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「無常」が仏教のキーワードならば。
信仰仏教教団には若者がいて、
既成仏教教団に若者がいないのはなぜか。
それは、暗いからである。


仏教=クラい


このイメージを打ち崩さなければ、若者は寄りつかない。
「クラい」原因はなんだと思う?
俺は「深い反省を伴って」考えちゃうからだと思う。
まあ反省はほどほどに吹っ切って、明るく前向きになったほうがいい。
でもきっと、既成仏教にはそれが出来ないだろう。
頭が硬直しているからだ。
または、エスタブリッシュメントに縛られてるせいかもしれぬ。
それとも、仏教の条件として
「クラくなければならない」とでも言い出すのかい?


人をアトラクトさせるものというのは、明るく朗らかなものだ。
仏教の寺なんて、テーマパークみたいなもんだろう。。
だいたいクラい奴に近づこうと思うかい? 俺は思わないな。
天の岩戸は、歌と踊りによって開かれる。


仏教寺院にいって、
鬱々とした気分になって帰ってくることになったら、
二度と行こうとは思わないだろう。
もし寺に若者の姿が見えるようにしたいのならば、
リピーター獲得の努力をする必要がある。


たとえば、現代において仏教は、
音楽に溶け込んでいるというのは俺の自説だけれども、
ミュージシャンのライブというのは一種の宗教儀式だと思う。
ライブで一緒に盛り上がり、
ミュージシャンと観客とで、一体感を感じる。
それが、とても気持ちいいわけだ。
これを「境智冥合」と言うわけですよ。
ライブからの帰路で「またライブに行きたい」って思う。


だから、既成仏教だって、そういうイベントをアピールして
若者に「また来たい」って思えるようにすればいい。
そういえば真言宗の護摩なんて、なかなかいいパフォーマンスだ。
不動明王真言の響きとともに炎がゆらめく。
その炎に吸い込まれるような気さえする。
一種の芸術だと俺は思うよ。
少なくとも俺は「また行きたいなぁ」って思ってる。


創価学会で言うならば、会合に行って、
みんなと一緒に方便品自我偈と唱題をする。
それだけで、なんとなく一体感が味わえて「いいなぁ」って思う。
そして「また一緒に勤行したいな」って思う。
それでいいんだと思うんだ。それが宗教ってもんだろう。
だから、創価学会にはリピーターがつくわけです。
年間パスポートを買うわけですよ(笑)。
アンチは、そんな人を「騙されてる」と言うけれど、
「元気になれた」「励まされた」と思って買う人も多いんですよ。


ニーズが無いものは滅びる。
ニーズがあるものは生き残る。


生き残りたいと思うのならば、
ニーズをつかんでそれに合わせて変化していくことだ。
創価学会がなぜ生き残っているかといえば、
時代のニーズに合わせて自由自在に変わっていくからだ。
すくなくとも時代のトレンドに合わせようと努力している。
仏教の根本である「無常」を理解するということは、
そういうことではなかろうか。


今までの教義すら捨てられないで、なにが仏教か。
一遍は死ぬ際に
「一代聖教みな尽きて 南無阿弥陀仏になりはてぬ」
と言って、著作の一切を焼き払ったと言う。
このくらいの行動が出来てこそ、仏教者だと思う。
教義に執着している時点で、エセ仏教なのです。
時代や地域に合わせて、水のように姿を変えていく。
これこそが、仏教のありかたではないのか。


創価学会は今までの教義を平気で捨てていく。
しかも、大きな混乱が起きないように、上手に。
もちろんアンチは悪く言う。
「学会はカメレオンのようだ」と。


しかしそもそも創価学会の理念は、
民衆・大衆を救うためのものであり、
民衆・大衆が納得する形を研究し、工夫しているだけのことだ。
その結果、時代にあった形で、解釈を変えるし、指導性も変えていく。
それによって、民衆・大衆の支持を得る。
なにが悪いのか?
変わったからといって、いちいちいちいち反省し謝罪すれっちゅうの?


民衆ではないインテリは、
インテリなりに自分だけで勝手に哲学を構築すればよろしい。
法華経での二乗成仏の立場である俺は、そういう二乗も許すよ。
だけど、仏教はきっと本来、インテリではなく、
民衆・大衆を救うためのものであると思う。
大乗仏教というのはそういうものだ。
釈迦の滅後、八万法蔵が生まれたのは、
仏教が時と場所に応じて変じていったという証拠である。


仏教なんていうものは、見る角度によって多彩な色を見せるし、
どれが正統なものだなんて言えない性格のものだ。
いわゆる非仏説であろうとも仏教の範疇に入るとされることでわかる。


アンチは「創価学会は仏教ではない」などと、したり顔で言うけれど、
世の中仏教でないものなんてひとつとして無い、というのが、
仏教者の立場じゃないのか。
あらゆるものを仏教の一つの相として解釈出来るものだ。
それが出来ないならば、教条主義に堕したエセ仏教者なのだと思う。


現代において何が求められているのかということを敏感につかんで、
己を世界に合わせていく。
そういうカタチこそ、真の仏教と言えるのではなかろうかと思う。
現代はクラいものより、明るいものが求められている。
創価学会は伝統仏教のクラく抹香臭いものを廃し、
明るくしよう朗らかにしようと努力している
(いや、あかぬけてはないけどね(苦笑))。
だから少なくとも既成仏教教団よりも、創価学会の方が仏教らしいし、
トレンドに敏感な若者さえも集まっているのだ。
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【2006/02/16 10:47 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
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コメント
--山、高きが故に尊からず(実語経:伝空海)--
そうそう暗い。葬式ビジネスを生業にしてるから。

ボーイスカウトばかりやってられないってか。


実際、個人的には暗い寺ってのはあまり知らないし、宗派問わず開放的で明るいご住職が大半だけれど、そういう経験がないと敷居は高く感じるよね。拝観料とか払って案内人と観光客のような契約関係でも成り立たないと、対等にお気楽に話したりしにくいもの事実だろうな。


まあ、神社で拝観料とか入場料とるところは比較的少ないけれど、寺は(特に有名ところは大半)取るところ多いよね。何、もったいつけてんだか。どこでもちゃんと喜捨するってばヨ。100円だけだけど。時に10円。がはは。
by:歩 | URL | #NJs7.fVo【2006/02/16 17:30】 [ 編集] | page top↑
--敷居は高そうに見えても--
どんなものでもそうですけど、
自分から飛び込んでいかないと、
良さってわからないんですよね。
寺でもそうで、住職と仲良くなるためには、
こちらから積極的に話しかけないと、
その人の持つ味ってわからない。
公の顔としては、近づきがたい雰囲気を持っている人が、
プライベートで接してみると、意外と話せたりして。


逆に考えると、契約関係を成り立たせることで、
お気楽に話すことが出来るんだったら、
それはそれでもいいかもしれないなぁ。
カネの正しい使い方かもしれん。
by:gizmo | URL | #-【2006/02/17 06:45】 [ 編集] | page top↑
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