『創価学会問題をぶつぶつ語るパート2』って感じ(笑)。テキトーに書くこともさることながら、あちこちでgizmoが書き散らしたのを集めてたりもする。平気でマルチポストします(ぉ)。
感情をあらわにしないせいだろうな、多分。
人間だれしも喜怒哀楽を感じるだろうが、 それをちゃんと表現しているか? 溜め込んでいないか? うれしいときは、喜んではしゃげばいい。 腹が立ったら、怒りをぶつけろ。 悲しいときは、静かに泣けばいい。 楽しかったら、思いっきり笑え。 これらは人間なら当たり前のことなんだ。 だけれども、わかったようなことをいって、 感情の発露を制限しようとするから、おかしくなる。 「謙虚たれ」などと言ってわかったような顔をするけれど、 そんな風に我慢をするたびに、人間らしさから離れていく。 「我慢しないと生きられない」 くらいに思ってる人もいるかもしれない。 でも、そうでもないよ。たぶん、それは錯覚。 我慢せずに感情を発露させ、 それでもみんなに愛されている。 そんな人、身近に思いつくでしょ? だったら自分がそうなればいいんだ。 そうなれないからといって、理屈を考えたり、 その人をねたんだりするより、 まず、自分がそうなっちゃえばいい。 素直になれば、世の中は生きやすい。 仏とは、決して怒らないとかいうような 非人間的な存在ではなく、 怒りもすれば悲しみもする。 人を傷つけもするし、自らも傷つくこともある。 そんなかわいらしい存在こそが、仏ではないか。 人間が人間らしくいられる以上の価値は存在しない。 だから、仏とは人間そのもののことだと僕は思う。 もっと感情のおもむくままに生きていいんだよ。 そうすることで、自分をとりまく世界だって 変わっていくんだ。 自分を縛っているのは環境なんかじゃなく、 いつだって自分自身。 スポンサーサイト
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仏が人間そのものならば、なぜ人は戦争をするのかしら?喧嘩をするのかしら?
静かに穏やかに過ごすことと、自分を封じ込めて過ごすことは意味が違うと思います。 泰然自若として暮らすのは、けして自分を封じ込めて悶々とする事ではないと思うのですが… 私は、人間は仏にはなれないと思います。 争う姿も、笑う姿も泣く姿も、普通に人間としてのあり方・営みだと思うんです。人は仏だからこそ喜怒哀楽できる、のではないです。 あなたが仏だと思う人間がいるなら、その人間は仏ではなく、「あなたが敬愛できるだけの人格」を持った人間、という事なのだと思います。 --追伸--
それが人間における「仏性」なのだとおもいますし、仏性を信仰している間は本物の仏には近づけないんじゃないかなと思います。
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座談会で、四月会騒動の時は敵だった自民党の片棒を担ぐのは何故か?
大搾先生は何故引退しないのか?後継者が何故いないのか? 勲章や名誉称号を大先生とその妻子が独占するのは何故か? ・・等々、一般会員の前で質問しまくったら、翌日地区の幹部から 「頼むからもう来ないでくれ」って電話があった。大勝利! --天上に人は行けない--
↑バロスwwwwwwww
まあ、仏や神の教えにすがっている者はそれにはなれん。 当たり前のことだな あんたの考えは、人間=仏だ。 だが、いったい誰がその境地に辿り着いたか? 俺は、絶対仏にはなれん。 誰も、超自然的な概念の世界になど、入れない。 ホモ・サピエンスという生物の領域ではないわけだ。 人間は人間を越えて神・仏になることはない。 だから、現世が一番いいんじゃないか。 --人間だものw--
喜怒哀楽だってプラスに働けば良い物になるんですよね。
仏になるも悪鬼になるも人間次第。 ただ、どちらが人間として価値のある生き方なのか・・・そこが重要だと思うのです。 |
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