う。
辛いこと、苦しいことに焦点を当てるから、
おかしな結果になるのだと思う。
言語を使って事象を結びつける中で、
「辛かった探し」をしちゃうんだな。
僕は「良かった探し」をしたい。
つまり「ありがとう」って言って生きたいわけ。
生まれてくることが苦しみであり辛いことなら、
その苦しみ辛さを呪うのが自然であるし、
その原因である両親をも恨むこととなろう。
僕は両親に対して、
「僕を生んでくれてありがとう」
という気持ちでいたいね。
僕を生んでくれたから、この世に生まれてきたから、
面白いことに出会える、たくさんの人と出会える、
喜怒哀楽を感じることが出来る、こんなに嬉しいことはない。
「生んでくれと頼んだわけじゃない」なんて言う人にはなりなくないね。


「生きることは苦しみだ」と釈迦とかいう野郎が言ったらしい。
そして、そいつはなんだか知らないけど宗教界の権威みたいだ。
釈迦が言ったから正しい、真実だと思いこみ、
したり顔でそんなお題目を振り回す人もいる。
俺からすると、そんなことがわかってなにか嬉しいの? って思う。
わかったわかった、じゃあどうすんの。
苦しい苦しいつまんないつまんない、
生きてるのだりー、って思いながら生きるのか。
それとも、神やら仏やら輪廻やらの概念を持ちだして、
カルマがどうの、罪障消滅がどうのと、
無理矢理こじつけて義務感で生きるのか。


理屈を理解できないこともないけどさ。
なんだかね、美しくない。
数式として複雑で美しくない。
なんだかんだ言って、あんただって生きたいって思ってるんでしょ。
だったら「生きたい」って素直に言えばいい。
なにが生きたいって思わせるかと言えば、
楽しいことを知っているからでしょう。
それならシンプルに、
「生きることは楽しいことである」
としたほうがシンプルで美しい。
釈迦に義理立てする必要なんてこれっぽっちもないんだから。
遠い過去の釈迦よりも誰よりも、
今そこに生きているあんたの方が大切ですよ。


まあ、そうは言っても、
苦しいことに出会わないことはない。
生きていれば苦しいことにも出会う。
愛する者との別れも経験することにもなる。
それを文章で表現し、ことさらに言語を使って
論理的に考えることで、苦しさは増すのではないか。
人の生き死にというのは
言語では割り切れない類のものではないか。
いいんだよきっと、それで。
そういう苦しいことに対しては目を背け、
思考停止状態になってもかまわない。
苦しさの犯人捜しをしても幸せにはなれない。
そんなところに焦点を合わせて考えるよりも、
もっと他に考えなきゃならんことがたくさんあるはずだ。


たとえば僕が死んだ時、周囲の人が悲しんでくれても困る。
そりゃちょびっとは悲しんでもらいたいけど(苦笑)、
悲しみにくれていてほしくないし、早く忘れて欲しいもの。
それよりも、早くあははと笑って、
一人ひとりそれぞれの生を有効に使って欲しい。


でもね、わかるよ。
苦しいことを考えたり、
辛いことを考えるのって、簡単なのよね。
それに気持ちいいかも知れないね。エクスタシーかも。
目の前にある甘いケーキに手を伸ばすくらい簡単でラクなの。
ああ、つまり麻薬なんだな。
過去に経験した辛さをほじくり返すのは麻薬と同じなんだ
(ちなみに「昔は良かったなあ」って懐かしむのも麻薬だな)。
ダウナー系のヘロインかもね。
こういう麻薬を取り上げようとすることが折伏に他ならないな。
だから、こういう麻薬中毒者から学会員は恨まれる。
「人の気持ちの分からないヤツ」とか
「同苦出来ない冷たいヤツ」とか言われるんだ。
俺みたいに(笑)。
「おめーら、麻薬吸ってジャンキーになってるぜ」って
麻薬中毒者の群れの真ん中で叫んでるわけだから、
そりゃ麻薬中毒者からすりゃ迷惑な話だし、
なんとか消えて欲しいと思うわなぁ。


