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自分の足元と未来
陰湿で底意地の悪い女の腐ったような人や、
ものごとの表面しかわからない浅はかな人を見るにつけ、
なんとか良くならないもんかねえと憂い、
自分の可能な範囲で、自分なりの
表現を尽くそうと努力するわけだが、
まあ、普通に伝わらないもんだわな。
単純にうるさがられるだけでね。


まあ、とりあえずは、しかたない。
誰もが経験してきたことも、バックグラウンドも違う。
ましてや、同じ場所で同じ空気を吸ってるわけじゃなかったり、
目と目を合わせてるわけでもないのなら、伝わらないのが普通よね。
言葉の感覚だって人それぞれ違うしね。
わかりもしないのにわかったフリをして、
毒にも薬にもならないみかけだけの言葉を
言うことは、いくらだって出来るけどな。



伝わらないことがもどかしく、イライラすることもあるけれど、
まあ、そういうときは優しい気持ちになれる音楽でも聴くのがいいかも。
というわけで、キロロのベストアルバムを買ってみたよ(笑)。


kiroro_1.jpg



ほら 足元を見てごらん
これがあなたの歩む道
ほら 前を見てごらん
あれがあなたの未来〈「未来へ」より〉



僕らは、ほんとに足元が見えてるかねえ。
ちゃんと前を見て歩んでいるかねえ。
みんなが本当にそうなら、僕はきっと、
なんにも言わないんだけどな。
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【2006/10/31 19:21 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
陰口が大嫌い
僕が嫌いなものは「決めつけ」と陰口だな。
言いたいことがあるなら、本人に直接言うのがスジだし、誠実だ。
本人との対話も無しに、どっかの権威に当てはめて、
「こんな人」と決めつけ安心することが大嫌いなんだな。
最初「あの人はこうなのかもしれない」という推理だったものが、
本人のいないところで言い合うことで、確信に変わっていく。
「あの人はこうに違いない」となる。


創価学会に対する、また、学会員に対する
「決めつけ」が生成されるプロセスも同じだと思う。


アンチの人は「押し付け」と「迷惑」を問題にするけれど、
そんなことはたいした問題ではない。
なにかを押し付けられても、こっちだって押し付けることはあるし、
迷惑かけられたら「貸しが出来たね」と笑えるからいいのだ。
人間関係が健全であれば、そんなことはちっとも問題ではない。
そして、人間関係を形成するのは本人の努力であり、
すべてはその本人の責任だろう。
「押し付け」にしろ「迷惑」にしろ、
そこには双方向のやりとりのチャンスが存在する。
抗議するチャンスだってあるし、断るチャンスもある。
そのチャンスがあれば、僕はフェアだと思う。


ところが、陰口はアンフェアだ。
ただ一方的に、対象者の悪い印象を増幅させる。
そこに、本人が説明するチャンスは存在しない。


実は、陰口の延長線上に「いじめ」がある。


アンチがもっともらしく創価学会問題と称して
ネットで語ることのほとんどが陰口といえるだろう。
その問題に関わる学会員本人がいない場所で、
その人をおかしな学会員だと決めつける。
その人が説明をするチャンスはない。
そのケースの背景だってわからない。


本来は本人がいる場所で、フェイストゥフェイスで
直接やりあって解決しなくてはならなかったことを、
現場に居なかった事情をよく知らない人の前で、
自分に都合の悪い情報は伏せたり、都合良く捏造したりして、
自分を有利に説明し、自分に対する同情を引きだす。


しかも、もっともらしく陰口を言っている人には、
そんな行為だという自覚がない。
自覚があれば、まだ許せる。
「陰口になっちゃうんだけどさ…」みたいに前置きするなら、
まだかわいげがあるし、独善に陥っていないように見えるな。
それでも頻出するんだったら、やっぱ卑怯だと思うだろうけど。


もちろん、陰口を言ってしまう傾向は僕自身にもある。
これのことは「己心の魔」と呼び、滅ぼしてやりたいね。
【2006/10/30 20:34 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
全てはあなた自身の問題です
池田大作にせよ、日蓮にせよ、
その文章の途中でどんな経路を辿ったとしても、
最終的には「あなたが変われ」とか「あなたが強盛であれ」とか、
そういう「あなた自身」ということを問題にしてると思うんだよ。
それが、池田大作の数々の書物に一貫することであり、
日蓮の御書に一貫することであると思うんだけどな。


