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「仏教」の落とし穴
ネットでさも知ったかぶって「仏教」を語るものが居る。
その読書量を誇り、さもわかった風に。
しかし、その「仏教」はニセモノだ。
なぜなら、のびのびとした躍動感がないからである。
彼の語る「仏教」の中身といったら、
「傲慢になるな、反省せよ」というだけだ。
彼らの説く「平等」は、能力ある者をやっかみ
引きずりおろそうとする卑しい心から生まれる。
人の個体差は、あってはならないものと否定し、
「謙虚たれ」の枠にはめようとする。
そもそも、偏っているのである。


彼らの語る「仏教」はウソだ。
「悲」という面ばかりをピックアップしている。
その「仏教」では、身体を硬直させ、
我慢して生きなければならない。
彼らの主張する「仏教」の目指す状態は、
生きながらの死である。
この世に絶望し、死を待つだけの囚人になれ、
と言っているも同じである。


人間は生きている。
喜び、泣き、ときには傷つき、また人を傷つけ、
理不尽なことに悩み、人の優しさに触れ感動する。
その全てが、人間の活動であり、
その全部を含めて肯定する思想が仏教である。
円経というのは、そういうことだ。


悲しみに偏っている「仏教」はニセモノだと喝破せよ。
今、あなたがそうすることで、自分の殻を壊すことが出来る。
ひとつ上のステージに足を踏み入れることが出来る。
それは弁証法的止揚といってもいい。


ときには火になり、水になり、風にも、石にもなれる。
そのように自身を自由自在にコントロール出来ることが成仏と言える。
彼らは仏教を標榜するくせに、成仏の概念すらあきらめ、放棄した。
この世界で戦いつづけることから逃げたのだ。
そんなものは仏教ではない。
この生を楽しめずして、なにが仏教か!


仏教はeverythingである。
悲だけでもない、喜だけでもない。
人間の生命活動、その全てのことを肯定しているのだ。
彼らの「仏教」は、スジャータのミルクを飲む前のシャカである。
生きることは苦行であるという概念を、覆せ。
そうでなければ、本当に今生きている人生を、
つまらなく苦しいものだと信じこんでしまい、
もったいない生き方をすることになる。


目を覚ませ。
目の前の問題から逃げるな。
誰かの甘い言葉に酔って、人生を棒に振るな。
戦い続けろ。
あきらめるな。
何度だってトライすればいい。


その覚悟が出来たとき、
穢土にみえたこの世界は、
光り輝く寂光土になる。


この世界は、そして人間は、
とてもやさしいということに気づくのは、
そんな覚悟を持つことが出来たときなのである。
そしてそれを教えるのが仏教なのだ。
【2008/09/06 12:17 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
創価学会を脱会したら不幸になるわけ
「脱会したら不幸になる」
内部でよく言われる言葉だと思うが、
これは僕も本当にそう思う。


なぜかというと、要は学会というのは
人と人との繋がりに他ならないからだ。
人と人との繋がりを拒絶し、
チャンネルを切ることを良しと
判断した結果が脱会という行動となる。


まず、脱会する者の心には
「他者との煩わしい関係を断ち切りたい」
という望みがある。
今は学会に所属して、学会の人と接触しているが、
このつきあいがなかったらどんなに自由なことだろう、
と考えるわけだ。


そこでアンチの甘い言葉に出会う。


相談するうちに、学会がいかに悪であるかを吹き込まれ、
アンチの言葉がさも正しいような、
さも今までが間違っていたかのような、そんな錯覚に陥る。
そりゃそうだ、相手は何人も脱会させてきた、
人をその気にさせるプロなんだから。


かくして、彼は学会を辞める。


だが、実際に学会を辞めて、いざ一人になったとき、
自由になれたかといえばそうではない。
時間は出来た。
今まで出来なかったゴロゴロしてテレビをみること、
ビデオを借りてきて見ること、などなど、
人とつきあわずに、好き勝手なことが出来る。