ああ、脱線しまくりだ(笑)。
つまり僕が言いたいのはね。
利口ぶって考えてるふりするこたぁねえよ。
不幸そうな顔をしてなきゃなんないってこたぁねえよ。


幸せだと思うこと、嬉しいこと、楽しいことを、
「やったー」って表現すればいいじゃないか。
だけど、それって文章を使ってするのは難しいからさ。
この界隈では揚げ足取りする輩も多いしね(俺も含めてw)。
麻薬やってないと仲間と思ってもらえないしね(笑)。
この界隈でそれが出来ないなら、
リアルの自分の身の回りにいる人とやった方がいいよ。
この界隈はおおむね言語の世界なんだから。
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【2006/09/30 11:25 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
宵越しの金は持たない仏法者
財務の使い道がどうのこうのとか、
収支の報告がどうのこうのとか、
内部外部問わずにアンチはいうけどさ。
そんな、ケチくさいこと言うなよ。


創価学会にくれてやったカネを
創価学会がどう使おうが知ったこっちゃねえじゃねえか。
グダグダいうねい、みっともねえ。
江戸っ子気質は好きだけど、粘着気質は嫌いだね。


信濃町の幹部が苦労もせずに収入を得てるとか、
自分の生活のために信者を走らせてるとか言うけどさ。
そんなのどうだっていいじゃんよ。
甘い汁吸ってる人はそれで満足で、
その程度の境涯なんだからそうさせとけばいいの。


そういうことする人がうらやましいかい?
グダグダ言うのはうらやましいから言うんだろうよ。
俺は彼らのことをちっともうらやましくなんてないし、
かわいそうだとすら思うよ。


最近「文七元結」という人情話を聞いて影響を受ける俺(笑)。
【2006/09/27 23:45 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ガンバレ談志
立川談志の生き方はいいな。
「落語は人間の業の肯定」か。
なかなかいいことを言う。


http://mbs.jp/jounetsu/2006/06_18.shtml


落語的な生き方というものがあるように思う。
野暮なもの皮肉り、毒を吐き、
庶民感覚を忘れずに生きる。


「ブロガーはエンターテイナーたるべし」っていう言葉を思い出した。
そういえば、最初にブログを借りたpublogの精神だったな。


http://www.publog.net/


・諧謔(常にユーモアを忘れずに、読む人を楽しませる。執筆者は、エンターテナーです)
・独創(新しいものを創り出そう。コピペ転載引用ばっかしじゃなくて、オリジナリティをたっぷり叩き込もう)


ユーモアのない文章は読んでて損した気分になる。
オリジナリティのない文章は読む価値もない。
そんな文章だけは書かないように心がけていきたいな。


僕は人間の業を否定するしたり顔の坊主みたいなヤツを、
これからも大いに皮肉り笑っていきたいなって思います。
【2006/09/27 10:40 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
丹波哲郎…
丹波哲郎がお亡くなりになったか…。
彼の演じる戸田城聖は良かったなあ。
彼の著書は読んだことないけれど、
学会員になれればよかったのにね…。
あれだけ死後の世界にこだわっていたということは、
よほど死ぬことが恐かったんだろうな、きっと。
まあ、死ぬことが恐くない人なんていないと思うけど。
ご冥福をお祈りします。
【2006/09/25 22:37 】 | 未分類 | コメント(15) | トラックバック(0) | page top↑
ただの利己主義ならROMってる
もし自分のためだけの成長を願い、
自分が不幸にならないためだけに、
僕がこのネット界隈に存在するならば、
別に何も言わないか、耳触りの良いこと、
口当たりの良いことばっかり言ってるでしょう。
耳の痛い話なんてしませんよ。


そっちの方が
「gizmoさんって優しいですね」
とか言われて気持ちいいもの(笑)。


同苦同苦ってあちこちで言われてるけれど、
うわべだけの同苦、言葉だけの同苦なんて
いらないと思うんですよね。
そんないわゆる「同苦」を、
ネットの書き込みで表現して舐め合ったって、
いつかはその人の自らの力で立ち上がり、
前を向かなくちゃならないんだから。


その人の立場に立った上で、何が必要かを考えると、
結局は「本人が強くなること」だと思うんだよな。
近くにいない僕が、その人になにかをしてあげられるわけでもない。


だから僕はしつこいぐらいに、
「僕は強く生きたい」とメッセージを発する。
そして「一緒に強く生きようぜ」とオススメする。
人の気持ちのわからない人だと言われても、
バカにされたとしても、恨まれたとしても、
平気で言い続けようと思ってます。
【2006/09/25 14:05 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
正義と折伏
正義とは、自分の大切だと思う愛すべき仲間、愛すべき家族を、
なにがあろうとも全力で守ろうとすることだと思う。
「だから、僕の仲間にならないか」と誘うことが折伏だと思う。
僕は君を全力で守りたいという告白に他ならない。


