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「られた」ことなんて存在しない
たぶん主体的に生きている証は、
「られた」を使わないことかもしれない。
傷つけられたとか押し付けられたとか、
そんな「られた」を持っている以上、
いつまでたっても幸せになれないんじゃないか。


まず、ひとつは「られ」という、
自分はなにも悪くないという姿勢、
もうひとつは「た」という過去をほじくりかえす姿勢、
そんな他人まかせで後ろ向きな気持ちを後生大事に抱えてるなんて、
今ある自分の生を無駄にし、冒涜していると本当に思う。
人生を楽しんで生きようとしていない時点で謗法だろう。


なにを思ってみんなはあなたを支えてくれてると思ってるの?
それを受けて今、あなたはどこに向かい、なにをしているの?


「よっしゃ難がきたぜ!」とガッツポーズ出来たり、
自分に起きるイベントをおもしろがるくらいの信心が欲しいね。
すべては自分が望んだことであり、
願兼於業だと自分に落とし込むことが
正しい学会員の姿勢だと思う。


だいたい日蓮の受けた難に比べれば、
あらゆる悩みは屁みたいなもんでしょ。
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【2006/12/30 09:04 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
あなたが指導者だったら?
アンチシンパのコンフリクトっていうのは、所詮
異文化コミュニケーションの問題なんだよな。
言葉の壁と、習慣の壁があるんですよ。
なにを迷惑とするかという問題だったり、
なにを押し付けとするかという問題だったりする。


いやね。こないだ中国に行ってきたんだけど、
中国の雰囲気やそこに生きる人々が好きになっちゃってさ。
中国や中国人を知ろうと、今、勉強中ですよ。


今では僕はすっかり親中派なんだけど、
親日派と反日派の対立とか、
親中派と反中派の対立とかと、
構図が同じなんだよな、アンチシンパの対立って。
(僕は親中且つ親日という、
見る人によっては微妙なポジションです。
以前は反中で親日でした)。


僕は中国に生きる人や今の中国の空気が好きだけれど、
日本人としての僕のタテマエからすれば中国共産党は好きではない
(日本や日本人は好きだけど、日本政府は嫌いという中国人もいる)。
だけど、中国共産党の方針や施策の意味は理解出来るようになった。
あんなに人間の数が多く、価値観も多様なでかい国を動かすには、
絶対に方便が必要なんだよね。
そして、あの大陸には13億の人間が住んでいるのは事実なんだわ。
13億人分の仏性があるわけですよ。
そのためになら日本という国が叩かれるくらい、
どうってことないかもしれん。


さて、そんなとこから創価学会にフィードバックしたときに、
信濃町がわかってくるんじゃないかな、なんて思う。
方便は必要だと思わんかい?


「もし自分が為政者だったら?」という
一歩踏み込んだ見方をしたり、
「歴史から見たら」とか「世界から見たら」という
鳥瞰的な見方をしたりして、
自分が一番良いと思うことを、自分の頭で考えて導き出し、
覚悟をして自分のポジションを採ること。
それが出来てこそ、はじめて「市民」といえるだろうし、
そこではじめて自由というものが見えてくるのだろうよ。
【2006/12/28 12:40 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
実はわかってるくせに
アンチは、自らを「気づいた人間」として偉そうに振る舞うけれど、
なんのことはない、学会コミュニティが嫌になって逃げただけだよね。
それに小賢しい理屈をつけるから、なんだか見苦しい。
「自分は悪くない、組織が悪い」と思いこみたがってるだけだよ。
でも「本当は自分が悪い」と、心の奥底ではわかってるんだろう。
理屈は後付けでしょう。


