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迷惑かけたっていいじゃないか
たいていにおいて、不幸になる人というのは、
人に迷惑をかけるということを極端に恐れる。
たぶん、プライドが高いのだろう。
迷惑をかけて、頭を下げるということを、
屈辱に感じるのかも知れない。
だから、迷惑をかけないようにかけないように、
自身の行動を制限し、不自由になり苦しむ。


そもそもこの世界は、人と人とが迷惑をかけあっている。
迷惑をかけることがなくなることはない。
迷惑をかけるところが、まずスタートだと思っていい。
そこから、謝ったり、説明して理解してもらったり、
そんなことをしながら、互いに理解が深まっていく。


「こんなことしたら迷惑かもしれない」
そんな、間違った想像力の使い方をすることで、
あなたの選択肢がどんどん狭まっていく。


まずは、自分のやりたいことをやってみるべきだ。
話はまず、それからだ。
「人に迷惑をかけない」なんて、実は美徳でもなんでもない。
そこに気づかないから、世界が窮屈に思えるのだ。
「迷惑をかけてはいけない」というのは、デマだとさえ思う。
この世界の秩序を破壊されては都合の悪い人は多い。
そんな人が、道徳として流布したのが、
「迷惑をかけてはならない」である。


人の迷惑なんてかえりみず、
やりたいことをやりたいようにやれ!
たぶん、そのくらいの気持ちでいたほうが、
世の中楽しく生きられる。


自由な人は、人に迷惑をかけてもいいと思っている。
そしてその迷惑から、調整していけばいいのだ。
人は人に迷惑をかけることで、つきあいが始まり、深まる。


そうはいっても、迷惑をかけあわない社会が、
現実にあらわれはじめてきてしまった。
この社会が、息苦しく感じてしまうのは、
迷惑をかけあってもいい、という寛容さがなくなったからだ。


自分が人に迷惑をかけてもいい、と開き直ることで、
人が自分に迷惑をかけられたときも、寛容になれる。
迷惑をかけてはならない、と思っている人は、
他人からの迷惑に対して狭量であり、すぐ怒る。
いや、当人に怒るならいい。匿名でチクる。


迷惑をかけられることを嫌がる人は、たいてい陰険だ。
「迷惑かけられてもまーいっかー」って人は、明るい。
その違いが、幸せを呼び寄せるか、不幸を呼び寄せるかの
違いとなってあらわれるのである。
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【2008/09/10 12:12 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
平等主義者という悪魔
この世界が平等でないことを嘆き、
平等にするべきだと主張する者が居る。
格差は悪であり、なくすべきものであると言う。
責任に応じた報酬を否定する。
リスクを取る者も取らずにいる者も、
同じ処遇であるべきと言う。


決められた時間を働くだけで、
自動的に同じ給料が支払われる世界。
たとえミスをしてもペナルティは発生しない。
ただ所定の時間をただ作業をして過ごしても、
リスクを取って挑戦的に仕事をしても、
なにをやっても報酬は同じという世界…。


最低だと思う。
どこに面白さがあるのか。


本当にそう思うのなら、刑務所にでも入ればいい。
塀の中では、社長も、社員も、派遣も、バイトも、
そんなのは取り去られ、みんな平等に扱われる。
平等主義者というのは、つまり、この世界を
刑務所にしようとたくらむ者なのだと思う。


格差の無い社会、平等な社会……想像してみな。
ホントにつまんない社会だと思うよ。
【2008/09/09 15:33 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
「仏教」の落とし穴
ネットでさも知ったかぶって「仏教」を語るものが居る。
その読書量を誇り、さもわかった風に。
しかし、その「仏教」はニセモノだ。
なぜなら、のびのびとした躍動感がないからである。
彼の語る「仏教」の中身といったら、
「傲慢になるな、反省せよ」というだけだ。
彼らの説く「平等」は、能力ある者をやっかみ
引きずりおろそうとする卑しい心から生まれる。
人の個体差は、あってはならないものと否定し、
「謙虚たれ」の枠にはめようとする。
そもそも、偏っているのである。


彼らの語る「仏教」はウソだ。
「悲」という面ばかりをピックアップしている。
その「仏教」では、身体を硬直させ、
我慢して生きなければならない。
彼らの主張する「仏教」の目指す状態は、
生きながらの死である。
この世に絶望し、死を待つだけの囚人になれ、
と言っているも同じである。