だから、勇気が要る。
だから、覚悟が要る。


相手に気持ちが届かなければ、きっと振られることだろう。
【2006/09/24 10:08 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
「必ずよくなるよ」と言いたい
病気で苦しむ人が、
「必ずよくなる」と思っているのと、
「よくなるかもしれない」と思っているのと、
「よくならないかもしれない」と思っているのと、
「もうよくなることはない」と思っているのと、
どういう気持ちで病魔と戦うのが、
病気が治る確率が高いだろう。
「必ずよくなる」と信じている方が、
治る確率は一番高いと、僕は信じている。


病気で苦しむ人に、
「必ずよくなるよ」
と声をかけることは、
卑怯なことだろうか。


自分が信じている一番の方法を、
悩んでいる人に紹介するとき、
「信心すれば、必ずよくなるよ」
そんな言葉を使っていいと、僕は思う。


その人のためを思って、
自分がベストだと思うことを、
自分の言葉で紡ぐことが、
どうして良くないことなんだろう。


文字にするとその時の雰囲気や表情も失われてしまうから、
意地悪に解釈しようとすればいくらだって出来る。
現場にいない限り外野であり、状況は想像するしかないわけだが。


相手のことを思って言ったことが、
科学的に証明できないからウソだとか詐欺だとか、
卑怯だとか言われる社会の方が世知辛いと思う。


そんな揚げ足取りの風潮が、
「他人と関わらない方が得だ」という
考え方を助長させているようにすら思う。
悩む人に何か声をかけてあげることや、
その人のためになると思うことを教えてあげることは、
「嘘つきだ」「卑怯だ」と言われるリスクになる。


学会員は、そのリスクを敢えて採っているから、
いつまで経っても悪く言われ続けるのだと思う。
なにもしなければ批判されることはないからね。


たとえ、常識的に考えれば、よくならない病気の人を前にしても、
僕自身は「必ずよくなるよ」と彼を励まして、
批判を受ける側の人間でいたいな。
【2006/09/22 15:14 】 | 未分類 | コメント(13) | トラックバック(3) | page top↑
やめたいならやめさせてやりゃいいじゃん
なんだか竹中さんが議員やめるんだってさ。
それを「無責任だ」とか「身勝手だ」とか批判する人が多いみたい。
俺はやめたいっていうならやめさせてやりゃいいじゃんって思うよ。
やりたくないヤツをやらせといたっていいことないもんだよな。


批判する人のホンネってなんなんだろうね。
「辞めてもらっちゃ都合が悪い」とか、
「立場をアピールするチャンスだ」とか、そういう感じ?


ある役職を引き受けて、ある日、辞めると宣言する。
そうするとたいてい批判されるわな、「無責任だとか」なんとか。
そう批判する人のホンネは「辞めてもらっちゃ都合が悪い」だよね。


学会だって同じだよなあ。
やめたいって思うならやめればいいじゃんって思う。
まあ多くの学会員は、引き留めると思うけど。


でもさー、アンチと呼ばれる人たちは、
引き留めたら引き留めたで、
「しつこい組織」とか批判するし、
引き留めなかったら引き留めなかったで、
「つめたい組織」とか批判するんだよね(笑)。


まあ、批判するのが趣味なのかもね。
【2006/09/16 10:15 】 | 未分類 | コメント(8) | トラックバック(0) | page top↑
なんで勤行しないんだろう
勤行していてふと思った。
御本尊というのは自分の心を映す鏡なんだよね。
勤行すると良いということはわかっているのに座れないのは、
魔の所作とかなんとか言われるけれども、
結局、自分の人格や心を鏡に映して
確認するのがイヤなのかもしれないね。
容姿に自信がない人は、鏡に映った自分を見たくないものじゃないか。
自分の発してる声を録音して、その声を聞きたくないのと同じ。
デブは客観的にみてもデブだけど、
本人はデブだと言われたくないし、
鏡をみてデブだと確認したくない。
自分の心に自信がない人、自分の振る舞いに自信がない人、
そんな人は心を映し出す鏡を見たくない。
「そんなのわかってるよ!」って叫びたくなるわけだ。