だから理屈と本心とのバランスが取れず精神を病むのだろう。


きっと後ろめたいという心理があるんだろうな。
お世話になった経験もあるのに、
後ろ足で砂を掛けてるわけだから。
実はそれをわかっていながら、
自分のプライドを守るために、
自己正当化するから心がかき乱される。
自身の後ろ暗いことは隠してるもんな。
なにかから逃げ出した自分が、
亡霊のように追いかけてきてるんだ。
【2006/12/28 12:24 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
人間の問題なんだよな
自分の仲間とか、自分の家族とか、
そういうものを守る気持ちが人間にはあって、
アンチがアンチのメンバーを守る構図は、
学会員が同志を守る構図と一緒なんだよな。


なんでもかんでもすぐに「学会問題だ」と
アンチはそこに収束させたがるけれど、
要は一人ひとりの人間の問題であり、
人間が集まった社会の問題なんだよ。


アンチも学会もコミュニティが出来れば構図は同じ。
仲間を「身びいき」するから外部とのコンフリクトが起きる。
ネットでの言った言わないの水掛け論は、
単に所属する陣営のメンバーに対するアピールに過ぎない。
だから、どんどん「理屈」に走り「人間」から離れていく。


また、「身びいき」しようとすれば、
ホンネとタテマエは存在しちゃうに決まってる。
ダブルスタンダードだなんだかんだ言うけど、
アンチだって同じだよ。


僕は「身びいき」という愛を肯定するので、
外部とのコンフリクトをなくそうなんて別段思ってない。
で、それなら創価学会で十分なんです。
学会の家に生まれたしね。家族の幸せが僕の幸せです。


アンチのために戦うか、学会員のために戦うか、
僕はどっちだってよかったんだけど、
アンチは自分で立とうとする気もないし、
ネガティブなことばっか言ってるから、
嫌になっちゃったというわけで。


口先だけでもまず勇ましいこと言って、
ポジティブにやろうと頑張る方が好きだな、俺は。
どうせダメだと思ってるヤツは、やっぱダメだよ。
「身びいき」を捨てた人は冷たいと思うしね。
【2006/12/28 09:18 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
just right now
やろうと思ったら今すぐに始めること。
それが大切なんだよな。
new year's resolutionが思いついたなら、
来年を待たずに、今、始めた方がいい。
年末年始というきっかけは、
なにかを「始める」ためだけにある。
思いついた瞬間に、年明けを待たずに始めても
悪い事なんてなにもない。


ちなみに来年、僕がやろうと決めていることは、
中国語とジャズダンスです。
だから中国語を勉強しはじめているし、
毎日ストレッチをやってます。


決意したら、ただちに行動を起こすこと。
三日坊主を恐れないこと。
他人の言うネガティブな言葉に耳を貸さないこと。
こういうのは広義で勇気だと思います。


他人が「無理だよ」と言っても、
確信を持ってやり続ければ、絶対に夢は叶うはず。
それを希望と呼ぶんだぜ。また、愚直な信心とも。


jazz-o.comのjazz-oさんは、いつも前向きで大好きです。
http://www.jazz-o.com/col_58.htm
【2006/12/24 00:50 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
利他のかけらもない
しかし、女同士のケンカってぇのは、みっともないねぇ(笑)。
だから女は…って思っちまうぜ。
あ、ホワイトナイト気取りの男の子もいますかね。
馬鹿はほっといて「いちぬけた~」って言える人が勝ちだよきっと。


しかし、誰も彼もが「傷つけられた」という錦の御旗を振りかざし、
相手の事情なんかおかまいなしで「我尊し」に取り憑かれてる。
こういうケースに一番の裁きは、きっと喧嘩両成敗なんだろうな。


なんだかんだ言って、参加している全ての人は、
自分のプライドを守るために必死になってるだけだよ。
相手を思いやる気持ちなんて、誰にも存在していない。
それが話をややこしくしちゃうもんなんだ。
思いやるフリをしている人はいっぱいいるけどな。


それにしてもそういえば、
八正道はどうしたのよ?
戒定慧の三学はどうしたのよ?
中道の精神は? 無常無我は?
自分を捨てる、はどうした? ヨゴレはどうした? 
普段学会員を蔑んで、偉そうに主張してるけどさ。
こういうときにこそ上手に使うものなんちゃうの?


