スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:-- 】 | スポンサー広告 | page top↑
こう言っちゃう公明党はどーよ?
http://www.asahi.com/politics/update/0824/TKY200708240362.html


政治ってもんはこういうもんなのかもしれんけどさ。
ホント、こないだから思ってたんだけど、
公明党がこういうことを言うところは、俺は嫌いだな。
公明党が負けたと認めるなら、その原因は公明党にあると思うよ。
負けたと認めないならそれはそれでスジが通るけれど。
もしそうなら「この議席で十分です。これからの戦いを見ててください」
くらいのことを言って欲しい。


信心の辞書には「とばっちり」なんて言葉はないと思いません?
「党として国民の理解を得るためにさらなる努力をしていきます」
くらいが妥当なんじゃないのかね?
すべての因は自分自身の中にあると思うんだけどな。
大臣のせいや、内閣のせい、自民党のせいにすんなよ。
今の路線を選んだのは公明党自身なんだから、
「全部公明党のせい」くらいの覚悟を持って欲しいと
思っちゃうのは、政局のわからない素人だからですかね。
負けたのが自民のせいだとしちゃうのは、
かえって公明党のイメージダウンになんない?
とっても安易な感じがしますよ。
安倍政権への牽制だとしても、それとトレードオフした
庶民のイメージダウンは大きいと思うけれどな。
「投票率が上がって欲しくない」と
もらしちゃう無邪気で浅はかな党幹部と
同じメンタリティでこの言葉を言ってないかね?


なんかさー、庶民的な俺の視点から見ての話なんだけど、
太田代表ってぼんぼんのインテリで、
冷や飯を食ったりしてない感じしない?
そう思っちゃうのは魔の働きだと思う?
内部事情を知らない外野は黙ってろって感じかね?
今の公明党に南無妙法蓮華経は入ってるのかね?


特ににっし~さんあたりに見解を聞いてみたいな。


魚拓:
http://megalodon.jp/?url=http://www.asahi.com/politics/update/0824/TKY200708240362.html&date=20070824233924
スポンサーサイト
【2007/08/26 17:33 】 | 未分類 | コメント(8) | トラックバック(0) | page top↑
自殺防止策って意味無いでしょ
「自殺防止策」と聞くと、なんだか、
そういう問題じゃねーんだけどな、なんて思う。


「策」でどうにかなる問題じゃなくて、
一人ひとりの心の問題だからさ。
政策でどうこうするんじゃなくて、
つまりは宗教の問題なんだよね。
宗教というのは、一人ひとりの心の柱なわけで、
その柱が腐っていれば、いつか崩れる。
それが現象として現れたのが自殺であり、
精神障害もそういうことなんだよ。


表面的な策をいくら施したって、
根本治療にはならない。
根本治療するには折伏しかねえだろ。
腐りかけの柱を「危ないよそれ」って指摘する行為を、
折伏と呼んでいるわけです、学会員は。


元気になるには、いじける心だとか卑屈な心だとか、
そういうネガティブさを一掃するしかないでしょう。
そのための宗教を持ってないから、
いつまでたっても自分を取り巻く環境を嘆き、
陰鬱たる気持ちに沈み続けることとなるんだ。


学会員は唱題することで、
「なんとかなる」と思いこむことが出来るからね。
そして、世の中のたいていの問題は、
「なんとかなる」というのが事実だからね。
逆に「なんともならない」ことだったとしたら、
考えてくよくよしたって、なんの価値もない。


「なんともならない」ばかりに目を向けさせる宗教に
ハマっているから、自殺したくなる。
現代にはそういう宗教がはびこっているんだよな。
ネットなんかでもそういう宗教の伝道者が多いから、
そういうのは僕ら一人ひとりが、
どんどん切っていかないと、おかしくな人が増えてしまう。


狂って自殺するような人を、一人でも少なくするには、
そういう宗教を根絶やしにすることが必要でしょう。
まあ、そんなの一気にバッと出来るもんじゃないから、
個人レベルでコツコツやるしかない。
モグラ叩きみたいなもんなんだけどね(笑)。
上から決めた「策」でどうにかなることじゃないのよ。
【2007/08/25 06:41 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
組織がでかいとバカも出てくる
キャバクラ嬢をストーカーした警官が
拳銃使って心中した件なんだけどさ。


