『創価学会問題をぶつぶつ語るパート2』って感じ(笑)。テキトーに書くこともさることながら、あちこちでgizmoが書き散らしたのを集めてたりもする。平気でマルチポストします(ぉ)。
つらつらと思い返してみるに、アンチが嫌になっちゃったのって、
人間の向上心を否定してるってわかったからなんだよな。 結局、アンチの心の奥底にあるのは、人間の弱さなんだわ。 その人間の弱さを肯定してしまったら、 おしまいだと思うわけ、俺的には。 自分の弱さを認識した上で、それを否定し向上心を持つこと。 今日は、昨日の自分とは違う一歩を踏み出すこと。 馴れ合いではない自分なりの価値観を持つこと。 環境や他人に責任を転嫁しないこと。 創価学会や多くの学会員に対するアンチテーゼは、 上に挙げたようなことが主だと思ってたんだな、僕は。 学会員は組織に依存している、 だからそうではない一人になろう。 学会員は馴れ合っていて個として存在出来てない、 だからそうではない一人になろう。 創価学会を卒業して、より優れた人格を磨こう。 そんな前向きな強いメッセージを発信してこそ、 アンチの意味があるだろう。 でも最近は、そんなこと言うアンチは居なくなった。 「悩みをもつのが自分だけじゃなかった」ということだけが 今のアンチの連帯の核となってるんだな。 実はこれが弱さの源でしょう。 自分と同類を探してくっつきたいという心理です。 僕がアンチの片棒を担いでいたとき、まだアンチの中には、 「創価学会問題から目を反らさず、あなたが考え抜け」 というメッセージがあったと思う。 学会の書物も、アンチの書物も、両方読んで考えろ。 考え抜くことによって、自分なりの結論を出せ。 そんなことを言っていた。 最近の潮流は、 「学会については考える必要もない、放棄せよ」 というのが主流だろう。 「僕らは学会について考えることで苦しめられてきた。 もう考えることをやめよう」 そんな思想が蔓延し、古参のアンチもそれを許してる。 「悩みをもつのは自分だけじゃなかった。 もう学会について悩まなくていいんだ」 と、安心させることが、その人を救うことでは断じてない。 彼らは創価学会の書物を読むと、 「創価脳」になるくらいのことを言うけど、 どこの新興宗教だよ、って僕は思う。 「調べて調べて考えて考えて自分なりの結論をみつけよ」 アンチがそう主張し続けていたのならば、 僕はもしかしたらまだアンチの味方をやってたかもしれない。 考え抜け、悩み抜け、そんな言葉はもうアンチから聞こえなくなった。 確かに創価学会批判の体裁をとるブログは増えた。 でも、多くは自分のことしか頭にない者ばかりじゃないか。 ネットに参入する敷居が下がったことで、 批判者全体の質も下がったのかもしれないが、 古参のアンチの主張としては、それを許してはならないでしょう。 なぜかならば、それを許せば 「学会員は修行中の身であるから云々」 と言う学会員を許すことになる。 学会員は「いろんな人がいるから」を言い訳として使うし、 このことをアンチは責めていたはずじゃないか。 でも今や、アンチだってそう言わざるを得なくなってきた。 (これらの状況を俯瞰的に眺めると、 昔、僕が学会問題として考えていたものというのは、 ある一定数の人間が集まると必ず起きる問題だと 捉えるのが妥当だと今は思ってる。) 実際、結局こうなってくると、 古参のアンチはどっちを取るかということになる。 未熟なアンチを認めるか、認めないか。 認めなければスジは通せるが、少数派となる (少数派となれば「少数派の我々の正しい意見が 通らないから社会は悪」という外山恒一の主張と同じ構造になる) 認めれば創価学会と同じになる。 まあ、今考えてみると結局、 なんだかんだ言っても僕はこれを「認めた」んだな。 認めたから創価学会と同じになってしまい、 創価学会を批判できる立場になくなったわけだ。 僕はスジを通すのをあきらめた軟弱者かもしれんが、 でも実際のところ古参のアンチもあきらめてるでしょ? 「放棄すること」を認めた時点で、僕はそう思ったな。 でも僕は「認めた」としても、弱さを肯定してはいないから 「弱さは悪だ、強く生きよう」と言い続けている。 アンチであってもシンパであっても、あんま変わらないかもよ。 だったら、学会員のままでも全然いいじゃん、と思うわけ。 僕は「強く生きよう」というメッセージを発したいと思うけれど、 アンチの陣営に居てそれを主張するよりも、 シンパの陣営に居てそれを主張していた方が自然だしね。 創価学会の思想と僕の思想は、方向性として合致するんだもの。 やっぱくるっとまわって、今のポジションに居るんだよな。 スポンサーサイト
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外山恒一の政見放送を見て、ちょっと、