俺は学会員だから十界を使って測るだけだけど、
単純に、みーんな修羅界なんじゃん?
【2006/12/19 23:43 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
ホントになんの利益もなかったの?
アンチの宣伝によって、創価学会は、
信濃町の一部の人間が利益を独占し、
一般会員は利益享受が出来ず、
上納金を吸い取られるだけ、
くらいに思われてしまっているかもしれないけれど、
全くそんなことはないと思うんだよ。


もちろん、きっと信濃町に悪い幹部はいるんでしょう。
それは想像出来ますよ。存在しないなどとは言わない。
だからこそ、聖教新聞で悪への罵倒を辞めないのでしょう。


だけど、信濃町の事情を知らず、不確実な情報を元に想像し、
やんややんやと批判するなんてなんの意味もないです。
そんなのはどうでもいいんですよ。一会員の出る幕じゃない。
もっと身の丈に応じた努力をしましょうよ。


着実に地域に根ざした、
自分を中心として同心円状に広がるコミュニティにこそ
創価学会組織があると思うんだな。


学会の草の根の組織というのは、
互助的側面が非常に強いコミュニティだと思う。
会員同士が助け合い守り合うところが強いです。
迷惑をかけられることを悪とする価値観に支配されている人には、
理解できないかも知れないけれど、
迷惑をかけたりかけられたりしながら、人間というものを知り、
迷惑をかけた方もかけられた方も成長していくわけです。
その価値観を是としているのが創価学会だと思う。


学会員一人ひとりが、
互いに利益享受出来ているんですよ。
それが何から生まれているかといえば、
地域の座談会での情報交換であったり、
励まし合いであったり、助け合いだったりするんです。
その担保になっているのは、
「創価学会は正義だ」「学会員は同志だ」ということではあります。
でも、いいじゃないですか、それならそれで。
それが互いを裏切らないという安心に繋がっているんです。


創価学会なんていうのは箱に過ぎないわけで、
本当に大切なのは「人と関わること」なんですよ。
その場を提供している創価学会を守りたいという気持ちで、
バリバリの活動家は日々戦ってくれてるわけです。
もちろん学会活動がイコール、
人と関わることになっているから、
一石二鳥なのでしょうけれど。


また、アンチがずっと創価学会にこだわり続け、
その呪縛から逃れられないのは、
そんな学会の地域の組織の誰かから、
助けられたり、支えられたり、学んだりして、
利益享受した経験があって、
その真心を踏みにじった自分が、
後ろめたいからじゃないですかね。
【2006/12/19 09:11 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(0) | page top↑
天に唾する者の報い
デマを元にした中傷で、
学会員はいつも苦しめられている。
根も葉もない噂から捏造された
週刊誌などの記事を根拠にして、
火のないところに煙は立たぬとばかりに、
正義の味方の面をして、
アンチは創価学会を攻撃し、
学会員を徹底的に痛めつける。


しかし、それは必ず「還著於本人」として現れる。
これを罰とも言う。
仏法用語を使わないで言えば、
つまりは「自業自得」ってことだ。
理不尽なことを言われても耐えてきた学会員の苦しみを、
アンチも思い知るのがいいと思う。


まあ、それはそうとして、
きっとコンフリクトを解く鍵は、外野のいないところで、
フェイストゥフェイスで対話することだろうな。
どちらが一方が対話を拒否するなら、
拒否する方が後ろめたいことを抱えてるんだろう、きっと。


いろんな思惑が錯綜するこの界隈ですからね。
何が本当で、何が嘘か、
何が本心の訴えで、何が釣りか、
実はそんなのわかりっこないんですよ。


外野にとっては、いつでも真実は「藪の中」。
どちらの当事者も、自分に有利なことしか言わないに決まってる。
自分のストーリーがさも真実のように言うに決まってますよ。
片方から聞いた情報だけで判断した外野が、
ヘタに介入するから、事態は複雑化し悪化する。
本当に当事者を思う気持ちがあるのなら、
外野は放置してあげるべきだよな。