たとえば組織がでかければ、末端の人間は
こういうこと起こしちゃうこともあるわけだよなあ。
これって「組織の問題」だと思う?
俺は、その個人の資質の問題だと思うなあ。
(組織側の管理の問題ってな論調もあるけどさ。
どんだけプライベートなことまでは管理しろっていうのさ。
恋は盲目状態なんだから、どんなに管理したって、
やるときゃやっちまうもんだ。)


警察の組織の中にこういうバカが存在してるのは確かだ。
だけれども、だからといって警察というものを信頼せず、
協力しなければ、安全な社会を築くことは出来ない。


創価学会の中にも、こういうバカが、
おそらく一定の割合で紛れ込んでいる。
生まれながらにして学会員という者も多いわけだし。
そういうバカが、たとえば事件を起こしたとき、
アンチは鬼の首を取ったように、
「学会組織の問題だ」と騒ぎ立てる。


組織というものはそのバカに対して
「自分を変えていこう」「良いことをしよう」
と、こう指導するわけだが、なかなかどうして
人ってそう簡単に変わらないわけです。


なにかやらかしそうなヤツは、
やらかしそうだなってわかるけどさ。
だからといって学会員をクビにするわけにもいかないでしょ。
組織はベストを尽くしてると思うよ。


これ以上創価学会を良くするには、
会員一人ひとりが自覚を持って、
それぞれ「人間革命」するしかないんですよ。
組織内改革だーなんだかんだと、内部アンチは言うけどさ。
その前にあなた自身の状態をどうにかせいよってとこだ。


しっかし、どうする。こんな事件起きちゃって。
フェミな人たちは「だから性風俗は…」と言うだろうし、
国を信じない人たちは「だから警察は…」と言うだろう。
それぞれがそれぞれの思惑で、自分勝手なことを
一見まともな言説で展開するわけだ。
これを真に受けて法律でも作っちゃったら、
こりゃまた窮屈で、逆に危険な社会となったりするよ。
なんでもかんでも「構造的欠陥」としたがる
いわゆる「市民」のそれらしい言説には、
ホント気をつけなきゃならんよ、と思うわけです。
【2007/08/24 07:57 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
本当に客観的であるかどうか
ひさしぶりにほぼ日なんかを見て、
ダーリンコラムを読んだりしてみた。
さすが糸井重里は糸井節でいいこと言う。


http://www.1101.com/darling_column/2007-08-06.html


俺の言いたいこともこういうこと。
格差だなんだかんだと、今の時代を悪く言うけど、
やっぱそれってちょっと贅沢なんじゃないか、って思う。
社会に対してもそう。
宗教に対してもそう。
創価学会に対してもそう。


現代のそれを嘆く人がとっても多い。
「昔の創価学会はまだ良かった」
と言う学会員も多いけれど、ホントかね。
なにごともトレードオフで、
何かを得ると同時に何かを失っている。
それを知ることが出来ることが、
客観的とも言えるのだろう。


自らを「客観的」と称する人ほど、
なんらかの思惑に支配されているように思う。
誰かのなにかの思惑に荷担していることに
気づかずに、いわゆる「良いこと」をしていると
思いこんでいる場合が大いにある。
自分は無宗教だと安心している人ほど、
なんらかの宗教に囚われているのではないか。


本当に客観的な視点を持ち、
そこで何が行われているのか、
どういう仕組みになっているのか、
見極めた上で、なにかのポジションを
採ることが出来てはじめて、
責任ある市民といえるのではないか
(というわけで、僕は学会員ですw)。


無責任で無意識の荷担ほど、たちの悪いものはない。
「早く気づいて欲しいです」などと言ってのける
訳知り顔のインテリこそ、現代における愚衆かもしれない。




あ、あと付け加えで、この記事。


http://www.1101.com/darling_column/2007-07-30.html


宗教ってものは、ここで言う「一本化」のことなんだよね。
「一本化」は使い方が大事ってのは、
僕が昔から言ってることと同じ。
宗教ってのは人生をわかりやすくするツールです。
バカと宗教は使いようってなとこですよ。
【2007/08/23 11:13 】 | 未分類 | コメント(8) | トラックバック(0) | page top↑
創価の思想
創価の思想というのは、
すべてのことに自分で自分なりの
価値を見つけ出すことだと思う。
その見つけ出した価値については、
自分が担保し、自分で責任を持つ。
ある他人がその人の価値観で、
自分か見つけ出した価値を評価を下し
蔑んだりしたとしても、それを意に介さない
強い精神力を持ち続けること、
その自分の見つけ出した価値を信じて、
前に向かって歩み続けることを「信心」と言う。


