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では、戦っているか
念仏信者は、今生きているこの世界を、
夢も希望もない穢土と解釈する。
法華信者は、今生きているこの世界を、
夢と希望にあふれた寂光土と解釈する。
修行とは「娑婆即寂光土」だと感じられるように
するために、自分自身を磨くことだ。


この世界で本気で生きていれば、
苦しいことやつらいことがあるのは当たり前であり、
それを自分自身の糧としてどう位置づけていくかが
智慧であり、人として生きる意味にもつながる。
苦しいことやつらいことを克服することによって
成長があるのだと思う。僕は成長を肯定する。


幸運が天から降ってきたり、今いる場所以外のどこかに
苦しみのない素敵な場所があるわけではない。
今いる場所で、今そこにある問題と格闘するしかない。
逃げても逃げても、自分が変化しない限り、
その問題はいつまでも追いかけてくる。


宗教の役割は、生きる上でなにを大前提とするか、を定めることだ。
「この世は醜い」を大前提とするか、
「この世は美しい」を大前提とするか、
それによって、今生きる人間の姿勢が変わってくる。
ものごとは全て相を持っているから、この世についても、
醜いと立てても美しいと立てても同じものとも言えるのは確かだ。


これは人間というものの大前提とも関わってくる。
「人間というものを意地悪なものだ」と立てるか、
「人間というものを親切なものだ」と立てるか。
何度裏切られてたとしても、
「人間というものは親切なものだ」
と立てるべきだと思う。
それが忍辱の鎧を着るということだろうし、
不軽菩薩の精神とも言えるだろう。
それは恥ずかしいことではない。
強くなければ続けられないことである。
あきらめることの方が恥ずかしいのだ。


宗教は人間のためにある。
今を生きる人間のためにある。
僕は死者のためにあるとは思わない。
「この世界は美しい」と立てて、
その実現のために戦い続けること。
「どうせ醜い世界なのだから」などと言ったりはしない。
決してあきらめない。
それが広宣流布という言葉の意味だ。


僕は念仏を否定しているのではなく、念仏的生き方を否定する。
これは本来、日蓮も同じだったはずだ。
理屈なんて、どんな時代だって後付けだ(現代だってそうだ)。
文章なんて思惑のために書くに決まっているだろう。
真意は文底を探ることでしかつかめない。


現在に生きる念仏信者が、果たして戦っているか。
この世界を醜いと立てて安心し、逃げていないか。
主体的に戦っているのならば肯定しよう。逃げているなら邪宗だ。
自分をとりまく環境に対する恨みが前面に出ていれば、
それは破折してあげるべきものだと僕は思っている。


「こんな環境ではまともに出来ない」というメンタリティこそ、
念仏信者の特徴であり、弱い心であり、
創価学会の文脈で言えば、魔である。
自他に存在するそんな魔を切っていくことが折伏であり、
善を生み悪を滅することになる。
「心こそ大切なれ」は真実だと僕は信じる。


絶対的幸福境涯は、自分が、自分の心が、
強くなることでしか、実現することは無い。
誰かが与えてくれるものでもないし、
どこかに行けばあるものでもない。


それがわかっていさえすれば、
題目を唱えていようと、念仏を唱えていようと、
座っていようと、無宗教を信じていようと、
ぶっちゃけなんだってかまわないと、僕は思っている。
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【2007/06/23 10:08 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
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コメント
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gizmoさんの言われる「念仏信者」にいろいろ当てはめても通用するよう思われますね。
禅者でもいいし、クリスチャンでもいいし、創価学会員でもいいし、前後の文脈からパラドクス的になりますが法華信者でもあてはまる場合がたくさんあると思います。もちろん信仰、宗教というくくりじゃなくても、自分の中の一部にでさえもあてはまるところがあることでしょう。


こと「念仏信者」と強調されている点については、偏った知識をお持ちなのか、そのようなことを語る人が集まるところに出入りされているのかと少々危惧します。ほんとうにそうかな。私の知っている「念仏」を心の拠り所にされている方にはあまり見受けないタイプなのですが。

もし本当にgizmoさんの周りにおっしゃっているような「念仏信者」の方(あるいはそう自称される方、あるいはgizmoさんがその括りに意を託されている方)がいらっしゃるのなら近づかれない方がよろしいことでしょう。きっと毒されていきまますよ。


それではまたいつか。
by:歩 | URL | #NJs7.fVo【2007/06/23 17:28】 [ 編集] | page top↑
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法華信者にも念仏的な人はおるし、念仏信者にも法華的な人はたくさんおってで、要するにどっちゃでもええわけやね。
題目も念仏も同じ様な物、その後のアクションが微妙に変わって判断されるもんやないやろかね。
自分自身がアクションおこさな何も実現せえへんし。とにかく自分なんや、自分が物事をどう捉えるかなんや。誰に言われるでもなく。

朝に題目、夕に念仏がやっぱり僕にはしっくりくるな。題目は気合いを入れる為、念仏は感謝の心でね。
あ、僕は題目は上げてへんで、僕の場合は咀嚼が頭を目覚めさせる(うちの娘に言わしたら、朝ご飯食べても目さめへんらしい、、、低血圧か? って、ぼくもかなり低血圧やけどな)。

gizmoさんの言うとおり、法華でも念仏でも無宗教でもなんでも周りが生き方を認めてくれたらそれでええと思うな。


歩さん、「それではまたいつか」って、どっかいってまうみたいやん。。。
by:三九郎 | URL | #-【2007/06/25 11:58】 [ 編集] | page top↑
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