他に責任をなすりつけることをせず、
全てを自分の問題として考えるという哲学を、
文章をもって、また身をもって、示していると思う。
アンチな人たちはその共通項を見いだせないから、
創価学会が、いわゆる池田教に映るんだろうな。


学会員は、その「全ては自分のせいだ」ということを、
引き受けて生きるべきだし、そうなろうと努力している。
それこそが、真の主体性なんだと思うんだけどな。
【2006/10/27 23:31 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
「迷惑」に神経質な人たち
ふと思った。
アンチな人たちは熱意というものを否定するのだなあ。
熱意を「迷惑」としか思えないのは、心が冷たいと思うよ。
誰かと仲良くなろうと願うとき、勇気を出して、
その人の心に一歩踏み込まなくては叶わない。
この一歩踏み込むことを「迷惑」として否定するから、
人と人とのつながりが希薄になっていくのだろう。
仲良しというのは、迷惑かけたり迷惑かけられたりして、
それがお互い様だと許し合うものでしょう。


「迷惑」ということに神経質になりすぎることで、
社会がギスギスしていくのだろうなあ。
自分の行動に対しては「迷惑」じゃないかとビクビクし、
他人の行動に対しては「迷惑」じゃないかと監視する。
そして「迷惑」をみつけると、鬼の首を取ったように批判する。


いいじゃんなあ。
迷惑のひとつやふたつ、許してやれよ。


自分が良いと思ったものを、
熱意をもって人に勧めるのは自然なことだし、
それを「迷惑」という一言で切って捨てるのは、
なんか冷たいというか…つまり、心が狭いよ。


本当に迷惑だったなら、その場で本人にむかって、
諭すなり怒鳴りつけるなりして解決すればいいのに。
本人のいないネットで晒して得意顔になるこたぁねぇじゃねぇか。
なんだか陰険なんだよ。
というか、究極的には人間が嫌いなのかもしれないな。
【2006/10/27 07:19 】 | 未分類 | コメント(43) | トラックバック(0) | page top↑
「学会では教えてくれませんでした」と言う人
僕は「学ぶ」という姿勢は好きだが、
「教わる」という姿勢があまり好きではないな。
「教わる」というのは、受動的な気がする。
小学生の子供が「教わる」というのはわかる。
これはしゃあない。


創価学会に所属した経験があって、
辞めてから学会を悪くいう人(いい大人だ)が、
「学会ではこう教わりました」とか、
「学会で教えてくれませんでした」とか言って、
学会のせいにしてるのが見てらんない。
自分で勉強すればよかったじゃん。


なんだか受動的なんだよね。
学会員だったときも、さぞかし受動的だったんだろうなと思う。
なにかに疑問に思ったなら、バンバン質問すればいいし、
それで解決しないのなら、自ら調べればよかったじゃん。
主体的努力をしたようには思えないんだな。


学会に死ねって言われたら死ぬのか、と。
学会をカルトたらしめてるのは、学会ではなくその当人だろう。
学会を悪だと決めつけ、自分は悪くないと満足してるだけだ。


受動的な人は、自分が悪いとは思いたくない、
だから、環境が悪いと思いこみたいのだろう。
自分が変われば世界が変わるという哲学は、
カルトでもなんでもない真実だと思うけどな。
【2006/10/26 11:03 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(0) | page top↑
すべてを含めた自分を大事にすること
『二人はプリキュア』第42話
「二人はひとつ!なぎさとほのか最強の絆」より
なぎさのセリフ。


「あのね。それだけじゃないと思うんだけど…、
やっぱ自分が大事かなって。
なんていうか、自分の気持ちっていうか。
大切な人を大事に思うそんな自分の気持ちを、
大事にしていこうかなあって…。
それが一番大事かなあって。
自分がしっかりしてなきゃなにも出来ないもんね。」