ある人にとってのダイヤモンドは、
ある人にとってのただの石ころとなる。
そのものの本当の価値は、
世間的な評価では計り知れないし、
他人に決められるものではない。
自分が決めることだ。


「なにか」を勝ち取る戦いに一所懸命な人の、
その「なにか」を「くだらない」と評価する人もいるし、
「すばらしい」と共感する人もいる。


僕が思うのは、それがどんなものであれ
「なにか」を勝ち取るために一所懸命に戦ったことは
絶対に無駄にならないということだ。
それを「無駄だ」と切ってしまう人は傲慢とも言える。


学会員はいつだって
「この信心に無駄はない」
と信じている。


どんな山でもいい。その人が「登ろう」と決めた山を
頑張って登ることこそ「信心」の真意がある。
頑張ってその山を登り切ったことを、
他人が馬鹿にしても、耳を貸す必要なんてない。
萎縮する必要も、卑屈になる必要もない。
頑張った自分を讃え、堂々としておれば良いのだ。
笑みを浮かべながら聞き流してもいい。


ものごとに価値を見つけ出すのは、
どこまでいっても自分自身なのだから。
【2007/08/21 07:01 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
お父さんの死に際して
甲子園に行こうと思って荷造りをして、
シャワーを浴びて風呂から出てきたら、
かみさんが涙を目に浮かべ震える声で
「間に合わなかった」と言った。
かみさんはこのお盆の休みを利用して、
実家に帰ってお父さんに会いに行くつもりだった。
僕は甲子園に行って創価高校を応援するつもりだった。
急遽、僕のすべての予定をキャンセルし、
車でかみさんの実家に向かった。
首都高は渋滞していて、実家に着くのは深夜だった。


お父さんは病院から既に家に帰っていた、物言わぬ姿で。
線香を上げさせてもらい、お顔を見させてもらった。
安らかな顔。「成仏の相だ」と僕は思った。
病と戦っていたお父さん、
亡くなる前日は身体の調子は良好で、
つきそってるお母さんは、医者から
「頑張ってますね」なんて言われたそうだけど、
この日、容態が急変し大量に吐血、臨終となった。
家族ではお母さんだけに見守られた最期だった。


お父さんはきっと死期を見極めていたんだろうな。
吐血したり苦しんでいる姿を、娘たちには、
見せたくなかったんじゃないか、そんな風に僕は思った。


親父ってもんはそういうもんじゃないかな。


タイミングも絶妙だった。
少しでも遅かったら、僕は甲子園に向かっていた。
即対応は出来なかっただろう。
僕もかみさんも、これから休みというときだった。
もし仕事が忙しい時期だったら、
こんなに心落ち着けて丁寧に、
お父さんとの別れは出来なかったように思う。
今回はすごく丁寧に、亡くなったお父さんと対話しながら
送ることが出来たと思っている。これでよかったんだ。


通夜と葬式をすませ、かみさんは実家に残し、
僕だけ自宅に戻ってきてこの文章を書いている。


さて、かみさんの実家の寺は浄土真宗大谷派。
通夜も葬式もお寺のお坊さんを呼んでやることになった。
事前に、葬儀屋と我々家族で打ち合わせをしているとき、
「坊さんにいくらつつむか」ということが議題となる。
葬儀屋曰く、通夜3万、葬式5万(初七日分含む)が妥当とのこと。
その話を聞いているなかで、学会員の僕は、
「友人葬ならそんな金かかんないのにな、
そんな心配すらすることないのにな」って思ってた。
しかし、お経唱えて8万円ですよ。ボロ儲けじゃん。
方便品自我偈ならば、俺がやってやるよ。
お経というのは、学会員なら誰でも唱えられる
読経なんて僕からすれば当たり前のことけれど、
一般の人からみると、ありがたいものだったり、
素人には出来ないことみたいに
思われてることにあらためて気づかされたよ。
それに、けったいな節のついた正信偈や阿弥陀経より、
方便品自我偈の方がサックリサクサクしてて、
俺は好きだなって思ったわ。
まあ好き好きなんだろうけれど。


また、戦後の創価学会の「折伏大行進」というものは
アンチは「社会を敵にまわした」って主張するけど、
「既得権益を持っている寺を敵にまわした」というのが
妥当だなって、あらためて思ったわ。
創価学会のあの戦後の折伏運動っていうのは、
坊主の既得権益の構造改革だったんだよ。
すべてはそのための方便だったと解釈出来る。


