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アンチになるのはやめとけ
学会を辞めるのは本人の自由だし勝手に辞めればいいと思うが、
アンチになるのはやめといた方がいいと忠告しておきたいな。


アンチになると心がすさむ。


なぜなら、学会の価値観をもとに元気でやってる人を、否定して蔑み、
それによって自己のアイデンティティを保とうとすることになるからだ。
いわば、アンチ教という宗教に改宗しただけになってしまう。
またそのアンチ教は、学会という存在なしには
存続できないコミュニティを構成する。
そのコミュニティは、学会や学会員に対してネガティブなことを
メンバー同士で言い合うこと、そしてそれを肯定し合うことで、
「自分はひとりではなかった」などと安心するための装置となる。
弱き者をますます弱き者とするのが、このようなコミュニティであろう。


過去にアンチは「自分の足で立て」と言った。
学会というコミュニティには、
弱き者をますます弱き者とする甘えが存在し、
その甘えを断ち切るために脱会するべきだと言った。
その考え方ならば、実は今でも僕は共感出来る。


その考え方を持つ者が、なぜ甘えを許すコミュニティを
作ろうとするのかが理解できない
(松葉杖論を唱えるのならば、学会の組織もまた松葉杖である)。
いや、自らが作ろうとするのならまだしも、
人をほだして作らせるように誘導する。
ほのめかして誘導するやり口は、学会で学んだのだろう。
そもそもが卑屈だから、そういう姑息なところばかり学んでくる。


心の純粋な者であればあるほど、
自らの思惑を通そうとするアンチにほだされ、
使命感に支配され、やりたくもない活動をしてしまう。
そのメンタリティは、自身が否定する学会員と同じである。
僕はそんな心の純粋な者がかわいそうだと思う。


創価学会が好きじゃないと思うのなら、
学会を語るこの界隈から離脱したほうがいい。
放棄放棄と言いながら、学会のことを
心のどこかに住まわせることを辞めない。
学会のことが気になってしかたがない。
それはとっても不幸なことだと、僕は思う。
罰と功徳という文脈で言うならば、罰が出てますよ。
「罰なんて存在しない」と言ってること自体が「罰」なんです。


本当に学会のことが嫌で、放棄したいと思うのならば、
アンチという存在のままであってはならない。
このことに気づいた者は、この界隈を離れ、
普段この界隈のことを思い出すこともなく、
真に自由の翼で広い世界を飛び回っていることであろう。


「この界隈なんて、馬鹿馬鹿しい」
そう思うことが、真実であり正解である。


この界隈を離れようとする者を、どのような手段であれ
この界隈にとどまらせようとするアンチは、
どのような言い訳をしようとも、
人を自分の思惑通りに利用する悪者である。


本当にその人のことを思うのならば、
「この界隈から出て行け、そしてもう二度と戻ってくるな」
と言うはずだ。
この界隈というものは、
学会の存在なくしてはなにをもクリエイトすることのない、
非建設的でネガティブな世界なのだから。
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【2007/12/26 09:50 】 | 未分類 | コメント(19) | トラックバック(0) | page top↑
自信があればなんでも出来る
宗教というものは、自信のない者に
自信をもたらす効果がある。
いや、そういう効果がなければならない。


真実を言えば、人間は自信があれば、
なにごともどうにでもなるものだ。
そのくらいに世界は懐が広いし、やさしい。
そのことに気づくか気づかないかが、
自己の幸不幸を決めるのだと思う。


客観的に見て、たいていのアンチは、
世界を嘆かわしいものとして捉えている。
自分をとりまく世界を信じるためには、
まず自分という人間を信じることが必要だ。


自分という存在に自信をなくさしめたり、
疑いをもたせる宗教は邪教であり、
そんな教えに囚われた者が、
おかしなことを言い出す。
悲しい事件を起こす。


自信を持とう。
自分を信じよう。
一歩を踏み出せない人は、まずはそこから。
一歩を踏み出すことが出来さえすれば、
望みは全て絶対に叶います。
【2007/12/18 16:59 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
先生になったことがない人にはわからない先生の役割

http://www.1101.com/darling_column/2005-07-25.html
ほぼ日のダーリンコラムより


>たぶん、世の中のほとんどの
>先輩やら先生という「先の字のつく人間」というのは、
>若い人を、高いところに、
>無理やり乗せる役割を持っているのだと思った。


池田「先生」でも、なんでもいいんだけど、
「先生」と呼ばれる人の役割は、これだと僕も思う。
「高いところに無理矢理乗せてやる」ことというのは、
それが無理矢理であるがゆえに、多分、
一定の割合で、恨まれるんだと思う。
「先生」の役割を担う覚悟を持っている人は、
それ理解しているから、何を言われても平気なんだな。


「無理矢理は良くない」なんていう声が聞こえてくるけど、
殻を打ち破るには、他からの「無理矢理」という
機会が必要なことが多いし、有効だと思うんだな。


スキーを上達させるためには、
いつかのタイミングで、リフトで
無理矢理上まで連れて行く。


もちろん最初は恐いだろう。
だけれども、それを繰り返すうちに、
恐さは当たり前になっていき、
結果、上手に滑れるようになる。


スキーが上手に滑れるようになったとき、
教わる側は教える側に感謝するだろう。
「無理矢理、リフトに乗せてくれてありがとう」と。


せっかく教えてあげても、途中で辞めてしまっては、
上手に滑れるようになりはしない。
そのときはきっと、教える側を恨むことになるのだ。
「無理矢理、リフトに乗せられたから滑れなくなった」と。


仏法の文脈でも、同じ事が言える。
退転者というのは、途中で辞めてしまって、
なにも身に付かず、教える側を恨んでいる。
そして、教える側の責めやすい点を突いてくる。
「無理矢理やらされた」と。


「無理矢理」という方法論を否定し封印すれば、
どこかで成長は頭打ちになる。
自己に負荷をかけることで、
少しずつ能力は伸びていくものだ。


ぬるま湯に浸かっていれば、それが当たり前となる。
「おめーら、ぬるま湯に浸かってんじゃねーよ!」
と無理矢理外に引っ張り出す役割を持つ、
そしてそのことによって文句を言われる覚悟を持つ。
そのことが「先生」となる者の資格ではないか。


学会員は、一人ひとりがすべからく、
「先生」となることを目指している。
師弟不二ということはそういうことだろうと、
僕は解釈してるんですけどね。
【2007/12/06 10:41 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
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