まあ、煽りたいなら別だけど(笑)。
【2006/12/18 19:27 】 | 未分類 | コメント(6) | トラックバック(0) | page top↑
バカはほっとくに限る
僕が身をもって伝えたいことの一つに、
「バカはほっとけ」ってのがあるな。
俺は、相手をするに値しないバカには、
なにを言われようと平気だし、
どんな挑発にも乗らないもの。


基本的にアンチという存在は、
学会員を傷つけるのが使命だと思っていて、
そうやって相手を痛めつけることで、
自分の精神のバランスを取っている
ただのバカなんですよ。
そんな風に決めつけても、
全然平気だと思います。


だって、そんなアンチさん、
何人も思い浮かぶでしょ?(笑)
(そんなアンチは、学会員だった時代も、
同じように振る舞っていて、周囲から
浮いた存在になってたのかもしれないね)


つまりはこちらが傷ついて、
しょんぼりしてしまえば、
アンチの思うつぼなんだな。
「もっと反省しろ」
「もっと謙虚になれ」
「もっと謝罪しろ」
「もっと傷つけ」
そう繰り返してるのがアンチですから。


「私はそうじゃない」って主張するアンチも居るけど、
そんなアンチだって、アンチの仲間を
注意することなんてほとんどない。
「それだけ大変な思いをされたんですね」
なんて上っ面の耳障りのいいこと言うだけです。
まあ、偉そうなことを言ってても、
泥をかぶりたくないだけなのよ。


まあ、そんなバカどもはほっといて、
元気にやりたいことをやってるのが一番です。
【2006/12/18 12:37 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
クリスチャンになれば?
ふと思った。
今の創価学会が気にくわない学会員は、
いっそのことキリスト教に改宗すればいいんじゃないかな?


創価学会の主張って厳しいものだし、
ものごとの責任を一人ひとりに帰結させる、
徹底的な個人主義だと思う。
いっとくけど、日蓮の主張も同じですよ。


それについていけない依存体質の人って多い。
現在弱い人に対して、
「あなた自身が強くなろうよ。強くなることが幸せになることだよ」
とオススメする宗教なんだよね。
それが傷口に塩を塗ると解釈されちゃうこともあるんだわ。


創価学会の哲学が、僕の哲学と合致しているのは、
「自分自身が強くなることが幸せになることだ」
というところなんだよね。
強くなるためには、努力もいるし根気もいる。
決して神の意志には任せない。
決して運命には任せない。
天から降ってくるご利益を期待するオカルト宗教じゃないです。
すべては自分のせいだと引き受ける。


それを放棄するなら、どうぞキリスト教へ。
仏教でいうなら、さしずめ念仏かな。
どうぞ迷える子羊になってください。
【2006/12/15 23:39 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
またひとつ~星がきえ~るよ~♪
アンチが離合集散を繰り返すのって、
要は信念がないからなんだよなー。
つまり、物事に反対することで、
アイデンティティを保とうとする人種なのよ。
彼らに「こうしたい」という意志は存在しないからね。


まあ、創価学会があってこそのアンチだからなあ。
学会が無くなっちゃったら、アンチは存在出来ないわけで。
アンチ同士で仲良しごっこが出来るのは、
学会が存在するおかげじゃんか。
ありがとうくらい言ってもいいんじゃね(笑)。
【2006/12/14 23:03 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
傷なんてどうでもいいじゃん
口を開いて主張をすれば、結果誰かを傷つけるものだ。
その覚悟がないなら、最初から黙ってろって感じだわ。
まあ、「私は傷つけられた」という錦の御旗を掲げ、
相手の口を封じようとする方もいやらしいが。


