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誰のための創価学会?
たまにはマルチポストしちゃいまっせ(笑)。
ペガサス掲示板もよろしく(と、勝手にちょっと宣伝w)。


結局「誰のための創価学会なのか」ってとこが大事だと思うんですよ。
この答えは、たぶん
「創価学会を必要とする人のための創価学会」
だと思う。
ある個人が「創価学会なんて必要ない」と思えば、
とっとと創価学会なんてやめちゃって、
その思惑にもとづいて攻撃すればいいし理解出来るんだけど、
学会員が学会員でありながら、また創価学会の恩恵を受けながら、
学会の仕組みにケチをつけるのが意味わかんないんですね。


創価学会の組織は、下っ端、中間幹部、上位幹部など、
それぞれのセクションでそれぞれの「生き甲斐」を提供してくれてる。
その提供されたものが不満ならば、
セクションを移動すればいいと思うんだな。
正は無理って訴えれば、副になることだって出来るんじゃないか。
役職はずしてくださいと訴えればはずしてもらえるんじゃないか。
それとも上位に行けば行くほど
「エンコ詰め」みたいなもんがあるんかな。
うん、わかった。上位の人が「ある」と言うなら、
それは理解したとしよう。
下っ端の僕には情報の真偽を判断することが出来ないからね。
最高幹部は究極の裏方だと想像します
(あらゆる組織はそういうものだよね)。


でも、どっちかといえば、ネットで騒いでる元活動家アンチというのは、
下っ端幹部、中間幹部だった人じゃないんですかね。
深刻な「エンコ詰め」があるとは思えないわけです。
自分の意志をはっきり伝えて、
セクションを移動することは出来ると思う。
その自由が無いわけではないでしょう。


ある個人が組織の駒として動くという決意をしたならば、
駒として動いてもらわなければ、組織にとって迷惑です。
組織活動というものは全体主義でしょう。
強い軍隊も強い会社も、トップダウンです。


また駒として動くことに喜びが無いなら、そのセクションを辞めればいい。
個人主義を旨として、
組織の外で活躍する学会員だっていますからね。
外部でせっせと稼いで財務で組織に協力するなら、
それは学会活動と言ってもいいでしょう。
立派な学会員だと思うわけですよ、組織維持に貢献してるんだから。
また、めざすは総体革命なわけですから、
創価学会の理念に反しない。


レストランに例えて言うなら、組織活動家というのはコックであり、
厨房の中で働く人でしょう。
誰が客かといえば、なんらかの事情で組織活動しない学会員でしょう。
組織の外で戦っている学会員であったり、
年老いて現役の組織活動を退いた学会員であったり。
ホストとゲストの関係です。


それが「先生からお預かりした大切な守るべき学会員」
という概念であり、
学会員を守ることに誇りを持つことが出来ることが、
組織活動家の一番の報酬なんじゃないのかな。


そして、料理を作る側の人も食べる側の人も、
同じ地位だというのが仏教的な気が、僕はします。
「喜捨」の意味ってそこにあるんじゃないですかね。


必ずしもサービスを提供する側が偉いのではなく、
サービスを受ける人がいるからサービスさせていただくことが出来る。
「~してあげる」ということは嬉しいことでありましょう。


ここで、相田みつを、が思い浮かんだので引用してみる。


「お布施」というのは相手に無くて自分に有るものを分け与えて、
お互いによかったよかった、と喜び合うことだ。与えたほうも貰っ
たほうも共に感謝し合うことだ。
そこで大事なことはね、布施が行われるための条件だな、それは次
の三つだ。
 一、与える人…これを施者という
 二、与える物…これを施物という
 三、受けてくれる人…これを受者という
いいかな、よく考えてごらん。この三つのうちひとつでも欠けたら
布施にはならないんだな。われわれの常識ではね、与える者さえい
れば何時でも布施ができると思うだろう。そうじゃないんだな、い
くら与えようとしてもね、受けてくれる人がいなければ与えること
はできないな、
「折角だが私は要らない」
と断られたらどうだろう? 布施にはならないな。相手の喜んだ顔
見て、こっちもいい気持になる。お互いがいい気持になること、そ
れが布施だ。するとね、ここで大事なことはね、布施では受けてく
れる人も与える人と同じに大切だということ。つまりね、与えるほ
うが上で、貰うほうが下だ、なんて差別はない、て、ことだ。そこ
のところが一番大事。そこをしっかり押さえること。
(相田みつを にんげんだもの より)