でも、なりたい自分になろうとするなら、
まずは今の自分を知るところからはじめなくてはならないんだよな。
自分と自分を取り巻く環境を、正確に把握すること。
現実から目をそらさず、ひいきせずに自分を評価する。
そして、自分に今なにが必要で、どうすればいいのか考える。
学会員にとっては、それが御本尊の前ということなんだよね。
紙幅の御本尊が願いを叶えてくれるわけじゃない。
ただのツールなんだよ。


だから、独自の「なりたい自分になる」プロセスを持っている人には、
もしかしたら創価学会の哲学なんて必要ないかもしれない。
だから、そんな人は折伏したいとも思わない。


あっ、もしかすると、座らないのは、
既に「なりたい自分」になってしまっているということなのか。
いや、そうでもないな……不平不満をこぼすんだから。
不平不満をこぼすなら、いいからまず座れ、ってことになる。
でも、それだと話が終わっちゃうからつまらない。


ああ、なるほど。
アンチって、こういうことを指摘してるのかもしれん。
愚痴をコネコネ考えるのって楽しいもんね。
酒飲んでくだをまくの、俺も好きだよ。
いやまあ、楽しいんだったらいいんだけど、
本当に苦しいんだったら座れば? って思っちゃうんだよな…。
【2006/09/11 09:28 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
自力門と他力門
三九郎さんのところにコメントしようと思うと
いつも字数制限にひっかかる(笑)。
三九郎さんとこが炎上しない秘訣はここにもあるんだよな。
くやしかったので、エントリしてトラックバックを打っちゃお。


それこそ言葉で書き表せないし見方次第なんですけど、
実は、自力と他力って線が引けないと思ってるんですよね。
僕は方便として自分自分と協調しますけど、
どこからが自分? って問いを立てると、明確な線はないんですよ。


方便=手法、手段、入り口


というような感じの意味ですから、
他力から入っても、自力から入っても、きっと目指す点は一緒だし、
自力の考え方でも、他力の考え方でも、
その本人が上手に使えればOKだと思っています。
ちなみに僕は自力から入るほうがドラマチックで好きです。


宗教団体というものは、一つの考え方をマニュアルと実践でもって、
一人ひとりの信者に示し続けなければならないわけで、
だからこそ方便として「真実」や「絶対正義」を
打ち出すわけなんだけどなあ。
でも、方便を方便と明かしてしまって、
効果が薄れるものもあるんだわ。
だから、インターネットの書き込みを見ると不幸になる
(と、こういう風に言うのも方便なんですが)。


また、手段と目的はときに線引き出来ないものなんですよ。
生きることは活動することですから、なにかのための活動が、
活動のための活動になっていることだってある。
生きていることだって同じですからね。
生きることって意味ないじゃん、というのも真実ではある。


でも、せっかく生をうけたんだから、
胸を張って生き生きと行きたいじゃん、
背中を丸めてしょんぼり生きていたくないじゃん、
って思うだけの話なんですよね。
僕にとっては、そのための方便であり、そのための宗教です。
【2006/09/10 11:09 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(1) | page top↑
なんちゃって学会員ねぇw
僕は自分の頭で考えて、ものをしゃべってる学会員だと自負してる。
自分のフィルターを通して、学会のオフィシャルの指導を解釈し、
自分の考えを書いているつもりだ。
別に標準的な学会員の見解とは違うと言われてもかまわない。
実際アンチからは「なんちゃって学会員」と揶揄され、
悪く言われてるようだ。


確かに自分の頭で考えずに、だれかから聞いた学会の指導を
そのまましゃべっている学会員も存在するとは思う。
そういう人は「マインドコントロールされた典型的な学会員」と
揶揄され、悪く言われる。


まあアンチからすれば、学会員はどっちにしたって悪く言われる。
結局なんにしたって気にくわないわけですよ。
彼らからすれば、
学会員はすべからくマインドコントロールされていなければならず、
彼らからみてマインドコントロールされてない学会員のことは
「なんちゃって学会員」だとか、異端だとか定義づけて、
満足してるわけです。


それから「学会肯定を強く主張する学会員は悪」と、
決めつけているんですよねぇ。
同じ語調で学会否定を強く主張する者に対しては喝采するくせに。
彼らは学会の悪い部分をクローズアップしてしゃべる者でなければ、
その人格を認めることができないのでしょう。
まあ、ネガティブな人種なんだよね。てゆーか、邪宗の信者?(笑)