傷つけることも傷つけられることも、
言葉のやりとりをする限りそんなの当たり前だ、
テーマとして「人の信じるもの」を扱うなら特に。


その自覚がないならば、
ネットという意見交換のツールを使って
「考える」ことなんて出来ないだろう。
馴れ合いの仲良しごっこがやりたいなら、
クローズドなりメールなりでやりゃいいじゃん。


そういや、
クローズドでのやりとりをオープンな場所で晒し、
自己正当化の材料にするのも卑劣だよな。
【2006/12/13 19:29 】 | 未分類 | コメント(12) | トラックバック(0) | page top↑
師弟について思うこと
学会上層幹部の政治や思惑はどうでもいいんだが、
学会員の一人として、良心的に日蓮を解釈すれば、
「日蓮のように生きる」ってことが師弟なんだろう。


今、聖教新聞で師弟師弟と強調してるのは、
「師弟」という概念というかモデルについて、
学会員一人ひとりが考えなさいというメッセージが
含まれてると思うんだな。


そんな風に考えることが出来ない人には、
学会は「手っ取り早く池田氏を師匠としておけば?」って
オススメしてるだけだと思う。
師匠を持つ機会は、庶民にとってはなかなかないことだから、
「池田氏を師匠とする生き方モデル」を、
学会が提供してるだけなんだな。
池田氏の生き方には、日蓮の振る舞いのエッセンスがあるからね。


誰を師匠として選ぶかは個人の自由です。
その上で多くの学会員は池田氏を師匠と決めているわけで。
自らの責任で、他の人を師匠と決めたっていいと思うよ。
要は「誰のように生きるか」ということを決めることです。


師匠がいるってのは幸せなことだからね。
これは本当に思う。お手本であり「真似る対象」ですから。


「池田氏はどうでもいいや、私の師匠は日蓮だけ」
ってな学会員だって存在してるし、それを学会は許してる。
組織内部で仲良しごっこをやりたいと思わないなら、
無理に池田門下を意識しなくてもいいと思うよ。
そのへんは自由よね。


南無妙法蓮華経は遍く存在してるわけですから。
【2006/12/12 09:03 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
犬のメメさんへ、ルカによる福音書23章34節より
阿刀田高氏の本はまだ読んでないです(^^;
「旧約聖書を知っていますか」を読み始めたんですが、
どうも冗長で途中で読まなくなっちゃったんです。


なるほどね。「マタイによる福音書」から読めばいいのか。
キリスト教というか聖書って、文系の教養ですよね。
一通りは知っておきたいとは思っているのですが、
その前に世界史の把握だよな、と思って今は世界史を
もう一度勉強し始めているところです。
で、そんなのはいいとして、
「ルカによる福音書」のメメさんの引いたくだりについてですけど。


>「父よ、彼らをらをお赦しください。
>自分が何をしているのか知らないのです。」


まあ、切り文だけで判断も出来ないから、聖書を開いてみた。
とりあえずルカの23と24を読んでみましたよ。


民衆に影響を与える人は、たいてい迫害を受けるもので、
そのきっかけは裏切り者により、
たとえ識者が正しい判断をしようとしても、民衆が愚かなら、
その声に流される(「ルカ23:22~25」より)ものだなあ、
なーんてのが、僕の感想です。


さて、僕ら学会員からすると、ユダというのは、
法華経の文脈では提婆達多であり、
創価学会の文脈では、山崎正智だったりするわけですが、
こういう存在を「赦す」かどうかの問題を、
犬のメメさんは問いたいんじゃないでしょうか?