組織について活動する者は、
つまり自分の時間と労力を、お布施してるわけです。
お布施して、いい気持ちになること、それが施者の功徳でありましょう。


組織(学会員一人ひとり)は人材を欲している。
活動家は時間と労力を提供する。
組織(学会員一人ひとり)から「ありがとう」と言われる。
活動家はいい気持ちになれる。
この図式が学会活動でしょう。


組織の活動というのは、時間と労力を
提供したい布施したいという人のためにある。
もし創価学会が存在しなくなったら、「受者」がなくなってしまう。
わかりやすい例でいえば、ヒマな婦人は
ブツブツ文句はいうかもしれないけれど、
活動出来る場所があるだけで幸せだと思いますよ。
活動自体が目的になっている。


ちなみに僕は、与える時間がないから、活動という布施をしませんが。
もし与える時間があれば、布施してもいいと思うようになっています。
まあ、組織にとって、必要とされてないだけかもしれませんが(笑)。
でも組織について活動している人に対して、
「ありがとう」という気持ちはありますよ。


ちょっと話がずれましたが、
つまり創価学会というのは、学会員一人ひとりが、
「いい気持ち」になれるための装置でありましょう。
アンチかシンパかというのは、この布施の図式を
維持したいかどうかなんじゃないかと思うんです。
人工的ではあるけれど
(人工的なものにアレルギーのある保守な人もいます)、
この循環のシステムで、
価値つまり「いい気持ち」を無限に生み出すことが出来る。
そのシステムを信じるか信じないか、だと思うんですよ。


信じない人にとってはネズミ講に映るでしょう。
そんな人にとって信じるものは金銭的価値のみかもしれません。
価値判断基準が金銭だけだとするなら、学会は悪かもしれません。
だけど僕は、金銭的価値を超越したところに
人間の幸せがあると思うのね。
だから「創価学会はビジネスなんです」と言われても、
「そういう側面もあるかもしれないね。で、それっていけないこと?」
と言いたくなっちゃう。


創価学会っていうのは、
金銭的価値だけではないいろいろな価値を
布施したりされたりしながら、
互いに気持ちよくなる一つのモデルを提唱し、
実際にその仕組みを運用しているんだと思うんですわ。
それがいわゆる「価値創造」でしょう。


そう考えると、やっぱ僕はシンパですね。
僕はなんで学会員でいるかといえば、
やっぱ気持ちいいから学会員で居続けるんです。
内部の多くの人を気持ちよくする仕組みを維持することに
気持ちよさを感じる。
だから、僕には創価学会が必要です。
なんらかの形で、組織を必要とし維持したいと思うなら、
シンパだよねえ。


たぶん、この布施したりされたりしながら
価値を生み出す学会の仕組みは、
昔だろうと今だろうと、変わってないと思うし、文句言う人の数も、
学会を去っていく人の数も、変わってないんだろうななんて思う。
ネットを主体にしてるとネットの情報しか流れてこないしねぇ。
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【2006/09/01 13:26 】 | 未分類 | コメント(5) | トラックバック(0) | page top↑
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コメント
--宣伝してくれて--
ありがとう。

