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令顛倒衆生 雖近而不見
あきらめていいこととあきらめてはいけないことが、
あるような気がする。
僕が嫌いなのは「どうせ」という言葉に象徴されるような
あきらめて無気力になってしまうことを是とすることだ。


世の中が悪くなったと嘆くのなら、
それを変えるために、まずは自分から
変わっていけばいいと思う。


モラルの失われた社会が悪いと、
わかった風に言う人がいるけれど、
人として大切な道徳は社会から消え去ってしまったのではなく、
実は、そういう風に社会を評価する
あなた自身の中から消えてしまったに過ぎない。
他人になんと言われようとも、どう評価されようとも、
大切だと思うことがあるならば、自分の中にこそ
それを灯し続けることが仏道ではないか。


世の中をネガティブに見たとき、
その人はこの世の中をあきらめている。
そんなときは、人からのありがたい行為も
なにか裏があるんじゃないかと、うがって見るものだ。


それこそ正しく世の中を見れば、
人というのは親切だし、助け合って生きている。
「やっぱり人間っていいよね」って思えないのは、
やっぱりどこかでひねくれているんだろう。


僕はどんなに馬鹿にされようとも、
人は親切だし素敵なものだという価値観を持ち続け、
嘆いたりあきらめたりすることなくそう主張していたいと思う。
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【2007/04/29 02:26 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
アンチに覚悟はあるか
アンチというのは、ある現在の状況に対して
反対のことを唱えているわけだから、
現在の状況を可としている側からの
批判にさらされるのは当たり前なんですよね。


少なくともシンパはアンチから批判されるのは
当然という覚悟を持っています。
じゃあアンチも当然そうかと思えばそうでもない。
ここがアンチの都合の良いところだと思うわけです。


アンチは全然フェアじゃない。
創価学会や学会員のことは、
「カルト」だの「創価脳」だの「気づいてない人」だのと
差別的に罵倒するくせに、
ひるがえって自分たちの方が悪く言われたら、
傷つけられただの、人権がどうのと、言い出す。
こういうのをご都合主義と言うんだ。


そもそもアンチは、創価学会はご都合主義だと言いたいんでしょ?
だったら、自分らがまずご都合主義をやめなさいよ。


まともな学会員は不軽菩薩の精神を持ってます。
だからこそ批判にさらされても平気だし、
それを元に、さらに考えることが出来るわけです。
今、客観的にこの界隈を見渡したところ、
「考える」という視点で言えば、アンチよりもシンパの方が、
冷静にものごとを考えていると思いますよ。


たいていの場合、批判されて取り乱すのはアンチの方です。
そりゃ昔は、シンパも取り乱していたかもしれません。
アンチ的な言論に対し血相を変えて、
削除要求なんてのもしていたかもしれません。
でも、学会員は日々考えて変化し成長していきます。
インターネットというものを学び、
その使い方を自分のものにしているのでしょう。


ふと気づいてみれば、ちょっとした批判をされて、
キレて自分を見失い事件を起こすのは、
昔は必死なシンパだったかもしれないけれど、
今はアンチがそうなってしまったと思うんですよね。


「アンチの覚悟」とでもいうべきものが、
最近のこの界隈では失われているのでしょう。
【2007/04/28 12:50 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
真剣に取り組むこと
人生に対して真剣に取り組んでいないから、
アンチになってしまうのだろうな、なんて思う。
アンチというのはそもそも恵まれた強者だと思う。
なぜなら、人生に対して真剣に取り組まなくても
許される環境と能力を持っているからだ。


「学会員必死だな」と言ってのけるとき、
その人は必死でないということであり、
必死な者を上から馬鹿にする意地の悪さある。


真剣にならずにすんでいるから、真剣な人を笑う。
いや、心の奥底に真剣になれない自分がいて、
真剣な人を妬む心理の裏返しなのかもしれない。


もし苦しみを抱えていて、それを克服したいと
願うのなら真剣になればいい。


そして、真剣になればなんだって解決するということを
信じることが信心だし、創価学会の教えの根本だと思う。
「祈りはすべて絶対に叶う」とはそういうことだし、
「不可能を可能にする」とはそういうことだ。
そう言い切れるからこそ、願いは叶う。