自分が大事だと思う。
なによりもまず自分の気持ちを大事にすることだ。
すべてはそこから始まる。


「希望の力よ 光の意志よ 未来に向かって突き進め」


人間は意志を持つから一人ひとりが輝く。
意志を持つからかわいらしいのだと思う。


もちろん強い意志は周囲との軋轢を生むこともある。
しかしだからといって、捨てようとするのは本末転倒だ。
自分がやりたいことを認識出来ない人が、
他人の思いをわかってあげられるはずがないじゃないか。
自分を大事に出来ない人が、他人を大事に出来るもんか。


灰身滅智は一番の、生への冒涜だと思う。


まずは自分を大切にしなさい。
他人を大切にするのはそれからだと思う。
自分を卑下するようではお話にならない。
【2006/10/24 14:21 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
韓国人と学会員
国際感覚とか、人権感覚とか、そういうのって
なにによって磨かれるんだろう?
僕は、女性の人権云々を過剰に訴える
フェミニストが大嫌いだけれども、
さすがにこういうことを公言する韓国人の男性ってどうかと思うわけだよ。
こういう男性が存在する限り、カウンター的に過剰な
いわゆる女性解放運動を認めてもいい気が、ちょっとだけした。




「韓国人の女性に対する意識」


映像では韓国人男性が、
女性の容姿に関して差別的なことを公言してる。
女性を小突いてるシーンとか、もう見てらんないって感じ。
もちろんテレビプログラムなので、
放送作家のシナリオ通りに演じてるのかもしれないが。


まあ、この男性が素で発言してると仮定して考えるわけだが、
こういう男性が存在するのは、韓国という国の問題なのかねえ?
韓国の伝統文化風俗の問題?
韓国の制度の問題?


でも「民族の問題」と言い切ることは出来ないだろう。
つまり「韓国人はみんなこうだ」と、
決めつけるわけにはいかないよねえ、建前上。
ネットウヨは「韓国人はみんなこうだ」と決めつけて、
差別するわけだが…(気持ちはわかるが)。


結局、どこで線をひくべきかというと、
「個人の問題」だと帰結させるしかないんじゃない?
その個人をつかまえて責め、諫めるしか出来ないと思うんだよな。
たとえば半島固有の儒教的価値観までさかのぼって
責めていいんかなあ。


この界隈では「押し付け」がテーマになることが多いけれども、
外国人が、自分たちの価値観をもって他国に干渉することは、
西洋的男女平等人権感覚を押し付けることにならないか。
キリスト教勢力は「自由」の名の下、イスラムに干渉したわけだよね。
イスラムでは女性が差別されているとプロパガンダしたし。
でも本来はイスラム世界ではイスラム世界のお約束によって
安定した秩序があったはずだ。


韓国は韓国なりの独自の儒教的価値観があるんだよな。
厳格な家父長制とかね。
西洋的個人主義がスタンダードとなってる現代日本からすると、
おかしいと思うことが、韓国では当たり前のことかもしれない。
それによって秩序が保たれている側面は、きっとある。
まあ日本は日本の思惑として隣国に声を上げるわけだが…。


さて、創価学会という組織があり、
その中に差別的なことを公言する学会員は確かに存在する。
それは組織の問題なんだろうか?


創価学会の組織の内部にだけ通用するお約束に対して、
外野がとやかく干渉することってスジが通ってないような感じがする。
法華経や日蓮にまで(折伏教典も)さかのぼって責めちゃうことって、
儒教的価値観までさかのぼって韓国を責めちゃうのと一緒だよな。
まあ、アンチはアンチの思惑として、
わざと過剰に学会に声を上げてるのかもしれないけど。


「学会員はみんなこうだ」と、決めつけて差別するアンチも多い。
でも冷静に客観的に考えれば、
「アホな学会員も存在する」というレベルでしか言えないんじゃないか。


また、ちょっと思いついたんだけれども、
「学会員は半島系」とか「池田大作は在日」とか
言われるのも、まあ理解出来なくもないんだよね。
無茶な理屈を押し通す学会員や、火病る学会員も居るからね…。
そう考えると実は、やみくもに「学会員」を嫌う人は、
やみくもに「韓国人」を嫌う日本人と同じメンタリティなんだよな。