さて、それが続けられるであろうか。
人は人との繋がりのなかで、自分の位置を見いだし、
必要とされることで、自分の存在意義を感じるものだ。
ヒマがあることが、自由なのではない。


次第になんともいえない空虚感に支配される。
まあそれでも、辞めたという自分の行動を
正当化したいものだから強がりは言うだろう。
もう今さら学会には戻れない。


そういう風になってしまったアンチは、
インターネットで憂さ晴らしをする。
自説をあたかも正しいように書いて理屈の世界生き、
脱会をうながし、仲間を増やそうとする。
その姿はあたかもアンチ教信者の様相を呈す。
悪質なのになると、ときにハンドルを変え、ときになりすまし、
学会員を陥れ、嘲笑して喜ぶような、ひねくれた者もいる。


彼らは概して孤独である。


そもそも、自らコミュニティに飛び込んでいくような、
もしくは自らコミュニティを作り出すような、
そんな社交的なバランス感覚を持った人は、
学会活動にどっぷり浸ったりはしない。
自分一人の力では打開できなかったから、
組織で活動し「訓練」を受けているのだ。


「訓練」しているうちに、バランス感覚が芽生えるようになる。
そのバランス感覚を駆使し、自分と他人の距離がとれるようになれば、
脱会などという物々しく迷惑なやりかたではなく、
上手に組織とつきあっていける。
きっとそうなったときは、外でも十分やっていけるだけの
社交的能力やバランス感覚が身に付いているだろう。


脱会しなくても、十分、自由に生きられるのだ。


もしリアルの生活が充実しきっており、
忙しい毎日を送っていたとしたら、
学会活動の優先順位は低くなっていくことだろう。
そしてそれを学会は許しているし、
外でこそ活躍せよとメッセージを出している。


学会での活動で経験する
いろんな人がいる中で揉まれることや、
目的に向かって頑張ること、
それらすべては社会で役立つためのプログラムだ。
まったくうまくできている。


それをにわかの知識で否定し、アンチの甘言に従って、
未熟な自分のままで脱会する。
それは、実はとても危険なことだと、本当に僕は思う。
組織に繋がったままの蒼蠅驥尾のほうが、まだ安全だろう。
【2008/09/04 17:50 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(1) | page top↑
アンチは幸せか
幸せならいいんですけどね。
なんだか不幸そうに見えるのよ。
人を学会員かそうでないかで差別し、
警戒しながら生きている。
僕ら学会員は、学会員であろうがなかろうが、
どんな宗教を持つものであろうが、
差別することなく普通に対話をすることが出来る。
人がどういう宗教を持っているかなんて、
なんにも恐れることはない。
しかし、アンチにはそれが出来ない。
ヘンな先入観を持っているからだ。


僕らは自分の宗教に自信を持っているし、
誇りもあるから、いかに素晴らしいかということを語る。
それは自由なことだ。
アンチはこれが許せないことだと言う。
客観的に見て、偏っているのはどちらだろうか。


そういう偏りが、実は彼らを不幸にする。
本当は彼らだってわかってるのかもしれない。
だけどアンチという枠から抜けられない。
それが彼らのアイデンティティであり、
仲間と仲良くするための共通項だからだ。


たいていの学会批判者はダメな人だ
(立派な人を見たことがない)。
ダメな人であることから抜け出ようともしない。
悪いところを直しあおうとも、高め合おうともしない。
ダメな人同士、ぬるま湯に浸かってるのが気持ちいいのだろう。


彼らは創価学会という対象を用意して、
その重箱の隅をつついて喜んでいる。
学会にとってネガティブな要素を引用しては、
「創価学会はもう終わりだ」などと喧伝するが、
僕みたいに学会史を知ってる者からすれば、
「そんなピンチはいくらでもあったよ(笑)」と思う。
その都度、学会は、学会員は、なんとかしてきたからね。
言ってみれば創価学会は、生まれたときから今の今まで、
ずっと崖っぷちだったと思いますよ。