「お坊さんにお経を唱えていただけることがありがたい」
「お経はお坊さんにしか唱えることができない」
こんな価値観をぶちこわして(お母さんは本気で
こういう風に思っている様子だったもの)、
「在家だってお経は十分唱えられる」ということを
普及させるための運動だったんだなと、今ではわかる。
そのために、日蓮正宗を利用したんだ。
別に「利用した」って言い切っちゃっても良いと思うよ。
朝晩の勤行の化儀は、普通の一般人が、
「坊主なんて別に偉くなんてない」と気づくことに化法、
つまり本意があったのではないか。
日蓮正宗の坊主のことだって、一緒にやってたときから
「坊主が偉いわけじゃない」って言ってたよね。


法華経をはじめ大乗仏教の真意というのは、
「出家なにするものぞ、出家より在家が偉いのだ」
という思想だと思うしね。
日蓮正宗と別れることで、その思想が完成したんじゃないかな。
別れた今の創価学会は、本尊にもお経にも不自由していない。
「うまいことやったなあ」って思う。
また戸田城聖は天才だと僕も思うわ。


話を戻すが。
やっぱりお父さんは勝利したと思った。
打ち合わせの時点では、家で家族葬というかたちで
こじんまりとやる予定で、少数の人にしか
このことを伝えなかったのだが、次から次へと
人がたくさんやってきてお悔やみを告げてくれた。
お父さんは、静かでおだやかな人柄で、
周囲の人から本当に好かれていたのだな。
そのことが今回すごくよくわかった。
お父さんがどうやって生きてきたのか、
本当に庶民の行き方をしたその生き様こそ、
仏の振る舞いであったのだろう。
涙を流してくれる人の数がそれを証明してると、
僕は思った。


病気は治せなかったけれど、そこにもメッセージはある。
お父さんの闘病から、僕がなにをつかむのか、
残された人がなにをつかむのか。
実はこれからが戦いだと、僕は思うんだ。
お父さんの死を背負いながら、
お父さんの思いを抱えながら僕は生きていく。
それこそが永遠の命だろう。
だから、決して負けたわけではない。


これまで題目を送ってくれた人、
題目じゃなくても祈ってくれた人、本当にありがとう。
アラシに近いイヤミを書いてくれた人にも(笑)、ありがとう。
お父さんの分まで、僕はこれからも一所懸命に生きていくつもりです。
そう、たとえどんなことをどんな風に言われてもね。


※自宅に帰ってきた8月12日に途中まで書き、
本日編集し、まとめてアップしました。
【2007/08/17 23:49 】 | 未分類 | コメント(6) | トラックバック(0) | page top↑
朝青龍の騒動で思ったこと
テレビも見ないし、相撲にも詳しくないけど、
朝青龍のことは、直観的に「良い人」だと思ってる。
天真爛漫というのは、ああいうのを言うんだ。
ちなみに、池田大作のことも、
僕は直観的に「良い人」だと思ってる。
アンチは彼を直観的に「悪い人」だと思ってるわけだ。


いや、今回はそんなことはどうでもいい。
朝青龍なんだけど、どうやら鬱病とか
なんとか言われてるみたいですね。
今回もマスコミが騒いでるのが「悪」にほかならないわけですが、
それに吊られて、もしくはここぞとばかりに鬱憤晴らしをする
相撲協会ってのもどうかと思うわ。
てゆーか、相撲協会も「悪」だろうな。


朝青龍の鬱病を作ってるのは、相撲協会だろう。
だいたいさー、怪我の状態なんて
本人にしかわかんないわけでさ。
サッカーやってたっていいじゃんか。
協会が「仮病じゃねーの?」って口で言ってるだけなら、
本人が「ちげーよ」って言って突っぱねてればいいんだけど、
実際に処分を下しちゃうわけでしょ。
そりゃ酷ってもんだよ。
本人が「病気だ」と言ってるのに、
無理矢理働かせようとしたって無理よ。
組織側のそういう態度が選手の身体を壊すんだ。
今回は、朝青龍の心を壊してるわけだけど。
それにあいつは相撲業界の稼ぎ頭でしょう。
ファンはしらけるだけだよな。
ただでさえ相撲人気が低迷してるって言われてんのに。