僕自身も衝撃と言っちゃ大げさだけれども、 考えさせられるような気がしましたよ。 僕なんかもヘラヘラ見ている口ですけど、 単純な話、我々は彼の言うところの多数派に属し、 彼の敵であるわけだから、我々も彼や彼の思想を、 敵視し、淡々と撃破すれば良いことなのでしょう。 「多数派ですがなにか?」という姿勢です。 多数派に所属する我々は、彼をして「下らない国」と 言わしめる日本の国や、そのシステムを 維持し続けたいと願っている。 少数派からみれば、選挙で何かが変わると思ったら 大間違いというのは、実質その通りですものね。 彼ら少数派が、我々多数派の維持しようとする このシステムを滅ぼそうとするのなら、 その少数派を断固たたきつぶすしかないです。 と、まあ少数派多数派という分類に 実はトリックがあるわけですけど(笑)。 僕が思いついたことでは、たとえば、 僕が「この界隈」と呼ぶネットの、一部学会アンチの メンタリティはこの外山恒一の思想に近いよなあ、とか。 彼らは創価学会から弾き出された「少数派」でしょう。 先鋭化した元学会活動家の現アンチ思想家は 「どんなに内部改革を叫んでも、創価学会は変わらない」 「こんな創価学会はもう滅ぼすべきだ」 という主張をしますからねえ。 それはそうと、バランス感覚を持つ市民として 「外山恒一という存在自体が冗談だ」 くらいの捉え方を、全ての人が出来れば良いんですが、 まあ、そうはいかないでしょうね。 ある程度の少なからずの人が本気で共感しちゃうでしょう。 彼のページを眺めてみるとオタクが飛びつきそうな ロジックと単語で、それらしいこと書いてありますしねえ。 こうなっちゃうと、教祖と信者の関係となって、 宗教となんら変わらなくなってしまうわけですなあ。 彼は政見放送を布教に使った 新興宗教と捉えることも出来そうです。 そう考えると、文字通り国を滅ぼそうとする邪宗ですね。 関連URL: youtube http://www.youtube.com/watch?v=ccwpbsJsWvM 政見放送テキスト http://mellowmoon.blog93.fc2.com/blog-entry-31.html 外山恒一のページ http://www.warewaredan.com/contents/ |
http://www.asahi.com/life/update/0321/008.html
すげえもんだなあ。 こんな風に生きたいね。 ちょっとした隙間を突破口にするのだ。 魚拓 http://megalodon.jp/?url=http://www.asahi.com/life/update/0321/008.html&date=20070321083555 |
左右陣営の思惑のフィルターを通した評価を除外すれば、
ウィンストンチャーチルから学べることはあるかもしれない。 ウィキペディア「ウィンストン・チャーチル」 「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす。」 「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである。」 だそうな。なかなか良いことを言う。 また、ウィキペディアによると(まあ、ウィキペディアだけどね)、 Vサインはチャーチルがはじめたのがきっかけだそうな。 ウィキペディア「ピースサイン」 そう言えば池田名誉会長は、 よく両手でVサインを作り高々と掲げるが、 あれは「戦争の継続と勝利への強い意欲を表現」している のではあるまいか。 とは言っても、池田的には著書人間革命からもわかる通り、 戦争反対の立場であるから、ここでの「戦争」は 宗教的な意味での己心の魔との戦いと解釈するべきだろう。 このへんが一般から誤解されるのだけれども。 戦争行為というものを否定しながら、 己心での戦いを放棄することなく 絶対に勝利するという強い意欲を持ち続けること。 ここに仏法的な妙があると思うな。 |
自分の身が現在の状態から変化するときに、
人間は痛みを感じるものだ。 その痛みは苦しいものであるし、 出来れば避けたいと思うのが人情かもしれない。 この成長のための痛みを、 肯定するのが学会精神と言える。 だから創価学会は嫌われる。 親に「勉強しなさい」と言われているようなものだからだ (「わかってるよそんなの」と言って反抗する子供は、 たいていそれがわかっちゃいない)。 そして、その痛みから、苦しみから、 逃げてもいいよというのが、 仏教という皮を被ったアンチ思想だ。 例えて言えば、勉強したくない子供に、 「勉強しなくていいよ」と甘やかす親のようなものだ。 そんな思想に浸かってしまえば、 成長が止まってしまうのは当たり前だろう。 日蓮が念仏を邪宗だと言い切った真意には、 このことがあると僕は思う。 ラクになるとは、成長を放棄することです。 逆説的だが、本当の抜苦与楽とは、 自らが苦を引き受ける決意をしたときに生まれる。 今の自分と自分をとりまく環境を変えられないのなら、 どこに行っても、いつまでも苦は追いかけてくる。 |
山一証券の破綻について調べていたのだけれど、
野澤正平氏って立派な人だなあ。尊敬出来る。 十字架を背負い続けるということは生半可じゃ出来ないよな。 自分の運命から逃げない大切さ教えられる。 山一廃業のときには、本当に辛かったろう。 それでも逃げたり投げ出したりはしなかった。 そのことで責める人もいるだろうが、助ける人もいる。 それが人間社会の暖かさでもある。 僕もそれを信じていたいと思う。 氏は現在日産センチュリー証券の社長だけれども、 「返り咲いた」という表現は合わないだろう。 恩ある人に対し義を尽くして、 自分が経験したことを生かし、 使命を生きているように思う。 社長という役割の者こそが一番の下僕であることを、 心の底でよくわかっているんだろう。 人相悪いけどな(笑)。 古いけど日経のインタビュー記事 新社長を直撃! センチュリー証券 その1〜大株主の熱意を意気に感じて証券界に復帰 新社長を直撃! センチュリー証券 その2〜山一證券の十字架を背負い続ける 新社長を直撃! センチュリー証券 その3〜社員は会社があるから働ける ウィキペディアではこんな感じ 野澤正平 |
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