まあつまり、引いた視点を持てないと、
アホな学会員にイヤな目に遭わされれば、創価学会を憎むし、
アホな韓国人にイヤな目に遭わされれば、韓国を憎むことになる。
単に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というモデルなのだよな…。
それは浅はかだと思うわけ。
本来は個人に対して責任を問うべきことを、
その個人が所属する集団に対しても責任を追及しようとするのは、
立て分けすることが出来るだけの知性が無いように思う。


腐った学会員もいる、腐った韓国人もいるし、腐った日本人もいる。
それはその個人が腐ってるんだと思うんだな。
やっぱそのラインが妥当でしょう。


まあ僕だって、アホな日本人を見ると、たとえば、
「ゆとり教育の弊害」とか言いたくなることもあるけど。
韓国だって「親日派財産没収法」なんてのをみると、嘆息しちゃうけど。
【2006/10/24 11:35 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(1) | page top↑
声を大にして怒れ
インチキ宗教は「怒るな」と言う。
喜怒哀楽は人間として当たり前の感情であり、
当たり前の表現のはずなのに。


怒るべきときには、躊躇することなく怒らなくてはならない。
怒りは怒りとして表現しなければ、相手につけこまれるだけだ。
自分の環境が不満ならば、自分の思っていることを吐き出し、
表現しなければなにも変わることはない。
なにもアクションをおこさずに、
誰かが助けてくれるとか、救ってくれるとか、
期待してるだけでは、結局は自分を追いつめる。
自分がなにもしなければ、環境はなにも変わらない。


たとえば、いじめ。
いじめられていると思ったなら、声を大にして怒れ。
どんな言葉でもかまわない。
「ふざけんな!」「ばかやろう!」
怒らずにいるから舐められる。
怒ることは禁止されてることでもないし、悪でもない。
後ろめたく思う必要なんてない。
堂々と胸を張って、声を荒げろ。


それでおさまらないなら、使えるものはなんでも使え。
周囲の誰もが頼りないなら、組織の先輩に相談したっていい。
その先輩がダメなら、もっと他の先輩のとこに行っていい。
一緒に怒ってくれる仲間を探せ。
とにかくアクションをおこすことだ。


悪意の火の粉が降りかかってきたなら、
まずは声を大にして怒ることだ。
現場で怒って、その場でぶつかり合い解決しないと、
インターネットという気休めにしかならない
バーチャルな場所でグチグチ言うしかなくなるぞ。
【2006/10/19 19:32 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(1) | page top↑
仏法に無駄はない
学会員にとって仏法というのは、人生の異名なんだよね。
どんな苦しいことだって、どんな悲しいことだって、
全部つながっていて今の自分が居る。
あの苦しいことがなかったなら、今の自分はあるか?
だとしたら、今、苦しいと感じていることは、
明日の自分のために必要なことだと考えることが出来るだろう。
そういう捉え方をするのが、
「仏法に無駄はない」
という言葉の意味だ。


学会活動で苦しんだとしても、
それを学会を恨む方向に向けるのか、
学会に感謝する方向に向けるのかで、
その人の幸せが変わってくるように思う。


一所懸命に頑張ったことを、
無駄だったと決めつけることほど、
不幸なことはないのではないか。


だから、僕は安易な脱会を勧めない。
今まで以上に強い生き方を出来る自信がないなら、
学会を辞めると不幸になる。
弱いまま脱会すれば、一所懸命だった自分の過去を
否定することになるからだ。


たとえば僕の書いていることを読んでも、
平気でスルーできるくらいの強さを持てないなら、
脱会は辞めておいた方がいいと思う。
街で三色旗を見るたびに、公明党のポスターを見るたびに、
不快な気持ちがよみがえり、
ずっと学会を恨み続ける不幸な人生となるだろう。
恨みの気持ちを持ち続けることほど不幸なことは無い。
学会に囚われ続ける不幸な脱会者は、ネットに山ほど存在している。


何事にも負けない強さを持っているならば、
どうぞ自由に学会を辞めてくださいって思う。
親の代が築いてくれた頼れる組織を捨てて、
一人で生きていく覚悟があるならどうぞ。
でも、それには絶対に強さが必要だと思うぞ。