人間は生きている。
喜び、泣き、ときには傷つき、また人を傷つけ、
理不尽なことに悩み、人の優しさに触れ感動する。
その全てが、人間の活動であり、
その全部を含めて肯定する思想が仏教である。
円経というのは、そういうことだ。


悲しみに偏っている「仏教」はニセモノだと喝破せよ。
今、あなたがそうすることで、自分の殻を壊すことが出来る。
ひとつ上のステージに足を踏み入れることが出来る。
それは弁証法的止揚といってもいい。


ときには火になり、水になり、風にも、石にもなれる。
そのように自身を自由自在にコントロール出来ることが成仏と言える。
彼らは仏教を標榜するくせに、成仏の概念すらあきらめ、放棄した。
この世界で戦いつづけることから逃げたのだ。
そんなものは仏教ではない。
この生を楽しめずして、なにが仏教か!


仏教はeverythingである。
悲だけでもない、喜だけでもない。
人間の生命活動、その全てのことを肯定しているのだ。
彼らの「仏教」は、スジャータのミルクを飲む前のシャカである。
生きることは苦行であるという概念を、覆せ。
そうでなければ、本当に今生きている人生を、
つまらなく苦しいものだと信じこんでしまい、
もったいない生き方をすることになる。


目を覚ませ。
目の前の問題から逃げるな。
誰かの甘い言葉に酔って、人生を棒に振るな。
戦い続けろ。
あきらめるな。
何度だってトライすればいい。


その覚悟が出来たとき、
穢土にみえたこの世界は、
光り輝く寂光土になる。


この世界は、そして人間は、
とてもやさしいということに気づくのは、
そんな覚悟を持つことが出来たときなのである。
そしてそれを教えるのが仏教なのだ。
【2008/09/06 12:17 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
創価学会を脱会したら不幸になるわけ
「脱会したら不幸になる」
内部でよく言われる言葉だと思うが、
これは僕も本当にそう思う。


なぜかというと、要は学会というのは
人と人との繋がりに他ならないからだ。
人と人との繋がりを拒絶し、
チャンネルを切ることを良しと
判断した結果が脱会という行動となる。


まず、脱会する者の心には
「他者との煩わしい関係を断ち切りたい」
という望みがある。
今は学会に所属して、学会の人と接触しているが、
このつきあいがなかったらどんなに自由なことだろう、
と考えるわけだ。


そこでアンチの甘い言葉に出会う。


相談するうちに、学会がいかに悪であるかを吹き込まれ、
アンチの言葉がさも正しいような、
さも今までが間違っていたかのような、そんな錯覚に陥る。
そりゃそうだ、相手は何人も脱会させてきた、
人をその気にさせるプロなんだから。


かくして、彼は学会を辞める。


だが、実際に学会を辞めて、いざ一人になったとき、
自由になれたかといえばそうではない。
時間は出来た。
今まで出来なかったゴロゴロしてテレビをみること、
ビデオを借りてきて見ること、などなど、
人とつきあわずに、好き勝手なことが出来る。


さて、それが続けられるであろうか。
人は人との繋がりのなかで、自分の位置を見いだし、
必要とされることで、自分の存在意義を感じるものだ。
ヒマがあることが、自由なのではない。


次第になんともいえない空虚感に支配される。
まあそれでも、辞めたという自分の行動を
正当化したいものだから強がりは言うだろう。
もう今さら学会には戻れない。


そういう風になってしまったアンチは、
インターネットで憂さ晴らしをする。
自説をあたかも正しいように書いて理屈の世界生き、
脱会をうながし、仲間を増やそうとする。
その姿はあたかもアンチ教信者の様相を呈す。
悪質なのになると、ときにハンドルを変え、ときになりすまし、
学会員を陥れ、嘲笑して喜ぶような、ひねくれた者もいる。


彼らは概して孤独である。


そもそも、自らコミュニティに飛び込んでいくような、
もしくは自らコミュニティを作り出すような、
そんな社交的なバランス感覚を持った人は、
学会活動にどっぷり浸ったりはしない。
自分一人の力では打開できなかったから、
組織で活動し「訓練」を受けているのだ。