それを「学会は終わりだ」なんて、
さもわかったような口調で言ってるのを見ると、
なんだか見てらんない、というか、
こちらが恥ずかしくなってくるんだよな。
誰か止めてやれよ、と。


客観的に見て、まだまだ創価学会はしぶとく生き残るよ。
ベタな話だけれども、
学会員が票をかき集める力を持っている限り、
社会への影響は衰えることはない。
アンチは、だからこの力を削ぎたいと運動してるんだろうけど。


もしアンチが理想とする社会をつくりたいと思うのなら、
まずは票集め出来る組織をつくるところから始めるがいい。
そういう努力もしないで、学会員を揶揄するだけなんだよね。
アンチのそういうところが、僕は嫌いだな。
世に不満があるなら自ら立てばいいのに。
インターネットの片隅で、ブツブツ文句を言うだけ…。


幸せかどうかは、主体的に生きているかどうか、だと思う。
主体的に生きていれば、他人の宗教なんて気にならないし、
こまごまとしたことに神経質になったりしない。
学会員も、念仏信者も、キリスト教信者も、
普通に手を取り合えるようになる。


学会員は念仏信者の主張を聞き流し、
念仏信者は学会員の主張を聞き流す。
それでいいんですよ。
「僕はそうは思わないけどね」と言いながら、
それでも協調出来るとこだけ協調すればいい。


学会員にはそれが出来る。
アンチにはそれが出来ない。
学会員の言葉にヒステリックに反応する。
学会員の存在をシャットアウトする。


つまり、こういう態度こそが、きっと本当の不幸なんです。
【2008/09/02 06:02 】 | 未分類 | コメント(9) | トラックバック(0) | page top↑
中国は発展して欲しいと思っているよ
中国が発展すればするほど、日本に住む我々は、
今までよりも我慢しなければならないことが増えてくる。
それはしかたのないことだと思う。
それでもなお僕は、中国の国民すべてが、
日本人並みの生活が出来る日が来ることを希望している。


今は、日本人の平均は、中国人の平均に比べて、
相当豊かな生活をしていると言えるだろう。
この生活の差が平等になることのためには、
僕ら日本人の生活レベルがある程度下がったとしても、
しかたがないと思っている。


おそらく僕ら日本人は、そのくらい贅沢をしている。


発展途上国が、発展するという見込みがある以上、
たとえば、この原油高は変わらない。
だとしたら、生活レベルで石油を使わないように
自らを馴染ませていくしかないのではないか。
それとも、日本人だけが石油をジャブジャブ使って
ラクな暮らしを続けていいということか。


いや、開き直ってるなら、潔いと思う。
「日本人が豊かに暮らすために、
中国人は貧しいままでいてもかまわない」
そう言い切ってる人なら、スジが通ってる。
さらに「だからオリンピックが成功しては困る」
と主張するなら、わかる。
でも、そう言い切るだけの覚悟もないだろう。
だから偽善だと言いたくなっちゃうんだ。


アジアという大きな目で、
また歴史という長い目で見たときに、
まず海のあるところから発展し豊かになっていった。
日本がそうであり、今は中国の沿海部がそうだ。
この豊かさを中国大陸の内側にまで浸透させるべく、
努力するのが平等の精神というものではないのか。


いいんじゃないかな、そのためにたとえば、
日本の地下にある天然ガスをチューチュー吸われたって。


中国のことを、
「賄賂が横行している」
「一党独裁で自浄作用がない」
「貧富の差が激しい」
そんな現状があることをわかった上で、
「どうしたら良くなるの?」と考え、
努力することが大切なんだと思う。


「だから、中国は嫌い」
「だから、援助は止めるべき」
となるのは短絡的ではないか。


だって現実に、中国には10億超の人間が住んでるんだぜ。


今回の地震で、つぶれた家の下敷きになった人に
本当に追悼の意を表する気持ちがあるのなら、
現実的に、中国を良くしよう、そのために協力しよう、
僕らが多少不便になってもかまわない、
そのくらいの覚悟があってしかるべきだと思う。