もしもう辞めてしまったのならば、とにかく強い心をもつべきだ。
現在の自分の環境を愚痴ってるようじゃ、全然ダメだろう。
【2006/10/17 19:36 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
代理出産問題から連想したことと願兼於業
誰にも望まれずに生まれてきた人は存在しないと思う。
少なくとも母親には、望まれて生まれてきたはずだ。
そうじゃなければ、母親という存在は、
お腹の中で育てることを、何ヶ月も
耐えられるものじゃないと思うんだ。
僕は男だから想像するしか出来ないけれど…。


だから、今生きている人みんなに対して、
「親に愛されずに育った」なんて
思って欲しくないわけだよ。
自分が子供の頃の、親の振る舞いをほじくり返し、
幼少時に虐待を受けたから今こうなった、
なんて言って欲しくない。
そんなことを言って嘆くのは、
甘えにほかならないと思う。


親だって完璧ではない人間だよ。
胸くその悪いときは理不尽に子供に当たることもある。
それが短期の場合も、長期にわたる場合も。
人間だから思ってもいないことを口走ることだってある。
「あなたなんか生まなければよかった」
そんなひどい言葉を放つことだってある。
人間の心の状態は、瞬間瞬間で変わるから、
本心じゃないことだって言ってしまう。
でも、そんな言葉を吐いたあと、
ひっそり後悔しているものだと僕は思う。


少なくとも、母親はお腹の中で数ヶ月間、
自分を抱えていたというのは紛れもない事実だ。
その間、母親はなにを思うのだろう…。
親に傷つけられたと主張する人は、
それを想像出来ないのだろうか?


虐待を受けたと思いこんでいる人は、
その問題の親の行動が、
たとえばたまたま思春期だったとか、
きっと、ただそのタイミングが悪かっただけだ。
現代は、心理学というニセ科学の権威が、
なんとかハラスメントだのPTSDだの、
安易な自己正当化の理屈を与える。
それは邪悪な宗教のようにまとわりついて、
一人ひとりを弱くさせている…。


なぜ許してあげられないのだろう。
なぜ感謝することが出来ないのだろう。
親を憎んでなにが生まれるのだ?


もちろん、人間だから、
そう思ってしまう時期もあるかもしれない。
でも環境や育ちを嘆き続けても、不幸になるだけだ。
それを断ち切るのは、自分自身…。


僕は、生まれてこれただけでラッキー、
今、生きていられるだけでラッキー。
そう思い続けていたいなあ。
自分をとりまく全てのものに感謝したい。
僕は志願して生まれてきたと信じて、
一日一日、生きることを大切に出来たらいいな。
【2006/10/17 14:05 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
弱い人間が存在するからです
なぜ創価学会に関する問題がネットにこんなにあるかと言えば、
馬鹿な幹部に馬鹿な指導をされて、その個人への怨嫉が、
いつのまにか組織に対する怨嫉となって、
ネットをはけ口にしているからです。


こういう風に答えると、とたんに「冷たい人間」と言われるけれど、
冷静に考えると本当にこの通りです。
ネットに存在する、そんな怨嫉を持った人間に対して、
「同苦」という大義名分をもって甘やかしているのが、
「内部アンチ」といわれる人たちです。
彼らは、組織のオフィシャルメディアでの
アナウンスで出来うる努力の限界を知っていながら、
また、解決するには現場の一人ひとりの努力でしか
解決できないことを知っていながら、
いわゆる「傷ついた人」へのリップサービスをします。
(実は僕が「馬鹿幹部」と言っているのもリップサービスと言える。
本当はきっと多くは、熱血タイプの幹部なのだと僕は思います。)


本来ならば、本人がその現場で、
その馬鹿な(?)幹部と戦い解決するべき問題を、
自分の過失は認めたくないという心理から、
その現場でやりあう勇気がないから、
または、現場で相手と対話する努力が面倒だから、
その幹部との対話を放棄し、ネットに逃げてくる。