特に学会員でありながらアンチの人は、
せいぜい「学会員でごめんなさい」って思いながら、
背中を丸めていてくださいってとこかな。
【2006/09/06 00:30 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
「早く気づいて欲しいです」だとぉ?
「早く気づいて欲しいです」という言葉。
どうやらこれにカチンとくるらしいぞ、俺は。


誰かの文章を読んでいて、
「ふむふむなるほど、あなたはそう思ったんだな、
それはそれでスジが通ってるなるほど」と思うわけだ。
そこで最後の締めくくりで「早く気づいて欲しいです」とくる。
そこで僕は「はぁ?」って思ってガッカリする。


これは強引な弘教をする馬鹿学会員と同じメンタリティなわけだよ。
偉そうなことを言う割には、そこから一歩も抜け出してない。
「私は気づいてるのに、みんなは気づいていない」
このメンタリティになることが宗教の危険なところであり、
いわゆるアンチは、創価学会内のこの危険を
指摘しているわけでしょう。
「アンチのあんたがそうなってどうすんねん!」とか思う。
なーんだやっぱり所属する陣営が違うだけで、
発想は同じなんだな、と。
創価学会教からアンチ教に鞍替えしただけなんだな、と。


もし、そういうメンタリティになることが自然な人間だとするなら、
別に他の宗教じゃなくても創価学会で十分だよなあ。
【2006/09/03 02:53 】 | 未分類 | コメント(25) | トラックバック(0) | page top↑
誰のための創価学会?
たまにはマルチポストしちゃいまっせ(笑)。
ペガサス掲示板もよろしく(と、勝手にちょっと宣伝w)。


結局「誰のための創価学会なのか」ってとこが大事だと思うんですよ。
この答えは、たぶん
「創価学会を必要とする人のための創価学会」
だと思う。
ある個人が「創価学会なんて必要ない」と思えば、
とっとと創価学会なんてやめちゃって、
その思惑にもとづいて攻撃すればいいし理解出来るんだけど、
学会員が学会員でありながら、また創価学会の恩恵を受けながら、
学会の仕組みにケチをつけるのが意味わかんないんですね。


創価学会の組織は、下っ端、中間幹部、上位幹部など、
それぞれのセクションでそれぞれの「生き甲斐」を提供してくれてる。
その提供されたものが不満ならば、
セクションを移動すればいいと思うんだな。
正は無理って訴えれば、副になることだって出来るんじゃないか。
役職はずしてくださいと訴えればはずしてもらえるんじゃないか。
それとも上位に行けば行くほど
「エンコ詰め」みたいなもんがあるんかな。
うん、わかった。上位の人が「ある」と言うなら、
それは理解したとしよう。
下っ端の僕には情報の真偽を判断することが出来ないからね。
最高幹部は究極の裏方だと想像します
(あらゆる組織はそういうものだよね)。


でも、どっちかといえば、ネットで騒いでる元活動家アンチというのは、
下っ端幹部、中間幹部だった人じゃないんですかね。
深刻な「エンコ詰め」があるとは思えないわけです。
自分の意志をはっきり伝えて、
セクションを移動することは出来ると思う。
その自由が無いわけではないでしょう。


ある個人が組織の駒として動くという決意をしたならば、
駒として動いてもらわなければ、組織にとって迷惑です。
組織活動というものは全体主義でしょう。
強い軍隊も強い会社も、トップダウンです。


また駒として動くことに喜びが無いなら、そのセクションを辞めればいい。
個人主義を旨として、
組織の外で活躍する学会員だっていますからね。
外部でせっせと稼いで財務で組織に協力するなら、
それは学会活動と言ってもいいでしょう。
立派な学会員だと思うわけですよ、組織維持に貢献してるんだから。
また、めざすは総体革命なわけですから、
創価学会の理念に反しない。


レストランに例えて言うなら、組織活動家というのはコックであり、
厨房の中で働く人でしょう。
誰が客かといえば、なんらかの事情で組織活動しない学会員でしょう。
組織の外で戦っている学会員であったり、
年老いて現役の組織活動を退いた学会員であったり。
ホストとゲストの関係です。


それが「先生からお預かりした大切な守るべき学会員」
という概念であり、
学会員を守ることに誇りを持つことが出来ることが、
組織活動家の一番の報酬なんじゃないのかな。


そして、料理を作る側の人も食べる側の人も、
同じ地位だというのが仏教的な気が、僕はします。
「喜捨」の意味ってそこにあるんじゃないですかね。


必ずしもサービスを提供する側が偉いのではなく、
サービスを受ける人がいるからサービスさせていただくことが出来る。
「~してあげる」ということは嬉しいことでありましょう。