今まで日本に居てさんざん豊かな暮らしをしていて、
ちょっと不便になれば、すぐに日本政府に不満を言い、
海の向こうで誰かが死ねば、訳知り顔で、
「追悼の意を表すのが人の道」だなんて言う。
そういう上辺だけの人間が、俺は嫌いだな。


中国の耐震基準が上がれば、今後地震が来たときに、
倒壊した建物の下敷きになる人は減るだろう。
でも、そのためにはまず、中国全体が
豊かにならなければ無理だということは明らかだ。


「いざ」という時のためにコストを掛けられるかどうかは
財布の中身にその余裕があるかどうかにかかってる。
倒壊した建物の下敷きになった人を可哀想だと、
本当に思っているのならば、
中国が豊かになるよう願うのが道理だろう。


「追悼の意」では何も解決しないのだ。
【2008/05/27 17:44 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
頑張れ!中国!
今回、中国はこんな地震の被害にあったけれども、
めげずに、ガッツを出して頑張って欲しいと思っている。


考えようによっては、この地震も、あながちマイナスばかりでもない。
まずは、この地震の復興に、世界各国から支援を受けることで、
中国は国際的に連帯関係がある内外に宣伝することができた。
いろんな国からチベット関連でケチがつけられたけど、
なんとか体面が保てたんじゃないかな。


また、経済的には、災害復興のためにセメントなどの需要が
伸びることが予想されるのだなあ、鉄鋼や電気、通信も。
経済的には逆にプラスかもしれない。
古い建物を建て直すには、地震でもなきゃ難しいしね。


ピンチはチャンスだからね。
この地震に負けずに、オリンピックに向けての、
バネにするくらいの気持ちで頑張って欲しいよ。
頑張れ!中国!
【2008/05/16 14:58 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
いわゆるチベット問題に対して思うこと
本当に大事な視点っていうのは、
「じゃあ今後どうなっていくのか?」
ってことだと思うんだな。


チベット問題をみていて思うのがそういうこと。
つまり「どちらの味方」という見方では甘いんだ。
歴史を学んだ上での思考というのはそういうことでさ。
中国共産党という幕府があって、ではチベットという存在が
幕末の尊皇攘夷のような大義を伴った革命運動たりえるか。
現段階で考えると、チベットにそこまでの大義は無いし、
そこまでの力は無いと、僕は思う。


隣国としては、勝つ方に賭け、荷担するのが、
「国益に叶う」という政治判断となる。
僕は日本に住む日本人であり、
日本の国益に叶うことを正義とする。
正義というのはそういうものでしょう。


中国共産党は、中国における幕府。
それに対して革命を起こそうとするのがチベット。
昨今、実質的には中国共産党は共産主義という攘夷を捨て、
開国に踏み切り、資本主義的経済改革を推し進めた。
それと共に民族同化というような
アメリカ的価値観を正しいものとしている。


漢民族とチベット民族の違いは
幕藩体制時代の日本における藩の気風の違いみたいなもんだ。
薩摩には薩摩の気風があり、長州には長州の気風がある。
チベット人が「チベット人の誇りを!」などと主張して、
クーデターを起こそうとするならば(薩長のやったことは
クーデターであり、それが成功したから正義となった)、
幕府としては全力でその芽を摘もうとする。
当たり前のことだろうよ。
(余談だけれども、薩摩と長州のように
たとえばチベットと台湾が結べるかね?
そういう努力が出来れば、
また戦況は変わってくると思うよ。
俺は不可能だと思っているけど。)


そこでネット上の人権派の活動家が反論する論旨としては、
「チベットでは虐殺があった」っていうけど、
「それっておまえが見てきたのかよ?」と言いたいな。
親中の(というか「親中」が日本の国益に叶うと思っている)僕自身の
思惑は抜きにしても、そこはツッコミどころだと思う。
(中国は今、日本の幕末と同じような状態なんだと思うよ。
日本は佐幕開国が敗れたけれど、もしかしたら
中国は佐幕開国で成功するかもしれない。
佐幕の新選組は「虐殺」いっぱいやってたねw)


チベット亡命政府側は、ネット時代の現代において
情報の使い方が上手だとは思う。
だから、僕ら遠く離れた場所に居る者としては、
「わからない」が正解じゃないかな。
まあもちろん宗教的にダライラマチベットを信じているなら別。
でも、チベット支持者の彼らに、
それだけの「信」すなわち覚悟はないでしょう?