ネットには「わかってくれる人」が居ます。
現場の状況も、双方の意見の内容も知らずに、
一方的に、訴える人の意見だけを聞き、味方になってくれます。


非常に安易です。


訴える人は、自分を肯定してさえくれれば気持ちよい。
「創価学会は悪」という結論に都合よい論理を提供してくれる。
また、現場の状況を実際に見たこともない
ネットの情報だけを信じる頭でっかちの外野が、
「そうだそうだ組織は問題点を放置している」と援護射撃をしてくれる。
それが、本人にとって「外部の客観的な意見」となる。
偏った情報を元にした偏った意見に過ぎないのに。


なぜ僕が「冷たい人間」と指摘されるかと言えば、
「現実を直視しろ」「現場で解決しろ」
「自分の都合の良いことばかり言うな」というような意見が、
自称「傷つけられた」人にとって、耳障りだからです。
まるで、親や先生の説教のように聞こえるからでしょう。
「傷つけられた」ということが、
この界隈では水戸黄門の印籠になっている。


自他ともに幸福になるためには、
自他ともに厳しい戦いが要求されると思う。
フェイストゥフェイスでケンカする根性が要る。
自他の意見の対立を対話によって解決する根気が要る。
その戦いから逃げだし、
ネットで甘い言葉を欲しがっているのが、
いわゆる「傷つけられた人」である。


創価学会の信仰というものは、
巣の中でピーピーいってれば親鳥が幸福を運んでくれるような
甘っちょろい信仰ではない。
そして現実社会も、ピーピーいっていれば自動的に幸せになれる
甘っちょろいものではない。


世にいる誰しもが自分の翼で羽ばたき、
自分で幸福をつかみとっている。
それを強調し、教えることを、
「冷たい」と言って満足してるならそれでいい。
一生ネットでグチグチ言っているがいい。
まあ、僕はそれを不幸だと思うけれども、
価値観が違うと言うなら、僕から言うことはなにも無い。


どんなに組織が努力しても、
創価学会が「一人ひとりが強くなろう」と主張している限り、
絶対に創価学会に関する問題を訴える人はいなくならない。
「強くなろう」という主張についていけない他力本願で
いつか誰かが救ってくれると夢見ている人間は、
組織がどんなことを言っても納得することは絶対にない。
【2006/10/12 23:26 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
やっちゃえやっちゃえ
図太く生きようぜ。
神経を太く、心臓に毛を生やして。


なにやったって、なに言ったって、
結局、誰かから文句は言われるもんだ。
そんなら好きなことをやったほうがいい。
自分がやりたいようにやったほうがいい。
自分が面白いと思えるようにやればいい。


自分がかつて傷つけられたことや、
迷惑かけられたことにずっとこだわり続け、
なんにもやれないくらいいなら、
なんにも言えないくらいなら、
傷つけたってかまわないくらいの気持ちで、
迷惑かけたってかまわないくらいの気持ちで
とにかくやってみるほうがマシだ。


だいたい、誰も傷つけず、迷惑をかけずに、
生きていくことが出来ると思いこんでるような
謙虚を装った増上慢は逝ってよしだよ。


羊のように弱い者の集団は、
特異なものを排除しようとする。
それはまさにいじめっ子の心理なのさ。
個性を発揮することに躊躇する必要なんてない。
壁にぶつかった時こそチャンスなんだ。
ガンガン行け! ドンドン行け!
【2006/10/11 14:55 】 | 未分類 | コメント(14) | トラックバック(0) | page top↑
「やりかた」というもの
シンパの主張は、
「手の届くところから地道にやるしかない」
ということで、
アンチの主張は、
「使えそうなものはなんでも使え」
ということなんだよな。


効果的且つ安全に変わっていくためには、
なにをすればいいのか学会員は常に模索している。
悪意ある者はやみくもに声をあげるべきだと主張する。
内外問わずそんな人は、創価学会がミスるのを
心待ちにしてるようにすら思う。
組織には組織のやりかたがある。


組織は必要ないと言えるくらいの強者になったから、
組織に頼っている成長過程の弱者は切り捨て、
足蹴にしようという人も多いんだよなあ。
蜘蛛の糸のカンダタみたいに。
【2006/10/09 11:24 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
豊かな時代になったよなあ
傷つき弱っている人のための信仰なはずなのに、
傷つき弱っている人に信仰を勧めると、
「弱味につけこんで勧誘する」と非難される時代だ。