んーと、んーと、思うんですけど。
主張をダイレクトにというのは解りやすいし、

それが正解と思います。

ただ、私の場合グレーゾーンで生きてるものでw

自分が正しいとか、そういう風には思ってないです。
自分でも矛盾をいっぱい抱えていると思ってます。

大確信で生きておられる方に何も言うこともないし、又言う権利もないと思ってます。

ただ私の心の叫びです。無視されるとそれまでのことです・・w

もしかして、共鳴される方がおられるとなんかそれなりに意義あったのかな、と考えてるだけなんです。
by:ペガサス | URL | #-【2006/09/01 21:39】 [ 編集] | page top↑
--ペガサス掲示板をよろしくw--
ペガサスさん、コメントありがとうございます。
客観的に正しいということは存在しない、
グレーであるってのはその通りかもしれないですね。


でも、僕は主体的に生きていきたいし、主観で語りたいと思うんです。
主観で語る以上それは、客観的正解ではない。
でも、少なくとも僕の主観的正解を語っている事実は成立する。
それぞれの人が主観的正解を語ることが許される世界が、
健全なんじゃないか、なんて僕は思うんですよね。
そして「そう思うなら自分がやれ」と僕は思うので、
僕は率先して主観的正解を思いっきり語ってるわけです。


僕は、今の僕が一番正しいと思って語ってますよ。
みんなが自分の主観的な「心の叫び」を自由に語ることが
ストレス社会と言われる現代日本を
乗り切る鍵になるんじゃないか、なんて思います。
その主張の内容が意味があるかないかは別にして、
普段から思ってることを大きな声で言った方がいいんですよ、きっと。
by:gizmo | URL | #-【2006/09/01 22:44】 [ 編集] | page top↑
----
>みんなが自分の主観的な「心の叫び」を自由に語ることが
ストレス社会と言われる現代日本を
乗り切る鍵になるんじゃないか、なんて思います。

名言かも。
そうですね。

今の時代、自分リスクで実存的生き方が問われているのかもしれません。

情報が溢れているということは、逆説的言い方をするならば人に取捨選択の能力が備わって来てるということかもしれませんね。
by:ペガサス | URL | #-【2006/09/01 23:08】 [ 編集] | page top↑
--布施のターゲット--
受者を誰とみているかどうか、ってポイントのひとつだよね。

組織についているいないに関わらず、この受者を組織創価学会を越えて、一般社会であったり、地域であったり、家庭として行動されている創価学会員の方いっぱいいますよね。また創価学会以外の人も同様だと思います。

受者を特定の組織団体の内部に囲うようにされている方も、創価学会にも他の社会団体にもあると思います。

創価学会は規模も大きいし組織的にも強固なものを築いているので、内側に向いてしまう傾向や、それで十分な満足感幸福感を得る傾向も強いと思います。

様々な信条を持った5人の家族の喜びも、数万人の同じ組織の大歓喜盛り上がりも、本来の幸福に差があるわけでも比較できるものでもないと思います。ただ、どちらかだけに気持ちが偏重してしまう(内側に向くことに満足)してしまうと、すぐそば近隣のものや思いを異にするものに目がいかなかったり排他的になったりすることも多いのではないかと思います。同じように、逆のパターンもあると思います。


相田みつをも曹洞禅の影響薫陶も強くうけていると伝わってくる一節ですね。

私の布施に関しての駄文はこちら↓

http://blog.livedoor.jp/fookoo/archives/11203473.html
by:歩 | URL | #NJs7.fVo【2006/09/02 15:12】 [ 編集] | page top↑
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for whom? whomsoever


やめない人にはやめない理由が百も二百もあるのでしょうが、大のオトナなんだからいやならやめればいいのに、変えたきゃ変えるよう「こんなことやってます、みなさんもやってみませんか?」ってやればいいのにと思います。
ブーブー言うのはそれ自体が目的であったり、そのブーブー言う理由や背景があるということでしょう。それを、どう解釈するかってところかな。

そこに様々な解釈や思いや言動があって、それでいいのだと思います。


結論的にはタイトルに戻って「誰のため」そのもの。
by:歩 | URL | #NJs7.fVo【2006/09/02 15:14】 [ 編集] | page top↑
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