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「技」としての宗教
宗教のポイントは「いいからやってみろ」であって、
それ以上でもそれ以下でもない。


創価学会は、まずそこに組織がある。
組織があり人間がいる。
息をしている人間が、悩める人に
「いいからやってみろよ」と具体的な「技」として
オススメしてくれるところに創価学会のミソがある。
「組織があるから広宣流布出来る」
という学会員の言葉はウソではない。


書物に書いてあることを解釈し、自分なりに工夫して、
「技化して」実行できる人間に組織は必要ないのであるが、
必ずしもそういう力を持っている人ばかりではない。
そういうときには「いいからやってみろよ」が有効となる。


「いいから御本尊の前に座って題目をあげてみろ」
これだけのシンプルなことを、
なんの根拠もなくオススメ出来る人はマレだろう。
そこまでの自信がないからだ。
自信のある人は教祖様になれる。


創価学会という現実の組織が、
根拠の脆弱な宗教の「技」を補完してくれる。
「すばらしい組織」を示すことが、根拠となりえているわけだ。
この文脈で組織信仰は正しい。
「組織がすばらしい」ということが、
唱題という「技」の裏付け担保となっている。


単なる個人が、どれだけ「技」を提唱しても、
やってみる人はいない。ましてや普及なんてしない。
おそらく、目に見えた実感を伴わないからだ。
息の感じられないネットでの提唱ならば、なおのこと説得力がない。
これはかつてアンチが提唱し挫折したことが、実証している。


宗教の「技」が人を救う可能性があると信じ、
悩める人を救いたいと考えているのならば、
息の通った現実でそれをオススメする必要があるし、
実際に「技」として体を使ってやらせてみなければ意味がない。
理屈だけならナンボでも言えるのである。


その点、創価学会は現実に組織があり、そこに人間が生きている。
一人の人間が、一人の人間のことを思って、
具体的に「技」をオススメし、一緒に「技」をやってみせる。
こういう実践が学会員にある限り、
大筋では創価学会は人を救い続ける存在でありつづけるのだろう。


逆に言えば、もしこの地道な実践が無くなったとき、
おそらく創価学会の死ぬのだろうな、とも思う。
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【2005/12/12 20:25 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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