二項対立させちゃって、
多少キリスト教に対して意地悪気味な解釈かもしれないですけど、
このシーンに、日蓮とイエスの顕著な違いが、あると僕は思います。


イエスはが「お赦しください」と言ったときの心情を考えると、
たぶんそれは「あきらめ」だと思うんですね。
「この人たちになにを言っても無駄だ」というような。
彼らに対して、自分を弁明することも、彼らを教導することも、
「どうにもならない」と、あきらめた。


日蓮は、竜の口で首の座につながれるわけですが、
そのときもなお、あきらめなかった。
「自分は正しい」という姿勢を崩さなかったし、
自分の首を切ろうとする者まで教導しようと決意していた。


犬のメメさんは史実でないことにも価値をおいてらっしゃるから、
話す気にはなるんですけど、
竜の口で日蓮がまさに首をきられんとするとき、
夜空に光る物体が現れてみんな逃げていった、
ってなエピソードだって史実かどうかなんてわかんないんですわ。
だけど、学会員はそのストーリーを信じて、人生を戦う支えにする
(文献の真偽に囚われる人はこのへんが分かってないんですが)。


学会員がイエスではなく日蓮に惹かれているのは、
この「最後まであきらめない」姿勢だったり、
「悪は絶対赦さない」という姿勢だったりします。


キリスト教は、きっとユダまでも赦すのでしょう、
「自分が何をしているのか知らない」という理由で。
僕ら学会員は、「知らない」という理由ではユダ的存在は赦しません。
また「なにを言っても無駄」とも思いません。
「ユダに正しいことを教えなければならない」という使命を感じ、
命をかけても、わかるまで愚直に言い続けるわけです。


仏教的な文脈で言うのならば、ユダ的存在は、
そのままでいれば大きな業を背負うことになります。
その悪を指摘し、わからせ、やめさせることで、
彼は業を一つ取り除くことが出来る。
だから「悪を責めることは慈悲だ」と、学会員は言うわけです。
悪を見て放置していれば、それは与同罪(連帯責任)だとも。


まあ、僕はそんな感じのことを考えましたよ。
僕はあきらめちゃいないから、悪口罵詈されても、
これからも正しいと思うことをコツコツ主張し続けますよ(笑)。


>「意外と信じてるな、俺。キリスト教」


こういう犬のメメさんは好きですよ。
人間対人間として話が出来るような気がします。
なんのポジションも選べない人よりずっと好きです。


あとね、あとね。
「ルカ23:35~39」みたいなこと、アンチが言いそうですよね~。
まあ、言われれば闘志が湧くのが学会員ですが。


ちなみに僕が持ってる聖書は「ものみの塔」の新世界訳(笑)。
【2006/12/11 10:17 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(1) | page top↑
『ななつのこ』感想
ハードディスクの整理をしていて、
ボツにした文章をチェックしてたんだが、
こんなもんが見つかったのでアップしてみる。
加納朋子『ななつのこ』の感想文です。
青い文字は本文の引用です。
随分前に書いたものなので、
きっと賞味期限切れだが(笑)。



 私は思うのですが、人の世というものはまるで、暗闇のビリヤードのようなものではありませんか?
 皆がてんでにキューを持ち、目の前の玉を無造作に突き動かします。くるくる、くるくると玉は回転し、他の玉にぶつかり、跳ね返り、また別の玉を突き動かし……。
 そしてくるくる、くるくる回転し続け……。やがてはそれと気づかないうちに、自分自身の運命すら、突き動かしているのかもしれないのです。



ある行為や言葉から悪意を感じることがある。
でもその悪意は、本当に最初から悪意だったのかな。
最初は、もしかしたら善意のつもりだったのかもしれない。
狙った玉に当たらなかったり、
不用意に突いた玉が跳ね返って予想外の玉にぶつかったり…。
どこかの玉に当たらないようにするために、
やむをえずそちらにしか突けなかったり…。


誰かの悪意で人は傷つくのだけれど、
その誰かのそれをしなければならなかったり、
それをしないではいられなかった心情を、
想像してあげられないものだろうか。



 今の私を知っている人は、きっと誰も信用しないに違いないが、昔の私は、本当におとなしく内向的な子供だったのだ。
 いつも本ばかり読んでいた。でなければ、文字通り夢みたいなことばかり空想していた。何年生のときだったか、保健体育の教科書の中で、それらの行為が<逃避>という冷ややかな言葉でかたづけられていることを知り、私は深く傷ついた。



