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滝の如く
恐れず朗らかに堂々と、か。
男は王者の風格を持て、か。


その通りだな。
女の腐ったのみたいな生き方はしたくない。
前を向こう。立ち向かおう。


「王者の風格」は持とうと思わなければ、
いつまで経っても持てるはずがない。
まずは、強く願うことだ。
そんな自分になれるよう祈ることだ。
日々、そのビジョンを持ち続けることで、
人間は変わることが出来るはず。
これを僕は信じる。
それが「人間革命」だと思う。
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【2007/05/28 12:38 】 | 未分類 | コメント(8) | トラックバック(0) | page top↑
現実を変える力のための道具
宗教は人間のための道具であって、
人間が宗教のための道具ではない。
そして仏教もまた道具である。


今の日本を見渡して、この仏教という道具を
一番上手に使っているのは創価学会だと思う。
仏教はなんにだって使える。
個としての決意を固めることにも、
集団として団結し、力を持つことにも。
これらの使い方を僕は悪だと思わない。


ちなみに今、左寄りの団体が
以前よりも政治力を持たなくなったのは、
経済的な豊かさを背景とする個人主義の蔓延によって
団結する力が弱まったからだ。
個々をまとめるだけの精神的支柱を保てず、
また持とうと誰かが呼びかけたとしても、
必ずそれを否定する声が内部から上がり、
足並みがそろわない。


なにかを変えるためには力が必要だ。
力は人の団結によって生まれる。
もしアンチが創価学会を悪だと考え、
打ち倒したいと思うのならば、
ひとつの精神的支柱を掲げ団結することだ。
でもそれは無理だろう。
この界隈の顛末を見ればそれが実証されてる。
アンチは口々にご立派なことを言うけれど、
現実を変革させる力を持つことはない。
アンチの一人ひとりの性根は人の機微を知らぬ
冷たい個人主義だからだ。
彼らは団結を否定するための学説を好んで用いる。
「自分さえよければいい」という哲学を正当化し、
自分は間違っていないと安心したいからだ。


仏教は多岐にわたる。
個人主義者は個人主義者に都合の良い説を
ピックアップして恣意的に解釈する。
そして「彼らの仏教はニセモノだ」と叫ぶ。
僕がこう言えばアンチは、
「学会も同じだ」と指摘するだろう。
僕は認めてもいいと思ってる。そこから先は
「それはわかった、ではどちらが
現実を変革させる力を持っているの?」
という話になる。


団結は力となる。
力を持つために仏教という道具を使う。
力が現実を変革する。
現実とはそういうものだと思う。
【2007/05/12 13:46 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
『めちゃイケ』を見て凹む
俺には珍しく、凹んでいる。きっかけはわかってる。
ニコニコ動画で『めちゃイケ』4月14日放送分を見たからだ。
鈴木紗理奈がどっきりで騙されるという企画なんだけど、
えげつないというか、やりすぎというか、
なんだか人間の黒い部分を見せられちゃった感じで、
元気が吸い取られてしまったんだ。
あらすじを書いて紹介するようなものでもないんで、
興味のあるひとはニコニコ動画でもyoutubeでも探してください。
でも、グロにも匹敵するほど悪趣味、そう、悪趣味なんだわ。


でも、人ごとじゃないんだよ。
人を不安にさせておもしろがるという気持ちは、僕にもある。
そのボーダーラインってどこなんだろう。
一ヶ月もの間、人間の信頼感を奪う冗談ってアリだろうか?
人の生死をネタにして騙すのってアリだろうか?
僕は『めちゃイケ』をいつも見てたわけでもないし、
鈴木紗理奈を知っているわけでもないけれど、
そもそも、好きなことに対して真摯になることの、
どこに責められるところがあるのだろう。
岡村はそれがキャラなのかもしれないし、
番組自体のコンセプトがそうかもしれないけれど、
だったら「メンバー」ってなんなんだろう、と思う。
なんだか考えを辿っていくと、嫉妬心に結びつく気がする。


もう二度と信頼関係を築く気持ちがないと
覚悟して、決別するのとはわけが違う。
もしこの「メンバー」を続けていく気があるのならば、
やっちゃいけないネタだったんじゃないか。
もし僕が鈴木紗理奈の立場だとしたら、
最後のネタばらしをされた以降は、
しらけるというか、がっかりしてメンバーを見下す気がする。
連帯感が取り戻されることはなく、
「仕事」として割り切ってしまうな。
それともあの「メンバー」はみんな既に
「仕事」として割り切っているのだろうか。
鈴木紗理奈がお笑いを「仕事」と割り切ってしまい、
音楽を好きで、本気でやりたいと思っているなら、
お笑いを捨てることになんの抵抗もなくなってしまう。


かといって、『めちゃイケ』はけしからんくだらないと、
最初から汚いものでも見るようなわかったような意見も、
僕はどうも苦手なんだ。
「これだから『めちゃイケ』は…」というようなね。
ああいう「メンバー」のノリは好きなんです、僕だって。
メンバー内で罰ゲームを設定して、
負けて痛い目にあってるヤツを笑うみたいなね。
悪趣味と言われるかもしれないけれど、
「マジっすかー」「やめてくれー」とか言いながらも、
実は本人も楽しんでるからね。
そういう内輪の楽しさを、たとえば
「教育によくない」とか「いじめを助長している」とか、
そういう正論に無理矢理結びつけるのは好きじゃない。
でも、この延長線上に今回の企画があったということも事実。
だからボーダーラインってどこなんだろう、と思う。


まあバラエティはくだらない。くだらないけれども、
もしその番組を見たなら、そこからなにかやっぱり掴みたい。
たとえば、これを面白がって見る人間がたくさん居る。
そんな人たちが日本の社会を構成してるんだ。
バラエティというスキンを被っていれば「面白かった」と言う。
読解力のスタンダードもここにあるということなんだ。
放送作家の書いたあんなシナリオが受けるということなんだ。
それが現実。


もちろん自分の訴えたいことを含ませながら、
ものをクリエイトしていかなければならないのだけれど、
世間受けさせるということは大衆に媚びるということでもある。
読解力ある一握りの人のためだけに、
ものを作ったとしても、はっきりいって売れない。
大衆受けするスキンをかぶせなければ。
そういう「仕事」をするなかで、
作り手として長くやっていくには多分、
芯だけは捨てない誓いが要るのだろう。
仕事なのだから「仕事」として割り切ることも必要。
そんな中でも、胸の奥に凛と立っているなにかを失っちゃいけない。
失っちゃったらつまんなくなっちゃう、たぶん。


蓮華は泥の中にあっていいんだよな。


あー愚痴った(笑)。
「つたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし」
凹んでるときが「まことの時」なんだわ。
愚痴を言うことが謗法で、前を向くことが正法です。
凹んでいるときは、正法を忘れがちであります。
【2007/05/11 13:48 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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