「伝統がなんとか」とか「国技としてなんとか」とか
言ってるファンなんてどうでもいいじゃん。
エンターテインメントとして面白ければいいわけで。
相撲って「誰が一番強いのか」というのが本質であって、
礼儀だの作法だのは二の次だと思うよ。
おとなしく黙然と相撲に取り組む風な姿勢だけが、
横綱の手本ではないでしょう。
明るくやんちゃだっていいと思うよ、強ければ。


「軽率である」「配慮が足りない」
そんな言葉で、誰かの行動を制限しようとするのが、
日本の伝統的とされる社会なんだよね。
こういう、いわゆる「伝統」に対して、僕はアンチです。


もっと言えばさ。
なんで日本があの戦争に突入していったかといえば、
国民のみんながみんなそうやって縛りあって、
鬱病気味だったんだよ、きっと。
明るく脳天気なヤツを嫉妬する感情が、
社会を支配してたんだろうと想像するわ。


学会は開き直って「世界広布」とか言ってるけど、
相撲協会も開き直って「世界に広がる相撲」とか、
言い切っちゃえばいいのに。
そうすれば「随方毘尼」が適応出来るでしょうに。
懸賞金を受け取るとき左手で手刀を切ってもよくなる。


「伝統」や「しきたり」というものに縛られ、
外からのものを拒否し、変化を恐れるのだとすれば、
なんであれ滅びてしまうものです。
創価学会が生き残っていられるのは、
日蓮正宗的価値観を捨て、変化してるからです。


そもそも日本のオリジナルなんて
存在しないと言っていいと思うんだ。
外からのものを巧みに取り入れ変化していくこと、
それこそが日本の伝統であり文化なんだと思うし、
無常というものだろう。
仏教というのもそういうことですよ。


身の程知らずの攘夷は身を滅ぼします。
朝青龍の振る舞いは、今の日本には無く
外国産のものであるかもしれないけれど、
それをも肯定できる土壌の日本でありたいと思うんだな。
それが「美しい国」であると思うんです。
【2007/08/10 10:40 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
賞味期限切れでもいいじゃん
evianoさんの記事にトラバ。


悩ましい問題ですよねえ。


僕が感情的にどちらを味方するかといえば、
また、主にどういう立場に立って意見を言っているかといえば、
賞味期限切れの物をも大切にするおばあちゃんなのよね。
「ヘルパーが賞味期限の切れた食材を使って食事をつくる」
ということが問題視されて、神経質になっている社会の方が
僕はおかしいと思うというタイプの主張をしているつもりです。
また、おばあちゃんに説明し同意を得るプロセスの苦労を考慮せず、
大上段で「説明すべき」と言ってくる輩に対して嫌悪感を持ってる。


一番大事なのは「現場の判断」だと思うんです。
それで起きる事故はあるかもしれないんだけれども、
マニュアルで全てが対処出来るわけじゃない。
なんだかねえ、現場から「人間の判断」というものが、
現場にいない人間の一見正しそうに見える批判によって、
どんどん失われていっているような気がするんだ、今の社会は。
たとえば「現場の判断」で賞味期限切れの食品を
おばあちゃんに食べさせて、食中毒になったとしたら、
鬼の首を取ったようにマスコミが騒ぐんだろう。
そんな社会の方がおかしい、って思うんだ。
当事者間でなんとかするんだから、ほっといてやれって思う。


「賞味期限の切れたもの食わせたっていいじゃんよ」
なんて乱暴なことを僕が言いたくなるのはそういうこと。
「ヘルパーが賞味期限の切れた食材を使って
食事をつくることは許されない」というルールがあり、
それを今の日本の社会は是としている。
このルール自体が「現場の判断」をせばめていると思う。


おばあちゃんにはおばあちゃんの原則があって、
それはおばあちゃんにとっての宗教なんだ。
ライフスタイルというのは宗教なんだよな。
その宗教にあわせてあげられない社会というのは、
社会の方に問題ありと思うんだ。
考えていくと信教の自由まで発展しそうだ。


まあいろいろ発展させて考えちゃうわけだけれど、
「謗法払い」ってのもそういうプロセスじゃないと
いけないわけだけれど、じゃあ、
キツネ拝んでてキツネつきの状態の人の
近くに居たらどうしてあげるのが慈悲かねえ?
こういう場合、その宗教にあわせてあげられないよなあ。
今はあんまり見かけないけど、
昔はよくあったみたいよ、キツネつき。


場合によっては、強制的に「謗法払い」して
あげたほうが、本人のためかもしれない。
それでも現在のルールではそれは出来ない。
こういうのも「現場の判断」ってなものを、
もうちょっと許してあげなきゃいけなくない?