心理学の用語って、僕も苦手。
ひとことでは語りきれない心を、
一つの単語でバッサリとカテゴライズする。
やれ<投影>だ、やれ<合理化>だ。
そんな単語から、僕は物知り顔の意地悪さを感じる。
「あなた知らないの? それ<投影>っていうのよ」
そんな上からみおろす冷酷な響きを持っていると思う。
僕は文系人間だから、なおのことそう思うのかもしれないけれど。


そんなに冷たく分析して、なにが楽しいのだろうと思う。
人生や人の心はそんなもので、
はかれないと信じていてもいいんじゃないか。
わからないからこそ、割り切れないからこそ、
人ってやさしくなれるんじゃないのかな。


想像の余地、空想の余地を失ったとき、
人って希望を失ってしまうような気がする。
わからないことはわからないままにそっとしておくやさしさが欲しい。
秘密を暴きたがる者と、秘密を守りたがる者。
僕は「親切な秘密主義者」に共感出来る。
人はみんな、他人のみていないところでよかれと思うことをしている。
そんな風に人間を信じていきたいと思うんだ。


いや、違うな。
わからないことをわからないままにそっとしておくのではなく、
わからないことをわかったとしても、
そっとしておくやさしさを身につけたいと思う。


人生という推理小説を生きている僕らは、
等身大で生きていくなかで自分にまつわる謎の
答えを探すのが面白いのではないか。
「犯人はヤツだ!」
そんな指摘をしてもなんだかむなしくなってしまうんだ。
【2006/12/07 18:47 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
社会的なまはげ
「泣く子はいねーかー」と言って家々をまわる「なまはげ」。
そんななまはげ的な人が居なくなってしまったことが、
日本をおかしくしているのではないか。


なまはげは子供に怖がられる存在で、
言うとおりにしないとなにをされるかわからない。
いってみれば、力を持った罰的存在なわけだ。


今、罰的存在を社会から抹殺しようとしているのが、
アンチの言ってることだし、現代日本の傾向だろう。
「押し付けず、傷つけず、みんな仲良く」
というお題目を唱えていれば、
差別もいじめも、人と人との葛藤も、
みんな解消するくらいに思ってる。


親にだって威厳はない。
たとえば友達のように子供に接する親がいる。
それを奨励するような定説を唱える育児の権威がいる。
そんなしつけを(そもそもしつけと呼べるのか?)
受けた子供は、大人になって苦労する。
上からものを言われる耐性がついていないからだ。
(そんな大人が、今ネットのこの界隈で、
「私は傷つけられました」なんて強調し、
人権や平等というコトバを盾にして騒いでる)


彼らはなまはげ的な存在に出会わずに育った。
だから、なまはげ的な存在に対して拒否反応を示す。
「罰はないよ」などといって、罰を直視できないわけだ。


僕の言っていることは、なまはげ的です。
創価学会の言ってることもだいたい同じです。


「無責任な子はいねーかー」
「弱い子はいねーかー」
「負けてる子はいねーかー」


無責任なことも、弱いことも、負けることも、
人間として滅するべき「悪」であります。
これらを肯定するのなら、その人は「悪人」です。
【2006/12/07 09:17 】 | 未分類 | コメント(18) | トラックバック(0) | page top↑
正義は勝つこと
今の日本人って「正義は勝つ」という言葉に対する
アレルギーがあるだけなんだよな。
まず、これから払拭しないと、
まともな国にはならない気がする。
大切なのは「正義」への懐疑でも否定でもなく、
「正義」の正しい運用なんだよね。
それを、一人ひとりが意識出来るようになることが大切であって、
その過程で試行錯誤するときに人様にかける迷惑に対しては、
社会全体で大目に見てやるってことは出来ないのかね…。