学会員であろうとなかろうと、
もしその人が真剣であるのならば、
学会精神と同じものを持っていると思うし、
僕はその人を尊敬します。
【2007/04/24 07:55 】 | 未分類 | コメント(16) | トラックバック(0) | page top↑
この界隈の公私
もはや自分の言説を正当化するためには、
本来私信であるはずの個人間のメールすら、
平気で公にされるのが、この界隈であります。


ひとつ言えることは、単純に、
警戒した方がいいってことです。
「君と僕との秘密だよ」というのが、
本来のメールのありかたのはずだと思いますが、
それを平気で公の場に晒す人間が存在するってことです。
この界隈は、もはや「なんでもあり」です。


僕は私的にいただいたメールに関しては、
公に晒すことはしないことを誓うし、
それが人間として最低限自分に課する、
制限だと思っていますが、この界隈には
「すべての情報は開示すべし」というような
信念を持った方もいらっしゃいます。


そもそもこの界隈は信用に足るコミュニティではないのですよ。
誰かに打ち明けたあの話は、明日掲示板に晒されるかもしれません。
彼の人に打ち明けてしまった人はご愁傷様です。
まあしかたないですね。
それを知らせたことは、自己責任であります。


でも、僕の基準で言わせてもらえば、
いかなることがあろうとも秘密を守れない口の軽い者は、
人間として最低の部類に入ると判断します。
【2007/04/15 23:24 】 | 未分類 | コメント(13) | トラックバック(0) | page top↑
反省好きなアンチ
アンチという人種は謝罪と反省が大好きで、
すぐに「申し訳ありませんでした」とか
「反省しています」とか言います。
まあ、でもそんなのは「ふり」に過ぎないんですよ。
謝っているふり、反省しているふり。
内心は全然変わっちゃいないし、変わる気もないでしょ。
だって、たとえば学会員を傷つけたことを反省したとか言ってても、
一方で、学会員の気分を悪くさせる記事を書け、って
アジってたりするんですよ。


僕はインターネット上の言葉のやりとりでは、
アンチもシンパも双方の気分を害しあって、
言ってみれば傷つけ合って、はじめて
双方それぞれが考えることが出来ると思ってるから、
反省もしないし謝罪もしませんよ。


シンパに属する僕は、これからもアンチの痛いところをみつけて
塩を塗り込み、傷つけていくつもりです。
アンチが学会員を傷つけることを辞めない限りね。
でもアンチは辞めないでしょ?(笑)


だったら傷つけ合うしかないじゃないですか。
というか、傷つくとか傷つかないとか、
そんなのはどうだっていいんですよ。
互いに相手の気分を害するために文章を書いてるわけですから。
そのくせ表面上「反省しています」なんて言うのは欺瞞です。
傷つく覚悟がないのなら、黙ってろって感じですよ。
【2007/04/13 23:54 】 | 未分類 | コメント(12) | トラックバック(0) | page top↑
『真実は一つ』なんてありえない
アンチというのは、すべてをキチンと「割り切り」たい人種なんです。
「割り切れない」世の中の指針が欲しいがため、つまり
世界を「割り切る」ために宗教に頼っていたわけですよ。
だから、教義というものもデジタル的にとらえることしか出来ない。
オンオフ、イエスノーでしか解釈できない。
文脈で捉えることや、その本義を読み取ることが出来ないわけです。
人間の機微というのは「割り切れない」ものだけれども、
これを無理矢理「割り切ろう」とするから、
人間的な暖かさを、ひねくれた心で捉えることとなる。
彼らは人間を信じているのではなく、
紙に書いた文字を信じているわけです。


アンチの時の僕というのは、そこで何が起きていたのか、
「真実は一つ」とばかり「割り切り」たいと思っていたのはあります。
でも「真実は一つ」なんて、ありえません。
はっきり言って「真実はわからない」のひとことに尽きます。