うーん。もちろんルールは必要なんだけどさ。
ルールを振りかざして物事を断じると、
互いに身動きが取れなくなっちゃう気がするのよ。
それがエスカレートして、今の社会が窮屈になり、
人間関係がギスギスしてるんじゃないか。
ストレス社会ってそういうことよ。


なんというか「常識の共有」ってどうやったら出来るんでしょうね。
世代、性別、立場、エトセトラ、それぞれの常識は変わってくる。
結局「対話」しかないわけだが、緊急事態ってこともある。
どうすりゃいいのかねえ。


あ、そうそう、人の家の台所に立つって、俺の苦手なことの一つです。
うん、台所って一種の聖域よね。
仏壇みたいなもんだ、特に主婦からすれば。


ヘルパーかあ…想像しただけでも難儀だなあ。
アドバイスなんておこがましいわ。
「ご苦労様です」としか言えないよ。
【2007/08/08 12:00 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
「甲子園」について
創価高校が甲子園に行くことになって、
例によって軽薄な俺は、
「にわか高校野球ファン」になるわけだが(笑)、
調べてみるとやっぱ問題を抱えてるもんなのねえ。
いや、問題を抱えているとされてるもんなのね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A0%A1%E9%87%8E%E7%90%83


いいじゃん、炎天下の甲子園。
いいじゃん、根性論の連投。
坊主刈り強要? うるせーよ。
それが嫌なら野球部入らなきゃいいじゃん。


「甲子園」ってのは、イベントでありドラマなんだと思う。
肉体的精神的負担を乗り越えて勝つ
高校生の姿を見て感動できる劇場だからこそ
国民が面白がって熱狂するわけでさ。
構図が昭和の遺産なんです。
だから「いいのよ、このままで」と基本的に保守の俺は思うわけ。
スポーツ医学やスポーツ生理学はすっこんでろ。


こんなことを言うと、またインテリさんがやってきて、
「あなたの鬱憤を晴らすために高校野球があるわけではない」
なーんてお行儀の良いことを言われそうだ(笑)。


>宗教法人系が経営する学校は、信者として全国から生徒を集められ、かつ強力になればテレビや新聞の報道が、バックの宗教団体の宣伝にもなる。


「うん、そうだよ。なにか問題がありますか?」って言いたいね(笑)。
「創価」の文字が、三色の旗が、全国ネットで大々的に流れる。
痛快だし愉快じゃないか。
8月11日は是非勝ってもらって、校歌も流してやりたいね。


まあ、なにも宗教団体に限らず「甲子園」というものは、
私立高校や過疎に悩む自治体の広告塔として利用されてるんでしょ。
現実として、そういう意味がそこにあるんだから、それでいいじゃん。
たとえばPL教団なんてPL学園が活躍しなければ、
今以上に知らない人ばかりだと思うぞ。
こういうのは「高校生を利用すること」になり、
倫理的に問題があるとでも言うのかねえ。
なにをいまさらって感じだよ。


お互い様だと思うけどな、プレイヤーも観客も。
野球部員は舞台に立ってドラマを演じる係、
俺たちはその姿を鑑賞して感動する係。
どちらが欠けても「甲子園」は成り立たない。
マスコミが煽ってたり、観客が熱狂的だったりするからこそ、
選手から見ても「甲子園」の価値があるわけで。
世間の注目度が低く、ただの野球の大会ってだけなら、
野球部員もそこまでモチベーションは上がるまいて。
高校球児は「甲子園」でヒーローになりたいんだよ。


「甲子園」っていうのは浅倉南を連れていく場所なんです。
学会員は創価高校に連れてきてもらいました。
創価高校野球部員は学会員にとってのヒーローであります。
そういうもんじゃないのかねえ、現実として。
【2007/08/08 10:59 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
南無妙法蓮華経で勝つ
たとえば今、かみさんのお父さんが
肝硬変から発展した肝臓ガンで、
末期とされてるんだけれども、これに対して、
「絶対治る」と言い切れる集団って、どこにあるだろう?
俺は「絶対治る」と決めて、唱題することにした。
これを否定することが出来るだろうか。
アンチは否定するだろう。
信心をわかってない人も否定するだろう。
でも、俺はそう決めたんだ。


南無妙法蓮華経で絶対治す。
南無妙法蓮華経で絶対勝つ。
外野の意見は聞かないことに決めた。
【2007/08/04 06:41 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。