自らの人生を呪い、右往左往し、
冷静な判断が出来ない人に対して、
「甘えるな。おまえの生き方は間違ってる」
と、言い切って何が悪いのだろう。


自らの人生を呪うことは悪だと思う。
自分は不幸だ自殺したいとか抜かすヤツは、
ひっぱたいてわからせるしかないだろう。
それが彼を思う人に対してどれだけ失礼なことか、
生んでくれた親に対してどれだけ失礼なことか。


自殺のニュースを聞くたびに、
この信仰に出会えていればよかったのにな、って思う。
この組織に出会えていればよかったのにな、って思う。
自殺する彼からすれば、この世の中は豊かではなく、
きっと最低な世の中に見えているはずだ。


彼にこそ、前向きで力強い信仰が必要なのではないのか。
彼のことを心から思ってくれる仲間が必要ではないのか。
「学会員は信仰を押し付けている」
「学会の信仰を条件とする条件付きの仲間だ」
なんて評論家みたいなことが言えるのは、
傷つき弱っている人が目の前に居る状況を想像する力がないからだ。


生きようとする力が弱っている者に必要なものは、
その人に寄り添い、話を聞き、
「一緒に頑張ろうよ」と励ますことだろう。


「押し付ける」という言葉がまかり通ることによって、
そのアクションを起こす敷居が高くなる。
「これは押しつけかも知れない」と躊躇するために、
タイミングを見過ごすことにもなりかねない。
直観に従うべきものを、頭で考えれば行動が遅れる。
頭で考えることで、自らがアクションを起こさないことを
正当化もできてしまうものだ。


弱っている者ほど、寂しい思いをしている者ほど、
自分の思っていることと反対のことを言うことも多い。
「ほっといてくれ!」と言う人は、
実はほっといてほしいと思っていないものだ。
これをほっとかずに「一緒に頑張ろう」と
言い続けることは「押し付け」か?
彼の言葉通りにほっといて、彼が自殺したとしたら、
見過ごした人の罪となるだろう。すごい後味わるいぞ。


冷静な判断を出来ない人にこそ、この信仰を勧めるべきだろう。
なぜ冷静な判断を出来ないかといえば、弱っているからであり、
その弱さを克服するための剣を与えることが必要なのだと思う。


誤解を受けるかも知れないが、もっと言えば、
既に冷静な判断を出来る人には信仰は必要ないとも言える。
冷静な判断を出来る人は既に「強者」なんだ。


インターネットのこの界隈を見渡す限り、実は弱者は存在しない。
彼らはみんな強者だ。豊かな力を持っている。
それでも弱者を装うから、僕は腹立たしいわけだけど。
自分の体験したこと思うことを冷静に判断し、
ネットで文章にして表現出来る能力を持っている。
自称弱者、エセ弱者に信仰は必要ない。
本当の弱者にこそ、この信仰は生きてくるのだろう。


本当に傷つき弱っている人のために、創価学会があり組織がある。
強者である僕は、弱者を守るために、この組織を護りたいと思う。
自分が冷静な判断が出来る強者になったからといって、
傷つき冷静な判断が出来ない弱者が集い、
励まし合って頑張ろうとしている組織を馬鹿にできないだろう。
エセ弱者よりも、前向きな弱者を僕は尊敬する。


自分が強者であるのならば、
弱者が強くなろうと頑張るその過程で犯す過ちの咎を、
かぶる覚悟でいなければならない。
創価学会はこれからも評判は悪いままだろう。
それでいいんだと思う。


前向きな弱者は、この社会と真っ正面から向き合って、
思いっきり試行錯誤して欲しいと思う。
その過程で、誰もが何度でもミステイクするだろう。
失敗を恐れてやらないよりも、やって失敗する方がいい。
強者である僕らは、そのフォローをしていけばいいことだ。


弱味につけこんで勧誘するのも大いに結構。
押し付けと言われるかもしれない勧誘も大いに結構。
どんどんやって欲しいと思う。
強者は陰で火消し役をやってればいいのだ。
【2006/10/08 10:03 】 | 未分類 | コメント(15) | トラックバック(0) | page top↑
負けた
20061005225228.jpg