ある対立するふたつの陣営が居たとしたら、
それぞれが自分にとって有利な証言をするのは
当たり前のことであり、客観的な証拠が出てこない限り
断定はできないわけなんです。
結局は、どちらの味方であるのか、どちらの側に同情するのか、
それだけです。いつだって理屈はあとからついてくる。


創価学会と宗門の関係だって、客観的視点に立てば、
「真実は一つ」だと僕は思っていませんよ。
宗門のトップが腐っているのと同様に、
学会のトップだって腐ってるかもしれません。
そんなのは組織というものをモデル化して見ることが出来れば、
当然同じモデルが当てはまることは想像出来るわけです。


そんな「真実は一つ」ではないと気づいている
(「気づいてる」を使ったよw)僕が、
じゃあなにが出来るのさ、と考えるわけですよ。


日和見を決め込むのがいいのか。
学者然と評論してるのがいいのか。
それこそ上から見下して、
「はやく気づいて欲しいです」
なんて皮肉を言ってるのがいいのか(笑)。


結局、ものを言うということ、文章を書くということは、
なにかの贔屓をすることにほかならないんです。
アンチはアンチの仲間の贔屓をする、
シンパはシンパの仲間の贔屓をする。
それを正当化する論理的合理性なんてあとにでっちあげるもんです。
それらしく書くことは手慣れた人からすれば簡単なことですから。


アンチ的感情を抱いた人のことを守るために、
アンチを正当化する文章を書ける筆の立つものが、
味方して贔屓してやればいい。
僕は学会員の味方だから、学会員を贔屓します。
アンチが後付けで正当化するように、僕だってやります。


双方が自陣営を贔屓すれば、
それで対立し傷つけあうのは当然です。
インターネットなんて思考実験の場なんだから、
どんどん傷つけ合えばいいんですよ。
そのやりとりの中から一人ひとりが、
なにかをつかみ取って自分のリアルライフに
応用することが賢い使い方です。
インターネットは単なる道具だし、おもちゃです。
そこで「傷つけられた~」なんていう言って、
リアルを持ち出してくるから事態がややこしくなるわけです。
なんのためにHNでやりとりしてるんすか、って言いたくなる。


繰り返しになるけれども「真実は一つ」なんて、
双方が対立している場合はあり得ないです。
少なくとも、あり得ないと思ってたほうがいいです。
そこに物言う人数が増えれば増えるほどノイズも増えるし、
それぞれの思惑も絡んでくる。


じゃあ、なにを真実とするかって?
表情を伴った言葉をやりとりすることが出来る、
身近な隣人しかないですよ。
そこでの真実が有効であり、またその真実は、
その隣人との関係でしか有効ではないです。
その関係だけでの真実を、たとえばネットに持ち出して、
上段から「これこそ真実」と言ってのけるのは、
愚かしいことだと思いますぜ。
まあ、アジる思惑があれば別ですけどね(笑)。
【2007/04/12 13:14 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
喜怒哀楽
悲しいことがあったなら、ひとりで浸って泣けばいい。
腹立たしいことがあったなら、声を荒げて怒ればいい。
楽しかったら笑えばいいし、嬉しいときははしゃげばいい。
それでこそ人間だし、それでこそ仏だと思うよ。
【2007/04/12 00:37 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
愉快にやりゃいいじゃん
こっちがこっちで楽しく愉快に笑ってると、
それが許せないとか言う人が居ます。
なんだか知らないけどいつも怒ってて、
悲しんだり泣いたりしてるみたいです。


そんな人はまず笑ってみればいいのにね。
それが出来ないって言うのなら、
やっぱそれは嫉妬に他ならないと思うけどな。
それが出来ないのは誰のせい?
ほかでもない自分のせいじゃないの?


「私の気も知らないで」なんて言う人は
楽しく愉快にやってる人が羨ましいのよ。
だからといって、楽しくやってる人に
言いがかりつけて引きずりおろし、
苦しみを味わせてやろうとする人って、
客観的に見ても、心のすさんだ人だと思う。
【2007/04/03 14:14 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
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