ここで、相田みつを、が思い浮かんだので引用してみる。


「お布施」というのは相手に無くて自分に有るものを分け与えて、
お互いによかったよかった、と喜び合うことだ。与えたほうも貰っ
たほうも共に感謝し合うことだ。
そこで大事なことはね、布施が行われるための条件だな、それは次
の三つだ。
 一、与える人…これを施者という
 二、与える物…これを施物という
 三、受けてくれる人…これを受者という
いいかな、よく考えてごらん。この三つのうちひとつでも欠けたら
布施にはならないんだな。われわれの常識ではね、与える者さえい
れば何時でも布施ができると思うだろう。そうじゃないんだな、い
くら与えようとしてもね、受けてくれる人がいなければ与えること
はできないな、
「折角だが私は要らない」
と断られたらどうだろう? 布施にはならないな。相手の喜んだ顔
見て、こっちもいい気持になる。お互いがいい気持になること、そ
れが布施だ。するとね、ここで大事なことはね、布施では受けてく
れる人も与える人と同じに大切だということ。つまりね、与えるほ
うが上で、貰うほうが下だ、なんて差別はない、て、ことだ。そこ
のところが一番大事。そこをしっかり押さえること。
(相田みつを にんげんだもの より)



組織について活動する者は、
つまり自分の時間と労力を、お布施してるわけです。
お布施して、いい気持ちになること、それが施者の功徳でありましょう。


組織(学会員一人ひとり)は人材を欲している。
活動家は時間と労力を提供する。
組織(学会員一人ひとり)から「ありがとう」と言われる。
活動家はいい気持ちになれる。
この図式が学会活動でしょう。


組織の活動というのは、時間と労力を
提供したい布施したいという人のためにある。
もし創価学会が存在しなくなったら、「受者」がなくなってしまう。
わかりやすい例でいえば、ヒマな婦人は
ブツブツ文句はいうかもしれないけれど、
活動出来る場所があるだけで幸せだと思いますよ。
活動自体が目的になっている。


ちなみに僕は、与える時間がないから、活動という布施をしませんが。
もし与える時間があれば、布施してもいいと思うようになっています。
まあ、組織にとって、必要とされてないだけかもしれませんが(笑)。
でも組織について活動している人に対して、
「ありがとう」という気持ちはありますよ。


ちょっと話がずれましたが、
つまり創価学会というのは、学会員一人ひとりが、
「いい気持ち」になれるための装置でありましょう。
アンチかシンパかというのは、この布施の図式を
維持したいかどうかなんじゃないかと思うんです。
人工的ではあるけれど
(人工的なものにアレルギーのある保守な人もいます)、
この循環のシステムで、
価値つまり「いい気持ち」を無限に生み出すことが出来る。
そのシステムを信じるか信じないか、だと思うんですよ。


信じない人にとってはネズミ講に映るでしょう。
そんな人にとって信じるものは金銭的価値のみかもしれません。
価値判断基準が金銭だけだとするなら、学会は悪かもしれません。
だけど僕は、金銭的価値を超越したところに
人間の幸せがあると思うのね。
だから「創価学会はビジネスなんです」と言われても、
「そういう側面もあるかもしれないね。で、それっていけないこと?」
と言いたくなっちゃう。


創価学会っていうのは、
金銭的価値だけではないいろいろな価値を
布施したりされたりしながら、
互いに気持ちよくなる一つのモデルを提唱し、
実際にその仕組みを運用しているんだと思うんですわ。
それがいわゆる「価値創造」でしょう。


そう考えると、やっぱ僕はシンパですね。
僕はなんで学会員でいるかといえば、
やっぱ気持ちいいから学会員で居続けるんです。
内部の多くの人を気持ちよくする仕組みを維持することに
気持ちよさを感じる。
だから、僕には創価学会が必要です。
なんらかの形で、組織を必要とし維持したいと思うなら、
シンパだよねえ。


たぶん、この布施したりされたりしながら
価値を生み出す学会の仕組みは、
昔だろうと今だろうと、変わってないと思うし、文句言う人の数も、
学会を去っていく人の数も、変わってないんだろうななんて思う。
ネットを主体にしてるとネットの情報しか流れてこないしねぇ。
【2006/09/01 13:26 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
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