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理と事
まあ、一念三千なんですが、理と事があってなんてやってくとキリがないのよね。
俺流解釈でいくと、理論と実践ってことなんですよねぇ。


理論と実践
整合性と矛盾
静と動
死と生


「理論ってのは、実生活に応用しないと意味無い」って思うクチの人間か、
それとも、「理論そのものに美しさを感じる」クチの人間か、ってことだと思うわけ。


俺はたぶん両方。
「そこにあるリンゴの存在とはなんぞや」とかやってる人の気持ちはわかる(理)。
「リンゴは手を伸ばしてかじればおいしい、それでいいじゃない」って人の気持ちもわかる(事)。


まあいろんな学会員がいるけど、悩んでない学会員はたいてい後者のタイプ。
前者だと、組織の言ってることとやってることが違うことに悩む。
悩みない学会員ってのは「御本尊は幸福製造器、それでいいじゃない」って人。


いや、まあ両方わかるけど、比較的後者だよなぁ、やっぱ、俺。
人間だもの、生きてりゃ矛盾もありまんがな。
設計図通りにはいかんでしょ。
煩悩を捨てようと思っても、やっぱちんちん立っちゃうわけよ。
そのちんちん立っちゃう俺を認めてあげた時、
「理」から「事」に横っ飛び出来る気がする。
「偉そうなこと言ったって所詮こんなもんよ」ってね。


んでなんだっけ?(笑)。
「理」な人と「事」な人が、お互いの存在をほっときゃいいんだけど、
どうやら両者は、反目し合うんだよなぁ。
俺もおもしろがって荷担してたりするけど。


高低浅深とか、釈尊がこういったとか、日蓮がこういったとか、
ホントどうでもいいって思うようになったしなぁ、俺。


でもまあ、天台から日蓮って話になると、
天台は要は理論、日蓮は要は実践って思う。
いわゆる「法華経を身で読む」ってやつで、
だから日蓮が「人本尊」ってなことになってるんだけど。
「理屈じゃななくて行動だ。動いてこそ意味がある」的な
結局、創価学会っぽいことになっちゃうんだよな。


「人本尊」だからといって、特別視して崇めちゃったら本末転倒なわけで、
彼をまあ、手本にして生きてみようか、という決意をしてるんだな、学会員は。


日蓮だって人間なんで、そりゃあミスもするし、おかしなことも言う。
でも、一生行動し続け戦い続けたっつーとこにエッセンスがあるわけ。
でもまあ、日蓮は性格悪そうだけどな(ぉ


性格悪いところにシンパシーを感じるのもアリだと思う。
俺は空海が好きだけれども、空海の性格悪いところに惹かれるんだな、これが。


んで、なんだっけ?(笑)。
えっと、音楽だ。


作曲家のしもべとしてのコンダクターとなるか、
作曲家の友人としてのコンダクターとなるか、ってあるように思います。
しもべとして、演奏者としてのコンダクターであるならば、
作曲家の意図を忠実に再現するのが使命なんだけれども。
友人としての、解釈者としてのコンダクターであるならば、
作曲家の意図をつかんだ上で、コンダクター流の解釈をして、
新しいものを生み出す。


作曲者の言ってることを咀嚼して、演奏として投げ返す。
そういうコンダクターがいてもいいと思うし、
俺はそういう演奏の方が好き(笑)。


プレイヤーレベルでいうならば、音楽は作曲者との対話なんですわ。
ここの「ため」をもっと、ためよう、とか、ここのところ俺流にくずしてやろう、とか。
作曲者を友人として、みてる。


作曲者は作曲者で「俺の意図はこうだから、こう解釈して、こう演奏してくれ」と
神経質に事細かな指示をする人もいれば、
「こんなの思いついたんだけど、あとは勝手に解釈してやってみてよ」
っておおざっぱな人もいる。
俺はおおざっぱな作曲者の方が好き。


事細かな指示は「理」、おおらかなのは「事」。
そんな感じがするけれど、どうじゃべ?(無理矢理戻してみた)
それでもほら、二元論は大好きな俺(笑)。
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【2005/11/03 09:22 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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