くそー。
こっそり完成させて「簡単ですよこんなの」とか言いたかったのにw


http://blog.livedoor.jp/s3939/archives/50524204.html
http://blog.livedoor.jp/s3939/archives/50524991.html
http://blog.livedoor.jp/s3939/archives/50527380.html

関連記事
【2006/10/05 22:54 】 | 未分類 | コメント(8) | トラックバック(1) | page top↑
そうせざるをえない理由
昔、インターネットの掲示板で、
浜崎あゆみがライブで身体の不自由な人を揶揄したと
伝えられることがあって、祭りになっていたりしたわけだけれどもさ。
糸井重里のダーリンコラムを読んで納得した。


http://www.1101.com/darling_column/2002-02-12.html

「ダーリンコラム『愛子とあゆ』」


まあ、失言といえば失言なのだろう。
でも、やっぱせつないのよね。
有名になり、ある程度の影響力を持つと、
攻撃されっぱなしになるしかない場合も多い。


http://www.youtube.com/watch?v=2Y4CALFwgUY

「問題にされた発言の動画」


「一番前で観てるのにさ。座ってたよ。感じ悪いねー」
動画を観れば身内に冗談を言っているように見える。
浜崎あゆみなりのパフォーマンスとして僕は許せる。
でも、文字にすると誤解されるんだな。


インターネットで僕らが出来る表現は、
おおむね文字で文章を作ることだから、
文章を読むだけで状況を判断したり、
人柄を決めつけることは出来ないはずなんだけどね。


文字にしても誤解されないような表現をしなければ、
その意図を汲むことなく揚げ足取りをされることも多い。
特に有名になればなるほど、力を持てば持つほど。


「なんでそういうふうにしないのさ」と外野は責めるけれど、
そうせざるを得ない理由が必ずあるものだ。
サンドバッグのように打たれっぱなしでも、
黙ってコツコツやるしかない類のものもあるよね。
【2006/10/05 13:56 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
活動の功徳
功徳の源泉は「主体的に活動すること」だと思うなあ。
活動と書いたけれど、いわゆる学会活動だけを指すわけではなく、
一人ひとりが取り組むなんらかの活動のことを言っている。


学会の活動ってのは、創価学会が学会員に対して、
なんらかの活動する場所を提供しているだけだと思うんだよ。
主体的に活動する場所が見つからない人は、
学会の組織に付いて一所懸命活動すればよい。
だから、
「やりたいから学会活動をしている」ものだし、
「活動をさせていただいている」ものだろうよ。


主体的に活動できる場所を
自分で見つけられるのならば、
その場所で一所懸命活動すればいい。
仕事だって勉強だっていいんじゃないかな。
なにかを主体的に一所懸命やれば、
必ず何かを得られるものだろう。
それが活動の功徳だと思うんだ。


公明党の支援活動を一所懸命にやって、
その活動の中で何かをつかめれば、
それが功徳でしょう。


功徳といったってなんのことはない
自分でなにかを気づくことに過ぎないんだから。
天から降ってくるような功徳を期待することを、
乞食信心っていうんだよ。
乞食信心をやってる学会員は、
まだまだ境涯低いんじゃねえのかな。
【2006/10/03 12:10 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
プリキュア解散の話
『ふたりはプリキュア』のテレビシリーズのDVDを借りてきて観ている。
第8話『プリキュア解散! ぶっちゃけ早すぎ!?』が終わったとこ。
ケンカして仲直りする話はいいねぇ。


ほのかのおばあちゃんのセリフ
「ほのかはどうしたいんだい?
ほのかがどうしたいかが大事なことなんじゃないかしら。
合ってるか合ってないかは二の次。
ほのかにとってその人が大切な人ならなおさらね」



なぎさのおかあさんのセリフ
「ケンカをすることは悪いことじゃないでしょ。
だって、どうでもいい子とはケンカなんてしないでしょ」



相手に対して、勢いで放った心ない言葉は、
言葉でなんとかしようとしてもどうにもならない。
きっと、手を握ることでしか気持ちは伝わらない。
ネットという言葉だけのコミュニケーションの場で、
感情的にもつれた後、仲直りするのは相当難しいことだね。
【2006/10/01 10:24 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
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