「訓練」しているうちに、バランス感覚が芽生えるようになる。
そのバランス感覚を駆使し、自分と他人の距離がとれるようになれば、
脱会などという物々しく迷惑なやりかたではなく、
上手に組織とつきあっていける。
きっとそうなったときは、外でも十分やっていけるだけの
社交的能力やバランス感覚が身に付いているだろう。


脱会しなくても、十分、自由に生きられるのだ。


もしリアルの生活が充実しきっており、
忙しい毎日を送っていたとしたら、
学会活動の優先順位は低くなっていくことだろう。
そしてそれを学会は許しているし、
外でこそ活躍せよとメッセージを出している。


学会での活動で経験する
いろんな人がいる中で揉まれることや、
目的に向かって頑張ること、
それらすべては社会で役立つためのプログラムだ。
まったくうまくできている。


それをにわかの知識で否定し、アンチの甘言に従って、
未熟な自分のままで脱会する。
それは、実はとても危険なことだと、本当に僕は思う。
組織に繋がったままの蒼蠅驥尾のほうが、まだ安全だろう。
【2008/09/04 17:50 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(1) | page top↑
アンチは幸せか
幸せならいいんですけどね。
なんだか不幸そうに見えるのよ。
人を学会員かそうでないかで差別し、
警戒しながら生きている。
僕ら学会員は、学会員であろうがなかろうが、
どんな宗教を持つものであろうが、
差別することなく普通に対話をすることが出来る。
人がどういう宗教を持っているかなんて、
なんにも恐れることはない。
しかし、アンチにはそれが出来ない。
ヘンな先入観を持っているからだ。


僕らは自分の宗教に自信を持っているし、
誇りもあるから、いかに素晴らしいかということを語る。
それは自由なことだ。
アンチはこれが許せないことだと言う。
客観的に見て、偏っているのはどちらだろうか。


そういう偏りが、実は彼らを不幸にする。
本当は彼らだってわかってるのかもしれない。
だけどアンチという枠から抜けられない。
それが彼らのアイデンティティであり、
仲間と仲良くするための共通項だからだ。


たいていの学会批判者はダメな人だ
(立派な人を見たことがない)。
ダメな人であることから抜け出ようともしない。
悪いところを直しあおうとも、高め合おうともしない。
ダメな人同士、ぬるま湯に浸かってるのが気持ちいいのだろう。


彼らは創価学会という対象を用意して、
その重箱の隅をつついて喜んでいる。
学会にとってネガティブな要素を引用しては、
「創価学会はもう終わりだ」などと喧伝するが、
僕みたいに学会史を知ってる者からすれば、
「そんなピンチはいくらでもあったよ(笑)」と思う。
その都度、学会は、学会員は、なんとかしてきたからね。
言ってみれば創価学会は、生まれたときから今の今まで、
ずっと崖っぷちだったと思いますよ。


それを「学会は終わりだ」なんて、
さもわかったような口調で言ってるのを見ると、
なんだか見てらんない、というか、
こちらが恥ずかしくなってくるんだよな。
誰か止めてやれよ、と。


客観的に見て、まだまだ創価学会はしぶとく生き残るよ。
ベタな話だけれども、
学会員が票をかき集める力を持っている限り、
社会への影響は衰えることはない。
アンチは、だからこの力を削ぎたいと運動してるんだろうけど。


もしアンチが理想とする社会をつくりたいと思うのなら、
まずは票集め出来る組織をつくるところから始めるがいい。
そういう努力もしないで、学会員を揶揄するだけなんだよね。
アンチのそういうところが、僕は嫌いだな。
世に不満があるなら自ら立てばいいのに。
インターネットの片隅で、ブツブツ文句を言うだけ…。


幸せかどうかは、主体的に生きているかどうか、だと思う。
主体的に生きていれば、他人の宗教なんて気にならないし、
こまごまとしたことに神経質になったりしない。
学会員も、念仏信者も、キリスト教信者も、
普通に手を取り合えるようになる。


学会員は念仏信者の主張を聞き流し、
念仏信者は学会員の主張を聞き流す。
それでいいんですよ。
「僕はそうは思わないけどね」と言いながら、
それでも協調出来るとこだけ協調すればいい。


学会員にはそれが出来る。
アンチにはそれが出来ない。
学会員の言葉にヒステリックに反応する。
学会員の存在をシャットアウトする。


つまり、こういう態度こそが、きっと本当の不幸なんです。
【2008/09/02 06:02 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(0) | page top↑
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