正義は勝ってくれないと、みんな困るでしょう?
正義は勝たなければいけないということを、
一人ひとりが意識しながら行動し、
悪がまかり通らない社会を造っていこうと言いたい。


「正義」というのは確実に存在する。
存在しないと言う論者は目が節穴か、方便を使ってるだけだろう。
僕らは「正義ってなんだろう?」という問いを心に抱きながら、
今の生活をランニングしてくしかないわけで、
それを放棄するのは人間としてどうよ、って思っちゃう。
羮に懲りて膾を吹くでは、どこにもいけないじゃないか。


単純な二元論で割り切れないという意見もわかるけれども、
民衆は、どこかで線を引かないと、
どっちにいっていいか迷ってしまう。
一人ひとりの持つせっかくの力の使い道がわからない。
これが日本の民衆の現状なんじゃないの?


今の日本には「正義」がない。
ちょっと一足飛びかもしれないけれど、
だから日本では精神を病む者が増えている。
彼らはなにが「正義」だかわからなくなっているんだと思う。
人間は、自分が正しいことをしているという自覚があり自信があれば、
かなりの辛いことにも耐えることが出来るものだ。
その「自信を与える装置」が、今の日本に存在しなくなった。


たとえば高度成長期。
日本を復興させるということがわかりやすい正義だった。
そのために汗を流すことを厭わなかった先人を、僕は尊敬する。
過労という意味では、今より彼らは過労だったはずだ。
ガンバリズムが否定されるとき、人間の目が死ぬ。


なにに対して頑張ればいいのかが、多くの人間がわからなくなった。
その頑張る対象は自分自身が決める時代となったのだと思う。
自分なりの「正義」を見いださなくてはならない。
これが価値観の多様化であり、「自己責任」の時代なんだ。


「自己責任」を自分で意識して、
自分で周囲の現状を見極め、自分がリスクテイクして、
自分で選択し決めることが出来る人は問題ない。
頑張る対象を自分の力で見いだせない人間を、
じゃあ、社会がどうやって救うべきか。
現実的には、仮にでもなんらかの「正義」を与えてやり、
仮にでもなんらかの行動、活動をさせてやることが、
わりかし妥当なのではないかと思う。
というよりも、一つの方法論としてはアリだ。


とりあえず、ここまで考えると、
安易に創価学会の活動を否定出来なくなる。
創価学会は、学会員一人ひとりに「自信を与える装置」になっている。


僕は脱会を否定しない。
自分自身の「正義」や「自信」を自ら見いだして行動し、
その責任を自分で負う覚悟があるのなら「どうぞ」と言いたい。


でも僕がこの界隈を眺める限り、
迷える脱会者が多いように思うんだ。
本当に「自己責任」を意識出来るだけの強さを持っているか?
アンチな人がもっともらしいことを言っているけれども、
その人は、正義を持ち自信を持って生きているか?
生き生きと生き甲斐を持って生きているか?


それが出来ないのなら、
せっかく近くに創価学会があったのなら、
創価学会を使っておけばよかったんじゃないの?
いや、今からでも学会に戻ればいいんじゃないの?
って思うわけだ。


正義は存在する。
その正義を自分が決めるのか、なにか「装置」に決めてもらうのか。
それだけの違いなのであって、どっちだって等価です。
そのための創価学会という組織なんじゃないか、って思うんだよ。
だから僕は学会員を馬鹿に出来ないし、
頑張って活動している者を馬鹿にする人を諫めたい。


いいじゃねえか、頑張ってるんだから。
頑張っていれば、その瞬間こそが幸福だと思う。
そんな人を不幸だと見下げるような人の方が不幸だよ。
少なくとも正義ではないと思う。


…ってなことを、平原綾香の歌う
「CHRISTMAS LIST」という曲から連想したのでした。
【2006/12/05 11:11 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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