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違う価値観
「どちらでもない」ということではなくて、
「どちらでもある」ということを考えられないかと思うんだな。


二つの矛盾する考え方が、
収まりよく成り立つ一点ってのがあると信じたいわけよ。
それを探すことが「対話」だと思うのね。
妥協点とも違くて、お互いのバックグラウンドや、
その考えに至るプロセスなんかを、
理解しようとする姿勢をもってことを進めることを、
「建設的」と言うと思うんだけどな。


「どちらでもない」という、
理解出来る可能性をあきらめる姿勢ではなくて、
「どちらでもある」という、
どこかに理解しあえる点があるかもしれないと信じて、
その点をお互いに探し続けることが必要なんじゃないか、と。


一番ラクなのは、互いに隔離された場所で、
違う文脈で生きていくことなわけですよ。
一人ひとりが違う信念を持っているとするならば、
究極的には、山にこもって一人で過ごすのが一番ってことになっちゃう。
でも、世の中そうはいかないわけじゃないですか。
ひきこもりってのは「どちらでもない」を選択した姿だよな。


なにが問題かっていうと「頑な」さだと思ったりもするなぁ。
しょうがないじゃんなぁ、学会員も非学会員も共存していかねーとさ。


日本は単一民族国家だという甘えが、
学会問題とされているものの本質な気がする。
学会員と非学会員は違う民族なんですよ。


だとしたら、説明しなきゃわかってもらえないだろうし、
説明をきかなきゃわからないだろうよ。
その過程で傷つくことをおそれて、
どっちかが「頑な」になるから、話が前に進まないわけだ。
聞くことすら拒否されるんじゃ、どうしようもないじゃんねぇ。
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【2006/04/12 11:09 】 | 未分類 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
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コメント
--頭の堅いのはどなた?--
>学会員と非学会員は違う民族なんですよ。

世の中、いろいろな宗教があり、信者さんもたくさんいます。全てが学会、主流ではなく、学会員とその他でくくらないように。

私は学会員ですがあまりにも自己中心的な考え方に非常に危機感を感じます。

広宣流布にしても、あくまで日頃の自分を見ていただく、信心している人は流石に人間ができているとある意味、常識的な見識で判断していただくという気持ちで常日頃、自分を見つめ、反省し、姿勢を但し、そして実証を示していく。

これこそが広宣流布だと思います。

私たちは修行者です。

by:先ほど書き込みしたもの | URL | #-【2006/04/12 21:49】 [ 編集] | page top↑
--~いただくって。--
何々させていただく、
決意させていただく、
折伏させていただく、
役職をさせていただく、
いただくが、多いですね、最近。

見ていただく、判断していただく。。。

何か不思議なんですよね、この“いただく”って。
by:photochika | URL | #-【2006/04/13 13:20】 [ 編集] | page top↑
--コメントさせていただく--
photochikaさん、こんにちわあっ。

いただくって、受動的やね。リモートコントロール?
by:三九郎 | URL | #-【2006/04/13 17:13】 [ 編集] | page top↑
--縁起。--
いただくって感謝感謝感謝感謝ゃ~って感謝な言葉のインフレ状態な昨今ですが、いかがお過ごしでしょうか。「感謝」も恩を感じる気持ちが備わるのがその第一歩でしょうね。恩を感じたら、必然的に出てくる言葉は感謝の念がこもっているんじゃないかな。

で、私なんかもしょっちゅうあるのですが、この恩のようなものを疎かにした状態で言葉のうえだけで「感謝してるっぽい」かっこをしちゃっうんですよね。いわゆる「要領しぃ」ですね。「要領のいいヤツは云々」が当てはまる場合の「要領」。


「いただく」と「受動」をちょこっと意識した一年前くらいの私の大好きな某淑女へのレス。

http://blog.livedoor.jp/fookoo/archives/16347214.html


恩を感じたら、いただくいただくばかりよりも、感謝一言、あとはスパッと「~します。」の宣言、もっと言えば不言実行の方が報恩につながるんじゃなかろうか。

こん時は準備段取力や調整力、洞察力想像力、なによりも実行力など様々な「要領」が必要になってくると思う。そして経験から言えば、対峙すべきのもの求めているモノぶつけているか、掘り起こしているかって「要領」はダイレクトに結果に結びつくことが多いですよね。

右へ習えの無理矢理兎に角の「~しま~~ッス!エイエイオー!」ってのは、その「エイエイオー」そのものが目的(それも立派な目的だ)でないのなら、寝るか笑うかどっちかだな。がはは。
by:歩 | URL | #NJs7.fVo【2006/04/13 20:55】 [ 編集] | page top↑
--うん、なるほど!--
三九郎さん、こんばんは。

なるほどナルホド、「受動的」ですね。
うん、そうだ、受動的だから気持ち悪いんだ。
ちょっと、ズルイとか思ってしまったりしていました。
三九郎さん、するどいなあ。

歩さん、こんばんは。

>恩を感じたら、いただくいただくばかりよりも、感謝>一言、あとはスパッと「~します。」の宣言、もっと言>えば不言実行の方が報恩につながるんじゃなかろ>うか。

ありがとうございます。
スッキリしました^^。
“動かせるのは自分だけ“。
私もそう思います。

by:photochika | URL | #-【2006/04/13 22:57】 [ 編集] | page top↑
--暴言を吐かせていただくw--
>「感謝してるっぽい」かっこ


あー、コレコレ。俺コレが嫌いなんですよ。
しかも本人気づいてないと、さらに痛い。
つーか「言葉に出すなよそんなこと」とか思っちゃう。
「感謝してる」かっこ。
「反省してる」かっこ。
「危機感を感じている」かっこ。
なんか胡散臭いんだよねぇ…。


極論だけど、不言実行とか、
感謝の言葉や見返りを求めない
というのが「喜捨」な気がします。


>段取力や調整力、洞察力想像力、なによりも実行力


齋藤孝を連想してしまいましたw
「要領」ってのは、つまり「技」なんだよなぁと。
by:gizmo | URL | #-【2006/04/14 10:20】 [ 編集] | page top↑
--心技体--
そうそう要領ってのは技だねぇ。


体ができて技ができるのではなくて技が体を作っていくのだと思いますねぇ。

その技は何から編み出されるかというと、最初に心というか志のようなものがあって。

最初はおぼろげながらでも、伝統でも、受け売りでもいいと思うんです。その技を磨き練り固めていくうちに、技そのものも体も、そして心も高まっていくこともあると思うのです。

型を鍛錬するってことはそういうことじゃないかと思うのです。

おお、なんだか齋藤チックというか、そのままじゃん。がはは。


百年千年続いてきた型はそうそう揺るがないと思いますよ。内側から崩れていかないかぎり。


まだ駆け出しの創価学会もこれから百年千年続いていくことでしょう。その続く型とは何ぞや、それが今どういう形をしていて、どう大切にされ、どう育まれているか。それが創価学会のアイデンティティなのだと思います。また伝統仏教といわれるものも何百年も続いてきた型をこれからどう育んでいくのか。それがその時の「今」にどう生かされていくのか。

曹洞宗、禅宗というのもがはたして宗教なのか信仰なのかそれは定義次第だとは思うのですが、千年先でも一万年先でもただ座禅をしていることと思っています。


創価学会も日蓮正宗もつぶれることもつぶすこともできないと思いますよ。

お互い型をしっかり練り実践していけばいいのになあ、と思います。

by:歩 | URL | #NJs7.fVo【2006/04/15 02:30】 [ 編集] | page top↑
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