僕が思う、ネット上でのチベット支援論者の言葉が
安っぽく感じ、ちっとも信用に値せず、
僕が行動を起こそうという気にも
させられないのは、その点なんだ。
彼らには「信」が無い。よって覚悟も無い。
あるのは反共産党というアンチ中国の思想だけで、
その思想さえ、誰かから(ネットの世論?)からの
受け売りなんじゃないのか、と思っちゃうわけですよ。


まあいいんだよ。
「私はダライラマを師匠としています。
だから中国に対しては抗議します」
と、言い切れる人がそういう行動をしているならね、
そういう人なら、僕はその人を尊重するし、
尊敬出来るかもしれません。


でも、今ネットで騒いでる人の多くが、そうじゃない。
安全地帯から「フリーチベット!」なんて叫んでる。
なんか違う、と思うんだよなあ。
【2008/04/13 16:23 】 | 未分類 | コメント(29) | トラックバック(0) | page top↑
俺が思う不思議なこと
学会員個人の不始末は、なぜか
創価学会や池田大作のせいだと言われる
チベットの人の不始末は、なぜか
チベット密教やダライラマのせいとはならない。


これが不思議なんだよ…。


というか、末端のチベットの人が勝手なことをやるように、
学会員は学会員で末端は勝手なことをやっちゃうんだ。
それはしょうがなくね? って思うんだけどな。
【2008/04/06 22:24 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
「○○が正しい」=宗教
「○○が正しい」が大前提となるのが、宗教ってもんだ。
そしてそれを説明するための教義や理屈は後付けなのよ。
その目的は自分または他人に信じさせるためです。
宗教にカテゴライズされるものは、全てこの要素を持ってる。
これは創価学会だって同じだし、他の宗教もみんな同じ。


創価学会は「創価学会が正しい」です。
これがまず大前提としてあり、あとはすべて
これをもっともらしく説明するだけの道具です。


チベットのラマ教(あんなもんの呼び名は「ラマ教」で十分だ)
ってのは「ダライラマが正しい」です。
原始仏教ってのは「釈迦が正しい」。
共産主義ってのは「マルクスが正しい」。
もちろん資本主義ってのは「お金が正しい」です。


で、アンチってのは、
「『創価学会は正しくない』が正しい」
という宗教ですね。
まあだから、学会員とアンチは、話しても埒が明かないのよ。
アンチはアンチという宗教にのめり込んでる。
「学会は正しくない」ということを信じているわけだから、
「学会は正しい」と言う者の言葉は否定してかかるし、
都合の悪い事実には耳を塞ぐわけです。


もちろん学会員だって同じ側面はあるよ、宗教ってそういうもんだから。


それが悪いことじゃないんだな。
そういうもんだと知ってたほうがいいよってこと。
またそこで「これだから宗教は…」って言うヤツは、
自分が「無宗教が正しい」という宗教を信じてることに
気づいてなかったりする。
世の中、宗教でなりたってんだ。


そして、物事を主張するってのは、なにか自分の信じる宗教を
有利にさせるための思惑がこめられてるもんなんだよね。
そうやって言葉の奥にある思惑を読んでいかないと、
彼の思惑に乗せられることとなっちゃう。


最近ネットではダライラマの思惑に乗せられてる人、多そうだな。
と、言ってる俺は中国共産党の思惑を秘めてるかもね(笑)。
【2008/04/02 09:07 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
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