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子供教という宗教
つまり、子供を作ることは、子供教への入信なんですね。
自分の子供というものは、親の思いや生活の、
中心に入り込んでくるわけだし、いわゆる「絶対」になっちゃう。


学会員が、御本尊を「自分の命よりも大切」と言い切るように、
親は、子供を「自分の命よりも大切」と言い切るわけです。
御本尊を生きる支えにしている学会員が居るように、
子供が生きる支えになるケースは多いしね。
「絶対」ってのはそういうことでしょう。


自分の信じる宗教を悪く言われたり攻撃を受けたりすることは、
自分の子供を悪く言われたり攻撃を受けたりしたときの気持ちと、
同じなんじゃないかと思います。
「御本尊は紙っきれ」「コピー御本尊」なんて言われるのは、
「おまえの子供は紙っきれ」「おまえの子供はただのコピー」
なんて言われるのと同じです。
うん、そう言われたら腹立つよなぁ。


宗教間で、争いが絶えないのは、こういう理由なんじゃないすかね。
悪く言われたら言い返したくなるしし、
攻撃されたら攻撃し返したくなる。
「おまえの信じる宗教は邪宗だ」と言われたときの気持ちは、
「おまえの子供は邪悪だ」って言われる気持ちと一緒。
うん、腹が立つ(笑)。


親は「自分の子供が世の中で一番最高だ」と思いこみたい。
その思い自体はおかしなことではないし、当然だと思う。
ただ、そう思いこむための手法の一つとして、
他と比較することで、納得するってのがあるんだな…。
「ウチの子はこうだから他の子供に比べて優れてる」
って無理矢理ひねりだすんですね。


それが行き過ぎると、きっと他人の子供をおとしめて、
「あの子はこんなところがダメだ」となるわけです。
それを心の中にとどめていればいいのに、
口に出して言ってしまう親バカがいる。


これを宗教にシフトさせて語ると、まあ、
創価学会のたどってきた道のりなんですよね
(そして今、アンチが創価学会を
「こんなところがダメだ」と口に出して言っている)。


つまり教相判釈なんだな。
天台とか日蓮系がやってる(アンチ教も)教相判釈なんてものは、
自分の子供と他人の子供を比較検討してるようなもんで、
アホらしいなぁ、なんて思うんです。
そんでもって、他人の子供に向かって、
「おまえの子供は邪悪だ」って言うわけですよ。


いろんな性格の子供がいる。
勝ち気な子もいれば、優しい子もいる。
それぞれに傾向性がある。
どれが正しく、どれが邪だなんて言えない。
法華的な子もいれば、念仏的な子もいる。
念仏的な子に、法華じゃなきゃダメだとか、
法華的な子に、念仏じゃなきゃダメだとか、
そんな風に言うことって出来ないはずだろう。
いやまあ言ってもいいか…程度問題かなぁ。


宗教とのつきあい方が上手であれば、
きっと子供とのつきあい方も上手かも。
そういう意味で、宗教とつきあうことは、
子育ての訓練にもなるのかもしれないねぇ。
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【2005/11/12 06:43 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
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コメント
--めぐり逢い紡いで(布施明)--
gizmoさん、こんにちは。

どうしても自分の思い通りにならない(ならなくてヨイ!)愛しくてしょうがない存在に囲まれて、そいつらが常識の範疇にはいる言葉を持ち始め、ますます手強くなってきている今日この頃です。

でも世に言う常識というくくりがなかった幼児期のほうが想像できない角度や切り口から突拍子もないコラボで突きつけてくるんだよね。本質をつかれて唸っってしまったこと幾度も。


>宗教とのつきあい方が上手であれば、
>きっと子供とのつきあい方も上手かも。
>そういう意味で、宗教とつきあうことは、
>子育ての訓練にもなるのかもしれないねぇ。

しらたば(なつかしぃ~)

「子どもとのつきあい方が上手であれば
 宗教とのつきあい方も上手。
 そういう意味で、子どもとつきあうことは、
 宗教の訓練にもなる。」

これを断言できるか否かが、その方の宗教観に通じるのではないかなと思いました。

私はまさに「正」。
上手という語彙に多少ひっかかりがありますが、そのものではないかと。
子どもがいるいないじゃなく、何をあてはめてもいい。仕事だとか恋人だとか勉学だとか、自分が能動的行動を向ける外なる大切なもの。
逆に宗教というくくりじゃなくてもいい。生活、世間、社会、哲学思想イデオロギーなど、自分が属している(或いは信じている)内なるもの。

自分が外へのつきあい方と、内へのつきあい方は表裏一体。
生活即信心ってことはこういうことじゃないかな。
それで信心を狭く画一的に考えれば、楽といえば楽、窮屈といえば窮屈、人それぞれ。

そして、この内と外の中で、自分が自由に動かせることができるのは自分の唯一の主体としての自分だけ。
その「ひとり立つ」原動力の根本を南無妙法蓮華経に求め、その「ひとり立つ」姿を人間革命と呼んでいるのが創価学会の根本教義じゃないかな、なんて感じています。
そしてその実践は、、、以下略。ほんとはここからが要諦だ各宗教宗派とも。がはは。
by:歩 | URL | #NJs7.fVo【2005/11/12 18:06】 [ 編集] | page top↑
--思い通りにならないからこそ畏怖を感じる--
思い通りにならないものを、目の前にする恐怖ってありまして。
まあつまり、世の中ってものは、自分の思い通りにならないわけで、
その象徴としての「子供」ってぇのがあるような気もします。
「子供は神様だ」なんて無宗教な人が言ったりするけれど、
神様という単語を出すってことは広義での信仰なんでしょう。


>その「ひとり立つ」原動力の根本を南無妙法蓮華経に求め、その「ひとり立つ」姿を人間革命と呼んでいるのが創価学会の根本教義じゃないかな、なんて感じています。


ううむ、なるほど。
創価学会の根本教義をシンプルな単語で表現すると、
「南無妙法蓮華経」と「人間革命」だけなんだよなぁ。
それ以外は、別にどう変えたっていいような気が俺はします。
by:gizmo | URL | #-【2005/11/12 19:01】 [ 編集] | page top↑
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by: | | #【2005/11/13 01:42】 [ 編集] | page top↑
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by: | | #【2005/11/14 00:54】 [ 編集] | page top↑
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